2
リィリ共和国は海と接していない。大陸のほぼ中央にある小国だから。
栩麗琇那が言ったのは、別の国に接している海だった。二人はリィリの西北方、サージソート王国に現れた。この国の最北は、冬場は極寒の地だが、夏場は他国に比べると数段過ごし易い。
小高い丘の向こうに濃い青の色が広がっている。適度な浜風が吹き上げて来る。
ここは、例の、秘密の場所。異世界に迷い込んだルウの皇子が、九十五里の加賀家に行き着く要因にもなった場所。
これまでは一人になる為の地だったから、誰かを連れて来ようなどとは考えもしなかったが……
敢えてその身に結界を張らなかったので、琴巳は蒼杜の指摘通り、たった一度の移動で息を乱していた。当人はそのことに頓着せず、眼前の景色に目を奪われたのか、肩で息をしながらもニ、三歩前に出て、佇んだ。
頭の少し上で束ねた漆黒の髪が、細い首許でさらさらと風に流れる。栩麗琇那に、潮の香と共に、花の匂いもほんの少し届いた。
「ここに居る?」
琴巳は、ようやくという感でこちらを見た。
「浜に、降りれるの?」
栩麗琇那は頷くと歩き出す。並んでから、琴巳は余程印象深かったのか、振り返った。「九十五里の浜から見るより、おっきい気がした」
「あそこは湾になっていたからな」
「リィリの森も好きだけど、ここの海も素敵」
溜め息まじりに琴巳は言うと、可憐な笑みを見せた。「連れて来てくれて、ありがと」
心に澄んだ音が伝わり、栩麗琇那は決意がぐらつきそうになる。視線を逸らして黙然と足を運んだ。
浜は、加賀家のより三倍ほど横に広かった。粒子の細かい白砂が、例え様も無く美しい。琴巳は初めその砂に感動していたが、きょろきょろと周囲を見回し、やがてこちらを見上げた。
「こんな綺麗な所に、誰も来ないみたいね」
「ここは九十五里の浜に似ている。さっきの丘の所からしか降りれないが、丘の反対側はほぼ垂直の断崖だ。普通の人間には丘まで登って来ることができない」
栩麗琇那は海を示した。ごつごつとした巨大な岩がぽつぽつ見える。「舟でも来れない。海流が複雑になっていて、まずここの造船技術では舵を取られる。目指して来ることは不可能だ」
琴巳は、説明を聞きながら、遥か遠くに目を向けた。
「贅沢ね……」
栩麗琇那は適当な所に腰を下ろした。立ち尽くして海を見つめる姿を見上げる。
「満足したか」
「うんうん、とっても」
漆黒の瞳をきらきらさせて振り返った琴巳に、栩麗琇那は言葉を絞り出した。
「じゃあ、そろそろ碧界に帰りな」
え、と言う形に桜色の唇が動いた。ややして、琴巳はゆるゆると首を振る。
「か、帰りたく、ない」
「帰れ」
栩麗琇那は寄せる波に目を投げた。「コトミは、この世界に不向きだ」
「……来たばっかり、だもの。しょうがないでしょ」
ふらりと傍らに座り込み、琴巳は震える声で言った。「お兄ちゃんだって、あっちの世界に、そんなすぐに、馴染まなかったんでしょ」
「俺は、瞬間移動したぐらいで息は乱れない」
びくりと琴巳が肩をすくめる。やけに疲れることは解っていたのだろう。
だのに、そういうことは一言も訴えず、こうしてついて来る。
「俺が大陸の守護を務める皇帝と知っていながら、何を望んで世界を越えて来たんだ」
「……会いたかっただけなの……お兄ちゃんに、会いたくて――」
「もう会ったじゃないか」
ひとえに栩麗琇那の為と聞かされ、狂喜と絶望に気が変になりそうだった。
琴巳は懸命に涙をこらえている顔で、言霊を紡いだ。
「こうして、たまに会えるだけで、いいの。この世界に、居たい――お兄ちゃんの居る、世界に」
