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八の月に入った昼下がり、大きな麻袋を手に、千歳が医療所を訪れた。
仕上がり済みの包みを持って蒼杜が広間に戻ると、冷茶を含んでいた幼馴染みは卓に頬杖をつく。
「琴巳は仕事が早いな。出来払いとはいえ、丁寧に仕上げてくれるから単価は悪くないし、もう少しのんびりやっても暮らしていけると思うけど」
「そうですね……少々命帯の光が鈍っていたので、あまり根を詰めないようにと、先日も言ってみたのですが」
蒼杜は向かいの席に腰を下ろしつつ、眉を曇らせる。「この前の件、逆効果になってしまったかもしれません」
「〝ぼやぼやしてると持ってかれるぞ作戦〟?」
捕縛した魔術師の処遇を大陸の守護者に問わねばならないと理由をつけて、琴巳には医療所の留守番を頼み、彼女の自宅で栩麗琇那を待ち構えてみたわけだが。
蒼杜が事情をほんの少し脚色して話したら、血相を変えて栩麗琇那は医療所に向かった。迎えたシャトリの目撃情報からすると、ようやっと〝兄妹〟の振る舞いをやめるかに思われた。
「どうもあれ以来、帝は琴巳の家に来なくなってしまったようです」
「え」
千歳は整った顔をしかめる。「何をやってるんだ従兄殿は。本当に持って行かれかねないよ」
えぇ、と蒼杜は苦笑する。
月に一度ほど、蒼杜は最寄りの村の市に琴巳も連れて行く。村の若者の何人かは、熱のある眼差しを乙女に向けていた。
琴巳と同じ黒髪を掻き、千歳は息をついた。
「今、ロマから友好使節団が都に来てるんだ」
「先月、それを名乗って来られた方が居ます」
するりと引き出された記憶を蒼杜は口にする。
あーやっぱり、と千歳は短めの髪に指をうずめた。
「まさかとは思ったが、コトミ・カガなんて珍しい名前の黒髪黒眼十五、六の娘なんて、そう居ないもんなぁ」
もしや、あの額の怪我の応急処置は――
「皆それぞれリィリの各地を見て回っているという話でしたが、事実ですか」
「団長と側近らしき数人は真面目にその通りだ。執政邸担当の警備隊が一部、案内役も兼ねてお供をしている」
「他の不真面目な方々は何を」
「リィリ人とロマ人は相性がいいと言われているらしい」
「リィリからも同様の使節が?」
「さて、ウチから出立した面々は既婚者も多かったし、真面目な見聞をして帰国することを願うよ」
千歳は緩く両の腕を組んだ。「ロマは貴族階級が残っているからね。団長にくっついて来たのも貴族と言われる人達みたいだ。本妻かお妾かは知らないが、相性のいい国から連れて帰るつもりなんだろう」
東光・ツトックなる患者は、額の治療が済んだら、血だらけの布を大事にしまっていた。端切れに見えたので、何かしら思い入れのある布らしいとは察せられたが……
〈そ奴は琴巳を連れて帰ると息まいておるのか?〉
呆れた口調で冰清玉潤が会話に加わった。〈琴巳が頷くなど、天地が引っくり返ったとしてもなかろうよ〉
「理想の女性を見つけたと、琴巳の名を出して酒場で力説しているのをたまたま耳にしてね。せっかくリィリに来て、髪も目も黒の異端娘を気に入るとは酔狂だと仲間からは冷やかされていたけど。当人は目が据わってたよ。今月末に使節団は帰国予定だ。その前に、ここへ連れ帰りに来る可能性がある」
しかめっ面で千歳は言を継いだ。「例えここに来ても従兄殿が追い返すだろうと、さして気にしていなかったのに」
守護精霊の気配が落ち着かなげになったので、蒼杜は頷いた。
「お願いします」
〈承知〉
夏の日中は苦手だろうに、氷のシャトリは琴巳の家の方角へあっと言う間に飛び去って行く。この頃は琉志央を息子と目したようだが、琴巳のことも我が子のように気遣っているから、こんな話を聞いては、様子を見に行かずにいられないだろう。
ものの数分で、精霊女王は慌てて戻って来た。
〈玄関で呼びかけたらば、応じた後に倒れてしもうたようじゃ〉
蒼杜は薬箱を、千歳は剣を手に医療所を飛び出した。
「一体――」
「先日の命帯具合からすると、急に立ち上がって貧血を起こしたのかもしれません」
「従兄殿があの日から来ていないらしいとなると、どういう状況なんだ」
蝉が鳴き競う森の中を小走りに行きつつ、千歳は首を傾げる。「いい雰囲気になっていたようなのに、ふりだしにでも戻っているのか」
「……帝は、琴巳が翠界に来た日も手放しで喜びませんでしたね」
