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七月の夜、自宮殿で寝ていた栩麗琇那は、耳元で鐘が鳴って目を覚ました。
先の妃候補の予告から、寝室全体に、もう一つ鐘結界を張っておいた。それが反応したのだった。
「こ、ん、ば、んは」
女の小声が、気だるく薄目を開けていただけだった栩麗琇那を、軽く瞬かせた。
今日までほぼ一ヵ月、新たな皇妃候補は訪れず、老はこそこそ送り込むという手段をやめたのかとも思っていたが……似たり寄ったりだろう良家の娘達の中から、先とは全く趣の違う者を選ぼうとして手間取っていただけかもしれない。
「今宵は、もうお休みですの?」
砕けた口調は、帝が眠りこけていると思っているのか。後宮中が黄金色に取り巻かれている所為か、寝室に重ね張りされた同色の結界に気づけなかったようだ。猫が歩を進めるようにしてこちらに近づいて来る。栩麗琇那は、身を起こした。
ワ、と声があがった。その雰囲気が少し、琴巳に似ていた。
ひと月会わずにいる痛みが胸を襲い、栩麗琇那は苦々しく言った。
「夜更けというのに、役目御苦労」
女はすくめた肩を戻した。一転して優雅な風情を纏うと、一礼する。
「お相手に伺いました、誉れ高き我等が帝。お待たせいたしましたようで申し訳ございません」
ベッドの上で栩麗琇那は片膝を立て、頬杖をつく。
「ラル宮で勤めるにはわたしの面接を通過せねばならないのは、知ってる?」
「存じあげて、おります」
慎重そうに、女は応じた。「この面接には、ひと月ばかりかかるのでしょうか」
前の妃候補が通っていた期間も承知しているらしい。そういうわけではないんだが、と栩麗琇那は苦笑した後、尋ねた。
「君、好いた男は居ないのか」
おります、と呆気無く女は答えた。しかし、続けた台詞は栩麗琇那の期待と異なった。
「物心ついた頃より、帝のみを心に留めておりました。このお役目をいただいた時、リ・コウとウル・ラ・カーの厚き御加護が身に沁みましてございます」
「……わたしは十年来、生きながら死んだようなモノと思われていたらしいが」
あらそうだったかしらと言うように、女のシルエットが頬に指先をあてる。栩麗琇那は半ば呆れて見やった。女はふと、しおしおと身をすぼめた。
「偽りを申し上げました……不合格でしょうか」
「あぁ、まぁ、少し」
うぐ、と声を漏らした後、女は怪訝そうに問を返してくる。
「わたくしが別の殿方に懸想していたらば、合格なんですの?」
「望ましかった」
正直に応じれば、女は呆気にとられたようだ。栩麗琇那は顎を撫でつつ言を継ぐ。「どうもわたしは妙齢の女性相手だと不能らしい。しかしラル家に後継ぎは必要だろう? 君が誰か他の好いた相手と子を生してくれれば、わたしも恥を公にせずに済んで、助かるわけだ」
女は理解に間を要した挙句、妙な点に拘った。
「見るからに年配の女性がお好みということですの?」
「……まぁ、そうだな……老ぐらいの世代がいい」
取り敢えず話を合わせてみたら、女は頭を抱えるような仕種をする。
栩麗琇那はサイドテーブルに置いていた夜着のボタンを、女に軽く放った。
「皇妃の位に興味も無く、他の男とまともな家庭を持ちたければ、ソレをわたしから取り上げられたと適当な時期に老へ告げな。役目を解かれるから」
女はボタンを両手で受け止め、窺うように訊いてきた。
「前の子は、じゃあ……」
「まともな家庭を選んだ」
当主の伴侶には公務が無いので、下手をすると遊んで暮らせる。就きたい者は少なくないだろう。