「俺はこれ以上、何があるか知れない大陸に居てほしくないんだ!」
思わず吐き捨てると、琴巳は身をすくめる。栩麗琇那が砂の上で拳を握り締めると、琴巳はふるりと髪を揺らして身を乗り出した。
「何処でも同じ……碧界だって、運が悪いと理不尽な事故に巻き込まれたりするもの」
「けど、この世界には、おかしな力を使う奴まで居る」
栩麗琇那は向かい来る波に向け術力を放った。迸った力が波に当たり、バッと大量の飛沫が跳ね返る。
スコールのように雫が降り注ぎ、びしょ濡れになって茫然としている細い身体を、栩麗琇那は砂地に押し倒した。
「コトミ、この前は運が良かっただけだ。手練の人攫いが相手だったら、こうしてこのまま目茶苦茶にされてた」
琴巳の頬は濡れていたが、海水か涙か判らなくなっていた。潤んだ円らな瞳が見上げてくる。
「じゃ、もう、このまま、お兄ちゃんが目茶苦茶にして」
なんでそうなる、と言い返したかったが、高鳴る鼓動が邪魔をした。
「碧界に、帰るなら」
砂にまみれた手指を絡めると、漆黒の双眸から見る間に涙が溢れた。嗚咽混じりの声が、嫌、と応じた。
「他の、人に、目茶苦茶、されても、お兄ちゃんの、世界に、居る」
鼓動が、胸を打って痛かった。
衣服が張り付き線の浮き上がった身体は、常に無いしどけなさで。
ほつれた裾と細かな砂のついたふくらはぎは、まるで穢された後のようだった。
この世界に在り続ければ、遠くない未来に起こりそうな光景。
白い波が、寄せて、遠ざかり。
再び寄って来た時、揺れる瞳に映る己を見ながら、栩麗琇那はゆっくりと身を沈めた。ゆるりと睫毛を伏せた琴巳の唇に、心奥の熱を重ねる。
唇から、互いを感じたのは寸時。
「碧界に帰るんだ、コトミ」
唇を浮かせ、栩麗琇那はきつく目を閉じた。「俺は、君を幸せにはできない」
身を起こし、手を取ったが、琴巳は駄々をこねるように立とうとしなかった。やむなく念動で宙に浮かして抱き上げる。
リィリの自宅へ送り届ける間、琴巳は泣きじゃくりながら耳元で何度も言っていた。
お兄ちゃんしかいない、と。
ルウの皇帝の新たな妃候補、柴希は、寝室の暖炉前に広がる敷物の上で丸くなっていた。
所謂良家と目される所の娘は結婚するまで実家暮らしが多く、柴希も例に漏れない。常から良家の末端に生まれた身を苦々しく思っているけれど、もしかすると家格が上がるかもしれないこのお役目。その初日に、瞬間移動でこっそり家に帰って一人寝というのは流石にできなかった。
反骨心とは違うところに臣下の分を叩き込まれている身で、帝の寝台に一人で横臥するわけにもいかず。別の部屋を探そうにも、後宮内を無闇に歩き回ることは予め老から禁じられていた。
それにしても、やはり敷物程度では身体が痛む。柴希は頻繁に寝返りを打っていた。眠りも浅い。
何度目か、目が覚めて半身を起こした。緩く波うつ髪を払い、痛む肩をさする。
帝は皇領へ視察に行くと言ったが、要するに花街巡りのような気がする。年嵩の娼婦は芸を持たねば安値だろうし、異界から帰ったばかりの皇帝でも気安く通えるのだろう。しかし還暦近くの娼婦など居るものなのか、柴希には未知の世界だ。
御年二十二になろうという帝がねぇ……ウチの母様より年上が好きとか、どうなってるのよ。碧界に毒されてるんじゃないかしら。
一つ鼻で息をつくと、柴希は憚りない声で独り言を洩らした。
「うー、前の子は何処で寝てたの。ちょっとキツいなぁ、ここ」
「こことは何処だ」
美しい低音と共に、寝室の扉が開いた。帝が姿を現す。こちらを見つけると、眉を上げた。「しょうがないな。使えそうな部屋を一つ掃除しておこう」
