第七章 見えることと、知ること
五月の末、凪は知人に誘われて講演会に行った。
テーマは「意識と死──臨死体験の科学と哲学」。渋谷の小さなホールで、聴衆は五十人ほど。演者は鶴見脩、元脳神経外科医、現意識研究者。著書は一冊あったが、学術専門書で一般向けではなかった。
凪は最初、期待していなかった。唯物論の科学者が、脳死とNDEについて「科学的に」話すという文脈だと思っていた。
鶴見は白髪で、背が低く、話し方に間があった。スライドは最低限で、大半の時間を語りだけで埋めた。
「私はかつて、臨死体験を信じていませんでした。正確には、信じるとか信じないという問題ではなく、説明可能な神経現象だと考えていました。酸素欠乏、側頭葉の過活動、エンドルフィンの放出。これらで十分に説明できると」
凪は腕を組んで聞いた。よく聞くパターンだった。
「しかし一九九九年に、ある症例に出会いました。私は今もその症例について、公に詳細を語ることを控えています。患者のプライバシーと、私自身の知的な誠実さのため。ただ一点だけ言います。その患者が心停止中に得た情報は、物理的にいかなる経路でも得ることができないものでした。私は三年間かけてその可能性を潰しました。可能性がひとつも残らなかったとき、私は唯物論的な立場を保留しました」
会場がわずかに揺れた。
「ただし、私はその症例をもって、魂の存在を結論しませんでした。一つの反例は、モデルを破壊する根拠になりますが、代替モデルを構築する根拠にはなりません。私にわかったのは、ひとつのことだけです。私が知っていると思っていたことは、私が知っていると思っていただけだった」
講演終了後の懇親会で、凪は鶴見に近づいた。
「あなたの本を読んでいます。鶴見先生」
「ほう。あなたは?」
「ヒーリングサロンを。霊的な体験を、知覚として持つ立場で仕事をしています」
鶴見は凪をじっと見た。上から下まで見て、それから目を合わせた。判断しようとしているのではなく、測っているような目だった。
「あなたが見るもの、それはどのくらいの確度で、あなた自身が信頼していますか」
「確度?」
「信頼度、といってもいい。あなたが霊的な知覚と呼ぶものを、あなたはどれくらい、外部の実在だと確信していますか」
「百パーセント、ということはないです。でも知覚している、という事実は疑えない」
「そこが問題なんですよ」
鶴見はグラスを置いて、
「あなたが何かを知覚していること、それは否定できません。問題は、あなたがそれを『死者の霊』と解釈していること。知覚と解釈は別物です。あなたの脳が何らかのシグナルを受け取っている可能性は、私も排除しません。しかしそのシグナルを『死者の霊』と認識しているのは、あなたの解釈の枠組みです。その枠組みは、あなた自身が検証できていない」
凪は即答しなかった。
これまで何十人もの科学者と話してきた。彼らは大抵、凪の体験を「幻覚」の一言で片づけようとした。凪はその一言を、知覚経験を持たない者の傲慢として内心で退けてきた。
しかし鶴見は違った。
鶴見は「幻覚だ」と言っていない。知覚の存在は認めている。否定しているのは、解釈の確実性だ。
それは、凪が自分自身に問うたことのなかった問いだった。
「先生に、もっと詳しく話を聞かせていただけますか」
「喜んで」
鶴見は名刺を差し出した。