しかしながら、さほど大きくはないメイフェス島で、愛人との子を後宮で育てながら皇妃として振る舞うなどというのは、なかなかに図太い神経が必要だ。まして、まともな倫理観を持っている者には端から無理な話である。
ラル家の後継ぎに関しては、只今、術力上位と思われる数名を事務役に調べ出してもらっているところだった。
領結界さえ一人で張れれば、皇帝は誰がやっても大して変わらない。末端がきちんと機能している限り。現在は皇領を含め、かなり理想の状態になっていると思われる。
後継ぎさえ定まれば、後は、琴巳を碧界に帰すだけだった。
こうして会わずにいるうち、知らぬ間に、自発的に帰ってくれるのが一番だけれど。栩麗琇那も、琴巳が大陸に居ると思ったまま、今しばらく皇帝職に没頭できる。
だが、全てを捨てて世界を越えて来た彼女が、そう簡単に帰るわけもなく……
未だ帰れと告げられない栩麗琇那の弱さの所為で、琴巳は今日も、危うい大陸に身を置いている。
最後に抱き締めた時の感触が蘇ってしまい、栩麗琇那は疼く両手で髪をかき上げた。
帝、とぽつりと声をかけられ、皇妃候補がまだ扉の脇に居たと気づかされた。
何、と訊いてから、あぁ、と栩麗琇那は額を掻いた。
後宮は、十年前から放置されている部屋だらけだった。皇子の帰還までは老の精製した精霊によって時折清めをされていたようだが、帰還後は文字通り放っておかれている。今や、寝室と食堂、水回りの空間以外、埃だらけに違いない。思えば最近、廊下の端もうっすらと白い。
「今夜の居場所が無いのか」
「さようにございます」
逡巡の後、栩麗琇那はベッドを出た。
今日こそ、コトミに――
「ここを使いな。わたしは皇領の視察をして来る」
栩麗琇那が小部屋へ向かうと、え、と女は戸惑いの声をあげる。
「初夜も無いのですか」
「男の不甲斐なさを何度も言わせるか」
小部屋への扉に寄りかかり、栩麗琇那は両の腕を組む。女が慌てたように頭を振り、緩く波打つ長めの髪の持ち主とだけ知れた。
「わたくし、物心ついた頃より、叶うならば帝のお役に立つよう教育を受けて参りましたことは真にございます」
「……つまりルウの民と、ひいては大陸の安寧の為の教育と考えていいのか?」
「――はい」
顎を引く気配は、売り言葉に買い言葉というわけでもなさそうで。少しだけ女を見直した。
「名は」
「サイキと申しまする」
「では、昼に改めて執務宮に来るといい。もうあまり空きは無いが、宮内の職務に適性があるようなら部署の代表に融通を申しつけよう」
「は――いえ、その――はい、わたくしとしては、元来そちらのお仕事を理想としているのですけれど……」
要領を得なくなった返答に栩麗琇那が眉根を寄せると、サイキはひと息に続けた。「わたくしは閨房術も会得しておりますのでお試しに如何かと」
「……君、幾つ」
「二十歳にございます」
「若過ぎるな」
「――ですが、成就するかもしれませぬ」
「未来のまともな伴侶に駆使するといい」
これから耐えがたい話をしに行こうという時に、これ以上、馬鹿馬鹿しい問答を続ける気になれない。栩麗琇那が小部屋の扉を開けると、サイキは縋るように言った。
「本当に、若い女性に、塵ほども御興味はありませんの?」
「わたしは変わってるんだ」
何せ、ひと月前までは同性が好みだった。栩麗琇那は心の内でそう言いながら、小部屋に消えた。
琴巳は森の中を、急ぎ足に自宅へ向かっていた。木々の間をすり抜け、木の根や、夏の恵みに一層茂る下生えの草を軽く飛び越える。
森をうろうろしていたわけではない。医療所で早めの昼食を囲んだ帰りだ。
