03.諦めからくる病
小学4年生の都筑浩輔は、病院のベッドに横になったまま、ぼんやりと宙を見つめていた。
窓から柔らかな光が差し込んでいたが、小児病棟の六人部屋は、なぜか薄暗く沈んだ空気が漂っていた。それぞれのベッドは白いカーテンで仕切られており、同室の患者たちとの交流はほとんどなかった。ここに入院している子どもたちには、他人を気にする余裕などないのだろう。
身につけている薄い水色の入院着は、もはや私服のように肌に馴染んでいた。できることが限られている環境では、1日がとても長く感じられ、それが苦痛で仕方がなかった。
浩輔が患っているのは、心臓の筋肉が薄く伸びて、全身に血液を送り出すためのポンプ機能が正常に働かなくなってしまう難病だった。
幼稚園に入るまでは、浩輔はごく普通に過ごせていた。だが、次第に少し走っただけで激しく息が上がり、唇が紫色になるほどの酸欠を起こすようになってしまった。小学校に上がる頃には、もはや運動などできる状態ではなかった。
それでも、同級生と一緒に教室で授業を受け、学校生活を送ることができていた。体調不良で先生や周囲に多少迷惑をかけても、浩輔は普通の生活を続けたいと考えていた。
しかし、騙し騙し日常を送るのにも限界が訪れ、2年ほど前から入退院を繰り返すようになっていた。今では、この病室で長い入院生活を余儀なくされている。
入院したばかりの頃は、早く元の生活に戻りたいと思っていた。しかし、満足に食事がとれないせいで身体は細くなり、体力も明らかに落ちていた。いつしか、白く殺風景なこの部屋での生活が、浩輔にとっての日常となっていた。
隣のベッドから、不規則で掠れた寝息が聞こえてくる。カーテンの隙間から見えたその主は、自分よりもずっと幼い男の子だった。ひどく痩せ細り、力なく横たわるその姿からは、死の気配がうっすらと漂っていた。
本能的に目を背けたいと思いつつも、浩輔はどうしても覗き込まずにはいられなかった。そして、自分の将来と彼を重ねて、どうしようもない不安に襲われた。
その重苦しさに引きずられるように、心臓の動きまで鈍くなる錯覚を覚えた。途端にじわりと息苦しさが込み上げ、浩輔は胸を押さえると、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
午後の面会時間が始まると、浩輔の母である律が見舞いにやってきた。
律は耳の高さで切り揃えたショートヘアで、いつも仕事の合間を縫ってやってくるため、決まってスーツ姿だった。凛としたその佇まいに、着替えなどが詰まった紙袋は、少し不釣り合いに見える。
「体調はどう?」
「大丈夫……」
毎回のように交わされるやり取りだが、もはや体調確認の意味を成していなかった。息苦しさやだるさには常に悩まされており、大丈夫な日など1日もない。それでも、お互いを気遣おうとする微かな思いやりが、その言葉に込められている気がした。
母は持ってきた紙袋から、洗濯された下着やタオル、ティッシュといった日用品を手早く棚へしまっていった。それが終わると、丸椅子を引き寄せて、ベッドの傍らに腰を下ろした。
「今日の分のドリルはやった? こういうのは、毎日の積み重ねだからね」
浩輔は心の中で、いつもなら後に続くはずだった言葉を思い浮かべた。
『いつか、学校に戻る時のために……』
その言葉を聞かなくなったのは、いつの頃からだったろうか。母も無意識のうちに、もはや学校に戻ることに、現実味が持てなくなっているのかもしれない。浩輔はそんなことを考えつつも、言われた通りに、毎日の勉強は欠かさずにいた。
ドリルはもう済ませたと伝えながら、浩輔は父親について尋ねた。
「パパ、次はいつ来るの?」
入院当初、父の伸行は頻繁に顔を出してくれていた。しかし、入院生活が長引くにつれて顔を見せる回数は次第に減り、今では月に数回やってくる程度だった。
「仕事がずっと忙しくて、今週末も来られないかもしれない。家族のために頑張って働いてくれてるんだから、許してあげてね」
「分かってるよ。大変だもんね……」
父はデリバリーに特化した外食チェーンを経営していて、今まさに業績を大きく伸ばしているところだった。母も役員としてその経営を支えており、両親が常に忙しいことは、浩輔も十分に理解していた。
何より、浩輔の病気を治すには、心臓移植が最善だと医者から説明を受けていた。
子どもの医療費助成があるおかげで、日々の入院費や治療費の負担はそれほど大きくはなかった。しかし、もしドナーが現れて心臓移植を受けるとなれば、チャーター機などの臓器搬送費として、数百万円もの支払いが必要になるという話だった。その大金を用意することがどれだけ大変なことか、小学4年生の浩輔にも理解できた。
ただ、浩輔は父親が見舞いにやってこないのは、別の理由があるのではないかと考えてしまう。
