第八章 問い
鶴見と凪は三度にわたって対話した。
最初の二回は、凪のサロンで。三度目は鶴見の研究室で。
鶴見の部屋は白い壁と本棚だけだった。論文の束が机の端から崩れかけていた。コーヒーメーカーが古く、音がうるさかった。
「認識論的な問題から始めましょう」
鶴見はコーヒーを二杯注ぎながら言った。
「私たちが外部の世界を知覚するとき、網膜に入った光の信号を、視覚皮質が処理して、前頭前野が統合して、ようやく『見える』という体験が生まれます。この過程で、脳は驚くほど積極的に補完と解釈を行います。盲点は視野に穴を作らず、脳が周囲の情報から埋めます。カクテルパーティーで自分の名前だけが聞こえるのも、脳の能動的な解釈のためです」
「それは知っています」
「では。あなたが『死者の霊を見る』と言うとき、その知覚経路はどうなっていますか。その信号はどこから来て、どう処理されていますか」
「わかりません。自分には説明できない」
「そこが正直なところでしょう。あなたが見えないものを見ていることは、私も否定しません。しかし、その知覚の内容──これは死者であり、輪廻転生の途上にある魂であり、前世のカルマを持っている──という解釈は、あなたが構築した世界観の中から来ている可能性を、本当に排除できますか」
「排除できない」
凪の喉が乾いた。コーヒーを一口飲んだ。
「私が気にしているのは一点だけです。あなたが見ているものの存在は、保留しておく。しかし、あなたがその見ているものに付与している『意味』──死後の世界、魂の修行、霊的秩序──は、あなたの解釈です。その解釈が正しい保証は、体験の事実そのものには含まれていません」
凪は長い時間、黙っていた。
窓の外で鳩が鳴いた。コーヒーメーカーの保温ランプが赤く光っていた。論文の束が机の端から半分落ちかけていた。
「先生は……死後の世界は存在すると思いますか」
「わかりません」
「本当に、わかりませんか」
「本当に。三十年間、答えを探してきた。到達したのは、誠実な不可知です。それは諦めではありません。わからないままでいることが、今の私にできる最も誠実な態度です」
「怖くないんですか。わからないままで」
鶴見が少し笑った。
「怖いですよ。毎朝、起きるたびに。でも私が見てきた患者の中で、もっとも穏やかに死んでいった人たちは、答えを持っていた人ではありませんでした。問いと一緒に生きることに、慣れた人たちでした」
凪はサロンに帰った。
その夜、凪は一人で部屋の中に座っていた。電灯を消して、窓から入る夜の光だけで、ただ座っていた。
ひとつの問いが、脳の深いところから浮かび上がってきた。
もしも。
もしも死後が「無」だったら。
凪はその問いを、これまで自分の内側に存在させたことがなかった。死は魂の帰還だと知っていた。見えていたから。しかし鶴見の問いは、「見えていること」と「それが何であるかを知っていること」の間に、埋めたことのない溝があることを突きつけた。
無。
絶対の。
そこから先に何もない。記憶も、知覚も、愛したものの痕跡も、すべて電気信号が止まった瞬間に消滅する。輪廻も魂も修行も霊的秩序も、すべて自分が恐怖を管理するために脳が紡いだ壮大な物語だったとしたら。
凪の指先が冷たくなった。