先月に現れた魔術師は釈放された後、蒼杜や千歳と仲良くなったらしい。どうも、魔術師にしてはさほど悪事を働いていたわけでもなく、いい子だったみたいだ。
唐突に琴巳を連れに来た理由は、誘拐して売り飛ばすといったことではなく、本当に昼食を一緒に食べたかっただけのようだ。
『一人暮らしが長いようなので、淋しかったのかもしれません』
蒼杜はそんな風に話していた。そうして、今日を含めて三度、琉志央と名乗った魔術師は医療所に食事をしに来ていた。
しょっちゅうこちらを見ている点が落ち着かないが、それ以外は大人しい。親がきちんとしていたのか、綺麗な所作で美味しそうに食べる。言葉遣いは悪いものの、食卓を共に囲んでも不快にはならない少年だった。
蒼杜も千歳も、琴巳が異世界人だと軽々しく喋らない。けれど、琉志央には話したと告げられた。
だからか、今日は少年に碧界のことをあれこれ訊かれた。弟と話している感覚で語るうち、思ったよりも時間が過ぎてしまっていた。正午前には、自宅に居るつもりだったのだが。
背後に馬の鼻息を聞き、琴巳は歩みを緩めて振り返った。同じ方角に向かっているらしき馬上の男性と目が合う。初めて見かける顔だ。金色の髪と黒い瞳。栩麗琇那より二、三、年上に見えた。
男性はこちらを見て、低い位置にあった木の枝に気づかなかった。危ないと思った時には遅く、まともに顔を突っ込む。
落馬こそしなかったが、男性は強かに顔面を打ったろう、顔を押さえて鞍にしがみつく。指の合間に滲む血が見え、琴巳は口許を覆った。派手に切ってしまったようだ。
急いでいたことを忘れ、琴巳は駆け寄った。
「ハイ・エストを呼んで来ます、動かないで待っててください」
もと来た方へ引き返しかけると、大丈夫です、と声が呼び止めてきた。男性は馬から降り、鞍に括った荷袋をごそごそとかき回した。包帯か何かを探しているようだが、見つからないらしい。もたもたとする間に、ツと鼻の脇を血がつたった。
琴巳は、リィリに多い長いスカートの裾を掴んだ。夏物で素材は薄手だ。付けていた飾り布を思い切りよく破り取る。
細長い布となった物を差し出すと、男性は受け取り、ぼろぼろにほつれた琴巳の服の裾に、申し訳無さそうな目を落とした。
「掠り傷だと思ったが……すみません、綺麗な服を台無しに」
「そんなことはいいですから早く止血を――結構出てますよ?」
木の根本に座ると、男性はやはりもたもたと布を巻き出した。琴巳はほんの少し黙って見ていたが、終いに手を出した。幸い、血の量の割に傷は深くなかった。応急処置を済ませた琴巳に、男性は目を細めた。
「どうもありがとう。手慣れてますね」
「弟がよく怪我してた所為かも。痛い痛いってわたしの所に来てたから」
男性は笑んでから、すいと指を向けた。
「貴女、ハイ・エストを呼びにあちらへ行きかけましたね」
えぇ、と頷くと、男性は頭を傾げた。「すると、蒼杜・アリク氏の隠れ家はあちらですか」
ひっそりと森の中で個人開業している蒼杜の医療所は、〝隠れ家〟という表現がぴったりかもしれなかった。頬を緩めて琴巳が首肯すると、見当違いだった、と男性は苦笑いをした。立ち上がり、背後に付いた屑を払いながら、まぁいいか、と続ける。
「貴女のような人にお会いできた。良しとします」
琴巳がはにかむと、男性は腰の脇に下げた小袋から銀貨を一枚取り出した。庶民には高額の貨幣だ。日本でなら、四、五万円ぐらいになる。「服の弁償と手当てのお礼です、受け取ってください」
焦って琴巳は手を振った。
「服はすぐ直せます。手当てだって大したコトしてないです」
男性は、やや早口に言う琴巳をじっと見つめた。ふっと微笑む。
「僕はトウコウ・ツトックと言います。貴女のお名前を聞かせてください」
