02.最後にできる悪あがき
どこまでも白く無機質なこの空間は、かつて長く過ごした病室を連想させた。病院独特の鼻をつく薬品の匂いや、規則的な電子音が脳裏によみがえる。
7日という絶対的な余命宣告を受けた自分たちは、さながら隔離された終末期病棟の患者のようだった。
すでに珠を巡る争いは決着がついており、目立った動きを見せる者はいない。誰もが未来を諦め、人生の終わりを受け入れたかのように見える。――少なくとも、表面的には。
和やかに過ごす人々を眺めながら、都筑はそんなことを考えていた。
虚脱した空気の中、穏やかな話し声が聞こえてくる。そちらを見ると、梓がみことを抱き寄せるようにして座っていた。
「『先生』とか、『学校』とかはもう習った。あとは、『空』とか、『雪』とか」
「へえ。もうそんな難しい漢字も書けるんだ」
「習ってないけど、『柚子』も書けるよ」
「柚子? ああ、苗字が柚浅だからか。よく覚えたね」
みことの表情は相変わらず乏しいが、どこか年相応の幼さが感じられるようになっていた。梓に対して心を開いたのか、少し甘えるような仕草を見せている。一方、梓からも以前の妖艶な雰囲気は消え、母親のような穏やかな包容力が漂っていた。
「まるで、本当の親子みたい」
隣で結衣香が呟いた言葉には、少し寂しげな響きが含まれていた。都筑は、思ったことをそのまま口にする。
「保護者役を奪われて、寂しい?」
「そんなんじゃないけど……」
その役目を譲ることになり、どこか複雑な思いを抱くのも無理はないだろう。
「まだ、私に母親役は無理だし、収まるところに収まったって感じがする」
しかし、結衣香の言葉に悲壮感はなかった。都筑は小さく頷き、隣に立つ彼女の様子を窺った。
早朝の一件は目撃者が少なかったこともあり、それほど大きな騒ぎには発展しなかった。結衣香を襲ったあの男も、批判を恐れてか、その後一度も姿を見せていない。
彼女は平静を取り戻しているように見えるが、一人で行動することを怖がっているようだった。あんな目に遭った後なのだから、臆病になるのも無理はない。
「いつものように、散歩でもする?」
「いいよ!」
都筑の誘いに、結衣香は弾んだ声で応じた。二人は並んで、いつもよりもゆっくりと歩き始める。
こうして並んで歩くのも、今日が最後だと思うと感慨深い。当初は偵察に近い行為だったが、結衣香と一緒だったから楽しめたのだと、都筑は今さらながら実感していた。
そんな彼らの横を、数人の子供たちが前方から駆け抜けていった。
「待ってぇ……!」
その子供たちを、花蓮が必死に追いかけてくる。
「遅いよ! このままだと、花蓮がずっと鬼だぞ!」
「捕まえてくれないと、面白くないじゃん!」
元気すぎる子供たちに、花蓮はすっかり翻弄されていた。彼女はよろよろと立ち止まり、肩で息をつきながら、必死に呼吸を整えようとする。
「なんで、ずっとあのテンションでいられるの……。休憩とかないの?」
彼女はだいぶ消耗しきった様子で、近くに立つ男女へ助けを求めた。
「もうダメ……。太一、交代してよ!」
「いやだよ。疲れるし」
そう答えたのは、以前に飴と珠の交換を持ちかけていた太一だった。その隣では、彼の提案に応じていたショートヘアの女性が、穏やかな微笑みを浮かべている。
「栞も混ざってよ!」
「いいよ! じゃあ、私が鬼ね!」
栞と呼ばれた女性が、鬼になって子供たちを追いかけ始める。すると、子供たちは先ほどとは打って変わり、露骨に走るペースを落とし始めた。
「はい! タッチ!!」
「あー、つかまっちゃった!」
子供たちはすぐに栞に捕まり、嬉しそうに声を弾ませた。
「ちょっと! 何、手加減してるのよ! 私の時と、あからさまに態度が違うじゃない!」
子供たちのその露骨な態度に、花蓮は憤慨して声を上げた。そんな彼女の姿を見て、都筑と結衣香は顔を見合わせ、苦笑した。
