01.幕引き前の凶行
最終日。運命の7日目に、結衣香は目を覚ました。
常に明るいこの部屋では時間の経過が掴みづらいが、おそらくまだ早朝だろう。辺りは静まり返り、人々は深い眠りの中にいた。
結衣香は音を立てないように体を起こすと、隣で眠っている都筑の様子をうかがった。彼は腕を枕代わりにし、背中を丸めて横向きに寝ている。普段の冷静な表情とは違い、無防備な寝顔は少し幼く見えた。
結衣香は息を殺して、しばらくその寝顔をじっと見つめていた。視線がまつ毛から唇へと移ると、急に恥ずかしくなって頬が熱くなる。彼を起こさないよう、結衣香はそっとその場を離れた。
眠っている人々を避けながら、ほてる頬を冷まそうと天井を見上げ、ゆっくりと歩を進める。規則的な自分の足音だけが、静寂の中で小さく響いていた。
ここ最近、都筑のことばかり考えている気がする。彼のことが好きなのかと聞かれても、まだ断言できる自信はない。けれど、彼に強く惹かれているのは確かだった。
都筑のことを、もっと知りたい。彼の少し憂いを帯びた表情には、どんな理由があるのだろうか。彼の内面に踏み込むための時間が欲しかった。
あと3日。せめて、もう1日だけでも……。
だが、もう猶予はない。知りたいと思うのなら、勇気を振り絞って踏み込むしかないのだ。たとえ拒絶されたとしても、後悔だけはしたくなかった。
結衣香は決意を胸に、真っ直ぐ前方を見つめる。
彼女は背後から足音を殺して近づいてくる気配に、気づくことができなかった。その男はタイミングを見計らい、不意をついて結衣香に襲いかかった。
「……っ!?」
突然背後から口を塞がれ、結衣香は悲鳴を上げることすらできなかった。はがいじめにされ、訳もわからず身動きがとれなくなってしまう。
「騒ぐなよ。俺も女を殴る趣味はないんだ。おとなしくしろ」
顔は確認できないが、その声には聞き覚えがあった。以前、ネットカフェでバイトをしていると語っていた男だ。名前すら思い出せないその男は、荒い息をしながら結衣香の耳元で囁いた。
「見せつけるようにイチャイチャしやがって。どうせ死ぬんだ。最後に、俺にもいい思いをさせてくれよ!」
男は空いた左手で、彼女の胸をまさぐり始めた。
「ん……っ、う……んっ!」
結衣香は顔を真っ赤にして抵抗するものの、力で押さえつけられ、振り解くことができない。助けを呼ぼうにも近くに人影はなく、眠っている人たちに彼女のくぐもったうめき声は届かなかった。
「いい体してるじゃねえか! 何カップだよ?」
首元のリボンが乱暴に引きちぎられ、シャツのボタンが弾け飛んだ。はだけたシャツと乱れたキャミソールの下から、水色のブラが見え隠れする。
恐怖で、結衣香の瞳から大粒の涙が溢れた。
(嫌だ……! 誰か、助けて!!)
