第十章 告白
七月の暑い夜だった。
凪から透に連絡が来たのは、午後の十時を過ぎていた。「今日、話せますか。電話ではなく、会って話したい」。
透はすぐに返信した。「今から行きます」。
電車に乗りながら、透は何があったのかを考えた。凪の最近の態度の変化を、透は感じていた。遠回しな攻撃性、目の奥の疲れ、言いかけてやめる言葉。何かが変わった。しかしそれが何かを、透は見ないようにしていた。
凪が変われば、自分の足場が崩れる。
その恐怖がある。それを透は知っていた。知っていて、見ないようにしていた。
夜の住宅街。サロンの窓に灯りがついていた。引き戸を開けると、凪は部屋の中央の座布団に座っていた。電気はついていたが、部屋がいつもより暗く見えた。
「来てくれてありがとう」
「何があったんですか」
凪は透の向かいに座布団を示した。透が座ると、凪はすぐには話さなかった。湯飲みが二つあったが、お茶は入っていなかった。からだった。
「鶴見先生というかたと、何度か話をしました」
「鶴見……」
「意識の研究をされている、元脳神経外科医です。講演会で出会いました」
凪はゆっくりと話した。鶴見との対話のこと。「見えること」と「それが何であるかを知ること」の間に横たわる溝。解釈の枠組みが、体験の事実とは独立していること。
透は黙って聞いた。
「それで私は……生まれて初めて、かもしれない、考えたんです」
「何を」
「死後が、無、だったら」
沈黙がテーブルの上に落ちた。
「絶対の無。魂も輪廻も霊的秩序も、全部が脳の産物で、脳が止まった瞬間にすべて消える。そういう可能性を、私は本当の意味では、考えたことがなかった。私は見えていたから。見えていると思っていたから」
「凪さん」
「怖いんです。今、すごく。今ここで話している私が、いつか消えるという恐怖。あなたが毎晩感じてきたものを、私は今やっと感じている」
透の胸の奥の塊が、鋭く収縮した。
凪が恐れている。導いてきた側が、今、恐れている。
「私がこれまであなたに話してきたこと、あれは嘘じゃなかった。私は本当にそう思っていた。でも今は、自分の解釈を信頼できなくなっている。そしてあなたは、私の言葉の上に立っている。それがずっと、苦しかった」
透は何も言えなかった。
凪が崩れていくのを見て、透の防衛システムが警告を鳴らしている。しかし透の中の別の何かが、その警告をかき消した。
「凪さん」
「なんですか」
「凪さんも、怖かったんだ」
長い沈黙。
凪の肩が小さく動いた。それから、顔を手で覆った。
泣き声を出すまいとしているのか、ただ顔を隠したいのか、透にはわからなかった。凪の手の甲の上に、透は自分の手を重ねた。
「私はずっと、見える側の人間だと思っていた。世界の理を知っている側の人間だと。そうじゃないと、私が生きてきた意味がなくなる気がして」
「凪さんが今まで話してくれたことで、私は河野の死を受け止めることができた。それは本当のことです。あなたの言葉の中身が正しかったから、じゃないかもしれない」
「じゃあ何で」
「隣にいてくれたから、だと思う」
凪は顔から手を離した。
目が赤くなっていた。透はそれを直視した。これまで凪に、そういう顔をさせたことがなかった。
「隣にいただけでは……答えにならない」
「答えが必要ですか、今夜」
凪は透を見た。
「あなたも怖いでしょう。私が揺らいだら、あなたの足場も崩れる」
「崩れます」
「怖くないんですか」
「怖い。ものすごく怖い。でも……凪さんが河野のことを、完璧な答えで包んで渡してくれたときより、今のほうが、本物だと思う」
凪はしばらく黙った。
「どうして」
「完璧な答えがある人と話しているとき、私はその答えの隙間を探してた。全然安心できてなかった。でも今、あなたが怖いと言って、私も怖いとわかって……変な話だけど、今のほうが、息ができる気がする」
外で車が一台通り過ぎた。エンジン音が遠くなった。
虫の声が、夏の夜に満ちていた。