〈放すどころか、しかと握っておった〉
やきもきしたようにシャトリが言う。〈吾は早々に婚の誓いを交わして戻って来たのかと思ったくらいじゃ。もはや堂々とメイフェスに連れて行けば良いものを。ルウの民は枸紗名が大君に就いてより、歪んだ矜持を正し始めた。栩麗琇那も風に乗れば良いのじゃ。さすれば美以女も浮かばれよう〉
千歳の亡き母の名に、あぁ、と蒼杜は悟った。
「よもや、帝は、大君の前例を恐れている……?」
緑と青の双眸が、黙ってこちらを一瞥した。
「ならば、わたしと父から一言言わねばなるまいな」
大君の皇子は、低く、唸るように言った。
思えば、栩麗琇那からあれほど乱暴な言動をされたのは初めてだった。
それでも、琴巳は不幸せではなかった。
全部、琴巳の為にしたこと。
琴巳は自分の気持ちを伝えるだけで精一杯なのに。栩麗琇那はいつも、己の気持ちより琴巳が優先だった。
嘘をついてフった時も。
碧界に帰れ、と言うのも。
それに、どれだけ深い意味があったことか。琴巳は、ようやく気がついた。
これ程の幸せはないのに、どうして〝幸せにできない〟なんて言葉が出るのか。
〝幸せにしたい〟と思ってくれているだけでも夢のようなのに。
こんなにわたしを幸せにしてくれる人は、お兄ちゃんしかいない。わたしも、貴男を幸せにしたい。
ちゃんと、伝えたかったのに――
琴巳は、目を開けた。
涙と共に嗚咽に似たモノが込み上げ、ベッドで身を捩ると咳き込んでしまう。
〈何か飲むか〉
精霊独特の震えた声がした。傍らに、白く美しい半透明の人影が姿を現す。蒼杜の守護を自ら任じて譲らない、氷の精だった。
「シャトリさん」
慌てて眦を拭いながら、琴巳は名を口にした。本当の名は他にあるらしいが、琴巳は知らない。蒼杜以外は知ってはいけないようで、蒼杜も普段は精霊の女王を表す〝シャトリ〟という称号で彼女を呼んでいる。
〈水を持って来る故、起きられるならお起き。早く受け取らないと凍ってしまうから、起きていた方がいい〉
頷き、琴巳は身を起こしてみる。半身を起こすと、よし、とシャトリは音を震わせた。白い姿が間仕切を貫通して消える。
見慣れた部屋は暗かった。
昼間、玄関扉の向こうからシャトリの声が聞こえ、応えて立ち上がったら気が遠くなった。
多分、蒼杜がベッドまで運んでくれたのだろう。窓の外は夜の闇に包まれている。長いこと気を失っていたようだ。
すぐに精霊が、白く霜の付いた硝子の湯呑を持って来た。
氷水をそっと口に含んだ琴巳に、シャトリが告げた。
〈主の診立てでは、そなたは脱水症状に加えて過度の貧血だそうな。此度の失神は、貧血時に急に動き回った所為だろう〉
琴巳はうなだれた。
「この頃、食欲無かったから……ごめんなさい、迷惑かけて」
〈夏バテと言うても誤魔化されぬぞ〉
シャトリは澄んだ淡い空色の目で見つめてきた。〈栩麗琇那に何を言われた〉
こらえる間が無く、ほろりと、目から雫がこぼれた。琴巳は両手に顔をうずめ、くぐもった声で告げる。
「俺には、幸せにできない、から、碧界に帰れ、て」
〈やれやれ〉
「わたし、もう、幸せにして、もらてる、のに」
困った男じゃ、とシャトリは宙に腰かけるようにして足を組む。
〈まぁ、下手に前例があるものだから、いかんのだろうな〉
泣き濡れた頬を掌で拭いながら琴巳が顔を上げると、シャトリは静かな口調で話してくれた。千歳の両親のことを。崇高な民族の裏に隠れた排他性を。
張り詰めていた琴巳の心を、細い針が刺した。
「わたし……自分の幸せのことしか、考えていなかった……」
〈それもいいではないか〉
シャトリの白い髪が、さらりと揺れた。〈そなたが幸せならば、吾は嬉しい。即ち吾も幸せになれる。そなたの家族も、同じく願って送り出してくれたのではないのか〉
二人で〝家〟を作ってごらんと書かれていた母のメモが思い出され、琴巳はコップに残る水面に目を落とす。
〝お兄ちゃんに会えました〟とだけ伝えるのも淋しくて、琴巳は碧界に手紙を出せずにいた。便りが無いのは息災だからと思ってくれるのを期待するしかない。
黙って微かに睫毛を震わせた琴巳の傍で、精霊は涼気を漏らした。
〈ともかく、一方的な言い分に従うことなかろ。そなたの好きな世界に在ればいい。今宵はもう、そこにある滋養薬を飲んで休め〉
涼やかに空気が揺れ、シャトリの姿は見えなくなった。