周囲の大人たちも、子供たちの無邪気な様子を微笑ましく見守っていた。すぐ隣では、スーツ姿の会社員らしき一団が、とりとめのない雑談に興じている。
「なんか、夏休みが終わる直前みたいな気分だな」
「あ、わかります。こんなにのんびりしたのは、久しぶりですよ」
三十代の営業マンらしき男性の言葉に、若い女性が同意した。すると、一団の中でも最年長らしき、少しくたびれた印象の男性が溜息混じりにこぼした。
「ここじゃあ何も出来ないし、強制的に休むしかないからな……」
「何であんなに毎日忙しかったのか、今となっては不思議に思えてきましたよ」
彼らの話は、いつしか仕事の愚痴へと流れていった。ふと見渡せば、この数日間で打ち解けたグループがあちこちにできており、誰もが終わりを待つ時間を惜しむように、穏やかに談笑している。
そんな人々の間を歩いていると、ヤクザ風の男2人とサラリーマン、それに小学生という、アンバランスなグループに声をかけられた。
「よう! 朝は大変だったみたいじゃねえか。俺が一緒なら、そんなクソ野郎、サクッと片付けてやったんだがな!」
派手な模様の入ったジャージを着た清が、親しげに笑いかけてきた。本来であれば気安く言葉を交わすような相手ではないが、何度か顔を合わせるうちに、いくらか親しみを覚えるようになっていた。
「正直、代わってほしかったですよ。人を殴るなんて、初めてだったので……」
都筑が本音を漏らすと、結衣香がいたずらっぽく笑った。
「でも、凄かったよ。おとなしい人ほど、怒らせると怖いんだなって実感した!」
「からかうなよ……」
都筑は苦々しく顔をしかめた。あの時は無我夢中で、自分が周りからどう見られていたか、あまり想像したくなかったのだ。
立ち話をする都筑たちの元へ、輿田がゆっくりと歩み寄ってきた。堅気ではない気配を纏っているが、その声はどこか穏やかだ。
「まあ、冗談じゃなく、危ない時は呼ぶんだな。今はいいが、これからどうなるかわからねえ」
「ありがとうございます。……正直、頼もしいです」
物騒な物言いではあったが、都筑は素直に礼を言った。もしもの事態が起きた時、結衣香たちを守るのに協力してくれるのなら、これほど心強いことはない。
輿田の後ろには、小学生の俊介が俯いて立っていた。その浮かない様子に気づき、スーツ姿の小林が心配そうに尋ねた。
「どうしたんだい、俊介くん? 元気がないみたいだけど」
「いや、その……」
俊介は言いにくそうに視線を落としていたが、ぽつりと小さな声で漏らした。
「せっかく、おじさんたちから珠をもらったのに。無駄にしてしまったような気がして……」
俊介はこのメンバーから、珠を託されていたらしい。しかし、百個の珠を集めた者が現れた今、彼が持つ珠には価値がないように思えた。
「そんなことを、気にしていたのかい?」
「しかたねえだろ。んなもん、気にするこたねえよ!」
周囲から声をかけられても、俊介の顔は晴れない。彼は所在なげに視線を彷徨わせていたが、不意に何かに思い至ったように顔を上げた。
「そうだ!」
駆け出した俊介を目で追うと、彼はみことと梓のもとへ向かっていった。
俊介がふたりに話しかけたかと思うと、その手からまばゆい光が溢れ出した。どうやら、自分が持っていた珠を、すべてみことに渡したようだ。
小走りで戻ってきた俊介は、少し照れくさそうに笑った。
「意味ないかもしれないけど……僕たちの分も、あの子に持っていってほしくて!」
持っていた珠に、自分の意志や願いが宿っているとは思えない。だから、その行為にどれほどの意味があるかはわからなかった。
それでも、俊介に珠を託した大人たちは、少年を見て満足げに微笑んでいた。
「いいんじゃねえか、それで」
「お前に託したんだ。好きにすればいいさ」
「そうですよ!」