こんな男に汚されたくない。強く拒絶するほど、結衣香の背筋を絶望が這い上がっていく。
(助けて! ……都筑くん)
結衣香が心の中で彼を呼んだその瞬間、背後から鋭い声が響いた。
「その手を離せ!!」
駆けつけてきた都筑の拳が、男の顔面に叩き込まれる。殴られた男ともつれ合うように倒れ込んだおかげで、結衣香は拘束から逃れることができた。
都筑は間髪入れず、倒れ込んだ男の鼻先を容赦なく蹴り上げる。
「ぐはっ……!」
地面にへたり込んだ結衣香は、ふたりが争う様を呆然と見つめていた。
いつも冷静な都筑がためらいなく暴力を振るう姿に、結衣香は息を呑む。しかし都筑は線が細く、対峙する男の方が体格が良かった。その差が、徐々に形勢に現れ始める。
男は攻撃をガードしながらやり過ごすと、低い姿勢から体当たりして都筑を押し倒した。男は重量差を生かして馬乗りになると、都筑の顔面を殴りつける。
「くっ!」
うめく都筑に、男は勝ち誇った表情で言い放った。
「カッコつけられなくて残念だったな、優男!」
都筑は両腕で顔を守ろうとするが、体重を乗せた拳を防ぎきれず、ガードの合間から次々と打撃を叩き込まれていく。その一方的な暴力に、結衣香は悲鳴をあげた。
「誰か助けて!! 誰か!」
騒動は伝わっているはずだが、すぐに駆けつけてくれる人影はない。次第に都筑の抵抗は弱まり、されるがままになっていった。
「やめて……」
結衣香は胸を締め付けられながら、弱々しくつぶやくことしかできない。
男は疲れたのか、殴るのを止めて大きく息を吐く。勝利を確信したのか、都筑の胸ぐらをつかみ上げると、強引に顔を近づけて吐き捨てた。
「ずっと、お前のことが気に食わなかったんだ! スカした態度しやがって」
「そうか……」
掠れた声でそう答えた瞬間、都筑の手が素早く男の顔に伸びる。そして、彼の親指が男の右目を深々とえぐった。
「ぎ、ぎゃあ!」
男はのけぞり、悶絶しながら倒れ込んだ。都筑はその隙を逃さず、素早く男の背後にまわり、首に腕を回して締め上げる。
「や、やめ……ろ」
男は振り払おうと必死にもがくが、都筑の腕は完全に喉元を捉えており、顔色が赤紫へと変色していく。それでも都筑は一切の感情を交えず、渾身の力でさらに首を締め上げた。
鈍い音が響き、結衣香は思わず目を背ける。
都筑がゆっくりと手を放すと、男は力なくその場に崩れ落ちた。その姿は、完全に事切れているように見える。
結衣香が大きく息を呑んだ次の瞬間、死ぬことができないこの部屋の特性により、男はすぐに息を吹き返した。
「がっは! はあ、はあ……」
都筑は肩で息をしながらも、這いつくばって咳き込む男を見下ろし、冷ややかに言った。
「彼女に手を出すなら、何度でも殺し合いに付き合ってやるよ!」
そう宣告された男の顔には、明らかな恐怖の色が浮かんでいた。一切の躊躇なく殺しにきた都筑を、完全に恐れているようだった。
そして、ようやく騒ぎに気づいた人々が集まり出した。
「どうした? 何があった!?」
「女の子が襲われたみたいだぞ」
「なんだって!」
周囲からの非難の視線を浴びる前に、ネットカフェの男は逃げるようにその場を去っていった。
完全に脅威が去ったことを確認し、都筑は大きく息を吐いて脱力する。先ほどまでの冷酷な気配は嘘のように消え去り、いつもの穏やかな表情で結衣香に微笑んだ。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう。誰にも気づいてもらえないかと思った……」
「君が起きたのは分かったから、どこへ行くのかと思ってさ」
都筑はそう言って、少し照れくさそうに笑った。彼が自分を気にかけてくれていたのは嬉しかったし、実際にそのおかげで助かった。
「体力に自信ないし、マウント取られた時はどうしようかと思ったよ」
都筑はそこまで言うと、ふと何かに気づいて視線をそらした。結衣香は自分の胸元がはだけていることに気づき、急いでシャツを手で押さえて都筑をにらむ。
「いや、ちょっとしか見てない……」
「見てるじゃん!」
バツが悪そうに頭をかく都筑を見て、気が抜けるのと同時に、結衣香の目からとめどなく涙が溢れてきた。先ほどの恐怖がぶり返し、抑えきれない震えが全身を駆け巡る。
「怖かった……。もう、ダメかと思った……」
そう嗚咽を漏らしながら、都筑の袖をそっとつかむ。その小さな支えがないと、恐怖でその場に崩れ落ちそうだった。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫」
優しさと力強さを込めて、都筑がそうつぶやいた。彼は結衣香を抱きしめるわけでもなく、すっと隣に寄り添ってくれている。その適度な距離感の優しさが、折れかけた結衣香の心を支えてくれた。
やっと涙がおさまり始めた結衣香は、目元を拭いながら小さくつぶやいた。
「ねえ、お願いがあるの……」
「なに?」
結衣香は懇願するように、真っ直ぐ彼の目を見つめて言う。
「最後まで、一緒にいて」
その切実な訴えに、都筑は穏やかな微笑みを返した。
「……わかった」
その言葉に、結衣香は襲われた恐怖をかき消す以上の深い安心感に包まれた。
運命の一日は、そんな騒動と共に幕を上げたのだった。