妙な雰囲気を感じたが、琴巳は名乗った。
「加賀と言います。琴巳・加賀」
「コトミ、さん」
呟くように呼ばれた琴巳は、男性の言い方が微かに、栩麗琇那に似ていると思った。そうして、彼を待つ為に家路を急いでいたのを思い出した。忘れてた、と口走る。
「わたしっ、ごめんなさいっ、もう行きます」
琴巳は会釈すると駆け出した。思い返して振り返る。「それっ、あくまで応急処置なので――蒼杜さんにちゃんと治してもらってくださいね!」
トウコウは黙って軽く片手を上げた。琴巳はそれを見届け、後は一目散に家へ向かう。
ほつれたスカートの裾を持ち上げ、出っ張った根っこを飛び越し、琴巳は複雑な気分で駆けた。
栩麗琇那に来てほしいけれど、こんないでたちを見られるのも考えものだ。彼は、こういう時だけは妙に心配してくれる。心配させてしまう。
五月から六月にかけて毎日眠りに来ただけの栩麗琇那だが、琴巳はこの一ヵ月、それでもいいと実感した。来てくれないより、ずっといい。綺麗な寝顔をちょっと見て、安らかな寝息を聞いて、それだけで幸せだった。
碧界から押しかけて来た直後の一ヵ月と同じように、又も放っておかれて。裁縫の仕事で細々と暮らしつつ、翠界生活を自分なりに楽しむしかなかった。
それでもどうしても、お兄ちゃんが来てくれるかもしれない、という前提で生活してしまう。昼前には在宅を心がけ、弁当のおかずにもできる品目を下拵えして、針仕事をしながら待ち続け、待ち続け……長い夏の日が暮れてしまうと、彼がとても恋しい。
切なさが湧き上がり、琴巳は走りながら目頭が熱くなる。
そろそろ家が見える辺りで、琴巳は汗にうっすらと濡れた顔をほころばせた。しかしすぐに、あちゃあ、と思う。
大木をすり抜け、すらりとした美青年が、こちらに向けて歩いて来ていた。遅れて来ていい時に限って、これだ。
立ち止まって呼吸を整える琴巳に、栩麗琇那は静かに歩み寄って来た。が、不意に歩調を速める。
「その裾は」
案の定の反応に、琴巳は歯をこぼした。
「目の前で怪我しちゃった人が居て、包帯代わりにあげたの」
栩麗琇那はしばし裾に目を落としていたが、納得したのか家の方へ歩き出す。
帰り着いた二人が家の扉を開けると、熱気が出迎えた。夏の昼間、最も暑い時間に閉め切っていたのだから当然だった。
ともかく通気を良くしようと家へ入り、窓を開け出す。無言のまま、栩麗琇那が手伝ってくれた。
大して数は無いから、すぐに全ての窓が開けられた。微かに風が舞い込んで来たが、そうそう涼しくなりそうにない。
琴巳は、情けない気持ちだった。申し訳無くて栩麗琇那を見る。形のいい額に、汗が光ったのが判った。
「こんな所で、熟睡できる……?」
琴巳がおずおず尋ねると、栩麗琇那は流麗な眼差しを外に向けた。低い美声が、提案する。
「結界を張っておくから、家はこのままにして、海に行かないか」
いいけど、と答えてから、琴巳は栩麗琇那がテーブルの上に置いた駕籠を見た。
「お弁当、作ってないの」
栩麗琇那は、ほんの少し間を生んだ後、髪をかき上げ短く言った。
「いい」
「――そう」
もしかして、この前のこと、まだ怒ってる……?
森をうろうろして攫われかけたのは、栩麗琇那を随分心配させてしまったようだった。ぎゅっと抱き締めてもらえて琴巳は舞い上がってしまったけれど、あれから今日まで全然来てくれなかったのは、怒ってしまったからのような気もしていた。
久しぶりに会えて浮ついていた気分が、萎んでくる。
差し出された手に、琴巳はそろりと己が手を重ねた。
すぐに、瞬間移動で視界が暗転した。