今までの努力が実り、目に見えて成果が出ている仕事は、やりがいがあるだろう。いくら見舞いに行っても、息子の体調は良くなるわけではない。それなら、家族のためと仕事に熱中している方が、気持ち的に楽なのではないだろうか。
浩輔は時折そんな嫌な想像をしては、自己嫌悪に陥っていた。
しばらく無言の間が続いた後、母は座っていた椅子から立ち上がった。
「……何か、必要なものはある?」
「特にないよ」
「それじゃあ、次は水曜日に来るから」
浩輔はベッドに横になったまま、母親の後ろ姿を見送った。最近、母の滞在時間も徐々に短くなっている気がした。
家族からの愛情を、疑ったことは一度もなかった。ふたりが無理をして、自分のために尽くしてくれていることも分かっていた。自分という存在が、どれだけ家族の重荷になっているのか、考えると苦しかった。
それでも、両親にはもっと会いに来てほしかった。特別なことは何もしなくていいから、もっと長くそばにいてほしかった。
しかし、これ以上無理をさせたくなくて、浩輔はその言葉を飲み込んだ。
「またね……」
閉まったドアに向かって呟いた浩輔の声は、薄暗い病室の中に小さく響いて消えた。
ひとりになり、浩輔は電子書籍リーダーを取り出した。それは、入院してしばらく経った頃、母から買い与えられたものだった。
本当は普通のタブレットが欲しかったのだが、動画ばかり見ているとバカになると母に反対されたのだ。その代わりとして渡されたのが、文字を読むことに特化したこの端末だった。
液晶と違って画面が光らず、まるで本物の紙に印刷されたような質感や、画面が切り替わる様子は新鮮だった。目に優しく、長時間読書しても疲れないので、浩輔はこれをとても気に入っていた。
今の時代、サブスクに入れば安く大量の本を読むことができた。母から勧められた世界名作シリーズや歴史ものを皮切りに、目についたものを次々と夢中で読み進めた。古い小説だけでなく、昔の漫画も無料で読めるので、母に隠れて楽しんでいた。
時間ならいくらでもあるので、一日中読書に集中する日々が続いた。読んだ本はすでに数百冊を超えているだろう。物語にのめり込んでいる時だけは、辛い現実を忘れられた。
本を通じて、さまざまな世界に触れ、知識を得ることができた。そうして、病気のこと、家族のこと、将来のことを考え、辛くなった時は再び物語の世界に没頭するのだった。
夕食の時間となり、トレイに乗った食事がベッドの簡易テーブルに運ばれてきた。浩輔は読書を中断し、見栄えが良いとは言えない食事に手をつける。
浩輔の食事には、厳しい水分と塩分の制限が課せられていた。塩気も風味もないメニューは、ひたすらに味気ない。それでも、食べられる時には、できるだけ口にするようにしていた。栄養を摂らなければ点滴に頼ることになり、今以上に日常から遠ざかってしまうからだ。
食事を終えた頃、看護師の森翔子が病室にやってきた。彼女は長い髪を後ろでひとつに結び、紺色のVネックのユニフォームを身につけていた。化粧っ気がなくても可憐で、まだ大学生と言っても通じるほどの若々しさがあった。
翔子はテキパキと検温などをこなし、浩輔のベッドまで来ると、笑顔で話しかけてきた。
「お、今日はご飯、残さず食べられたのね」
翔子は配膳トレイを見ながら、手元の端末に何やら記録している。
「このトレイを見るたびに、翔子さんがやらかした時のことを思い出すよ」
浩輔がそう言うと、翔子は頬を膨らませて抗議した。
「何年前の話をしているのかな? いい加減に忘れてよ!」
翔子は、浩輔の入院と同時期に配属された看護師だった。新人の頃の彼女はいつも慌てており、浩輔の配膳トレイをベッドの横でひっくり返してしまったことがあった。
あれは不慣れな時期のミスで、今となっては彼女も立派に仕事をこなしてくれている。浩輔がその話をわざわざ持ち出すのは、そうすることで彼女がより気さくに話してくれるからだった。家族以外で気を許せるのは彼女くらいであり、入院生活での癒やしとなっていた。
浩輔の持つ端末を横目に、翔子が何気なく尋ねた。
「今は何の本を読んでるの?」
「『銀河鉄道の夜』って知ってる?」
「ジョバンニとカムパネルラね。懐かしい! どこまで読んだの?」
浩輔の問いかけに、翔子が弾んだ声で答えた。
「ちょうど、銀河鉄道に乗ったところ。宮沢賢治って、もっと難しいのかと思ってた」
「受け取り方は、難しいかもしれないけどね……。でも、ちゃんと名作を読んでおくのは、いいことだと思うよ!」
翔子からそう言われて、浩輔は少し頬を赤くした。彼女に褒めてほしくて、読書家をアピールしている節は否めなかった。
そんな浩輔の気も知らず、空になった食事のトレイを丁寧に持ち上げながら、翔子は思い出したように言った。
「そういえば、向かいのベッドに同い年くらいの男の子が入院してくる予定なの」
「そうなの?」
「お友達になれるといいね!」
翔子は、友達ができるのは良いことだと考えているようだった。けれど、この場所では必ずしもそうとは限らない。浩輔はそう思ったが、あえて口にはしなかった。