清々しい表情を浮かべる彼らを、結衣香は少しまぶしそうに見つめていた。
彼らと別れた後、ふたたび並んで歩き出したものの、結衣香の様子はどこか上の空だった。考え込むように足を止めた彼女に、都筑が声をかけた。
「どうかした?」
「私は、どうしようかなと思って……」
結衣香はまだ、自分の珠を持ち続けていた。彼女はポケットからそれを取り出し、白光に透かすようにかざした。淡い輝きを見つめていた彼女は、やがて意を決したように都筑を振り返った。
だが、不意に彼女の視線が都筑の背後へと注がれた。
「あれ……何してるんだろう?」
都筑が振り返ると、少し離れた場所に小さな人だかりができていた。人々は無言のまま、熱心に地面を見つめている。
近寄るにつれ、真っ白な床に赤い模様のようなものが見えてきた。よく見ると、それは赤いマジックで書き込まれた文字列だった。
『先立つ不幸をお許しください。悔いはあっても、それなりに幸せでした。渡辺由紀』
その一節を読んで、二人は言葉を失った。
「……遺言、かな?」
結衣香がぽつりと呟いた。
そこには、十数人分ものメッセージが、床を埋めるように書き連ねられていた。そして今も、一人の男性が真剣な表情で地面に文字を書き足している。
その赤いマジックは、誰かがどこからか持ち込んだものだろう。
都筑もそのマジックを手に取り、壁に落書きをしたことがある。正面の壁には、あの時書いた『1/127』という文字が、まだ残されていた。
結衣香が床の文字を眺めていると、歩み寄ってくる女性がいた。
「それ、私が書いたやつです。人に見られると、やっぱり恥ずかしいですね……」
話しかけてきたのは、オフィスカジュアルに身を包んだ三十代半ばの女性だった。彼女こそが、このメッセージを記した渡辺由紀なのだろう。
結衣香は慌てて文字から視線を逸らし、謝罪の言葉を口にした。
「す、すいません! 勝手に見ちゃって……」
「いいの、いいの。見えるところに書いたのは、私の方なんだから」
渡辺は自嘲気味に笑って、説明してくれた。
「もし死んだ人間がここに来るなら、いつか私の家族もここを通るかもしれない。誰かがそう言って、メッセージを書き始めたの。実際に見てもらえる可能性なんて、限りなく低いんだろうけど。最後にできる、悪あがきみたいなものかな……」
マジックを握る男の後ろには、順番を待つ数人の列ができていた。そのうちの一人が、結衣香を見て言った。
「君も書くかい? 少し待つことになるとは思うけど」
「そうですね……。ちょっと考えます」
結衣香は少し逡巡したものの、列から離れて歩き始めた。都筑は、彼女の後を追いながら声をかける。
「気になるなら、並んでおいた方がいいんじゃないか?」
マジックを待つ列はまだ数人だったが、これからさらに増えるかもしれない。しかし、結衣香は不意に立ち止まって都筑と向き合った。
「それよりも……都筑くんのこと、もっと教えてほしいの」
「え?」
彼女からの意外な言葉に、都筑は驚いた。
「ずっと、気になっていたの。どうしてあんなに簡単に、自分の珠を人に譲ることができたのか」
自分が最初に珠を手放したことが、彼女の中で美化されているのかもしれない。だが、あの行動の根底にあるのは、どちらかというと後ろ向きな理由だった。
「……自己犠牲だとか、そんなポジティブな理由じゃないよ」
都筑は苦々しく答えたが、結衣香は視線を逸らさず彼を見つめ続けていた。
「教えて。都筑くんのこと、もっと知りたいの」
真剣なまなざしを前に、都筑は降参したように小さくため息をついた。言いたいことも、言いたくないことも、ただ正直に話すべきなのだろう。
「俺は難病で、幼い頃は満足に学校にも行けなかったんだ。本当なら、この歳まで生きるのは難しいと言われていた……」
都筑は静かに目を伏せ、死と隣り合わせだった過去へと思いを馳せた。