束の間、柴希は扉口の青年をぼんやり見つめ、慌てて拝跪した。皇帝、栩麗琇那に関してはいい噂を聞かないので多少自棄っぱちで役目を引き受けたが、老長の弁護通り、邪気溢れる異世界で育ったにしてはまともかもしれない。女性の好み以外は。
柴希なりに好意的な感想をいだいてから、視察という名の花街巡りについて思い出した。
「視察先にお好みの年配女性はいらっしゃいませんでしたか」
「わたしは何の視察に行ったことになってるんだ」
帝は即応してから、隣続きの小部屋に向かう。本当に僅かな、押し殺した溜め息の音を聞き取り、柴希は立ち上がった。歩み寄る。
「わたくしは慰み者にございます。憂さを晴らすには打ってつけでは」
弱まりつつある月光を受け、足を止めた帝は口をすぼめた。男にしては柔らかそうな髪に指をうずめる。
「憂さを晴らしたいのはやまやまだが、ルウの誇りがあるなら自分をそのように言うな。わたしは隣の部屋で適当に休む。君はもう、妙な遠慮をせずにその寝台を使うといい」
柴希は、間近で見ることが叶った顔にぼうっとしてしまった。なんと、相当の男前だ。
これで年増好きなんて……!
帝は、訝しげにこちらを見返した。肩をすくめると再び歩き出し、隣室の扉に手をかける。柴希がふらふらついて行きかけたら、来るなと言いたげに手で制された。
仕方なく、柴希は立ち止まる。
帝は手を下ろすと隣室の扉を開けた。空気が流れ、微かに、花のような品のいい香が漂った。しつこくなく、爽やかな匂い。
隣の部屋から薫ったにしては、僅かな間で鼻先から消える。
移り香と察し、柴希は改めて帝を見た。
うつむきがちに扉を閉めかけていた青年皇帝は、こちらをもう見ていなかった。片手で扉を閉めながら、片手の指先が唇をなぞる。その仕種が、切なげに映った。
柴希はぼんやりと、閉ざされた扉を見た。自分も恋をしたらあんな風情を醸せるだろうか、と軽い羨望をよぎらせる。
寝台の片隅にあった円柱型の座布団を拝借することにして、柴希は再び敷物の上に横になった。枕代わりがあると随分と違う。楽な体勢になれたら、腹が据わった。
都では、前任者がひと月は寵愛されていたような噂が流れている。事実はこうしてほったらかしだったようだが、自分も同じくらい通えば同様に評される。さほど名誉も傷つかないし、この話を柴希自身より熱心に進めた母も諦めがつくだろう。
ところで、昼に執務宮へ来いというのは真に受けていいのだろうか。
元々、大陸駐在で守護者の誉れを胸に生きてみたかったのだ。良家の女性がそんなことをしなくていいと母が言い張って、この歳まで実家で無駄な知識を植えつけられてきたが……
帯の合間から、淡く金に発色している留め具を取り出す。先祖帰りと言われる程の術力を持つ皇帝の、結界。こんな爪の大きさ程度の物を包んでいるだけなのに、見ているだけで畏怖の念が湧き起こってくる。
この術力もさることながら、異界帰りの皇帝は統治手腕もなかなかなのではないか。都での評判は横暴だの暴走しているだのと芳しくないが、公示板に貼り出された情報を見るに、税率は変わっていないのに皇領での税収が上がっている。防犯水準も上がった。道や水道、公共の建物の大規模な補修に、何処から捻出したのか充分な予算を回せている。
この皇帝を支えていくのなら、大陸駐在でなくとも誇らしいかもしれない。
金色に包まれた留め具を握り締め、柴希は何となしに、親指で唇に触れた。
「別れしなに、忘れがたき、口づけ……?」




