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例えばこんな恋語り  作者: K+
18章 病篤し(ヤマイアツし)

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4*

 四月二日、琴巳(ことみ)は遂に翠界(すいかい)へ旅立つこととなった。

 荷物は、昨日の晩にマーニュ家で焼かせてもらったクッキーだけだ。他は全て自宅に置いて来た。この半年心の支えにしてきた、母のメモさえも。

 祖父母、母、弟が共同出資で翠界風に仕立ててくれた淡い檸檬色の服を着て、琴巳はマーニュ邸の二階へとシェリフに続いて降りた。

 二階は、家人の私室が集まっているらしい。並んだ扉のどれかが、シェリフの部屋であり、アルベール氏の部屋なのだろう。

 シェリフの若くして亡くなった母親は、寝室の他にお気に入りの部屋を持っていて、そこがどういうわけか異世界に通じているそうだ。いつ頃からか〝フローラの間〟と呼ばれるようになったという。

 西側の中程にある扉の前で、シェリフは足を止めた。持っていた鍵を穴に差し入れる。

 パチ、と短く軽い音が響き、青年は扉を開けた。

 六畳ほどの広さだった。マーニュ家の絢爛豪華な他の部屋を考えると、ひどく小ぶりに思えてしまう。

 窓は上下開閉式の物が一箇所だけ。ベージュの毛の長い絨毯。深い臙脂のベルベット張りのソファ。シックな花瓶の飾られた小卓。胡桃色の壁紙。奥に、写実的な風景画が一枚掛かっている。

 言ってしまえば、何の変哲も無いアンティーク調の部屋だ。別世界に繋がっている片鱗など、これっぽっちも窺えない。だが、世の中とはそうしたものかもしれない。ごくありふれた中に、驚異は存在しているのだ。

 シェリフは、翡翠らしい石がヘッドに付いたプラチナのペンダントを向けてきた。

「夏と冬の合格証代わりにこれを授ける」

 おどけた口ぶりで、世界間の番人は言った。「向こうに着いたら、手放さないといけない物だけど」

 受け取り、琴巳はクッキーの紙包みと一緒に胸に抱えた。

蒼杜(そうと)さんに渡せばいいんですよね?」

「間違えるなよ?」

 どことなく意地悪い笑顔で、師は言う。そんなにぼんやりして見えるかなぁ、と思いつつ、はい、と琴巳は答える。

 その絵の前へ行けばいい、とシェリフが示し、琴巳はそろそろと近づいた。画布に描かれているのは、美しい泉とそれを囲む森だった。

「早々に戻って来るんじゃないぞ」

 後ろから言われ、琴巳はもう一歩踏み出しながら、頑張ります、と照れ隠しのえくぼを浮かべて振り向いた。柔らかな笑顔を見たと思った瞬間、幕を下ろされたように視界が霞んだ。瞬きして、周りの雰囲気が変わったと気づく。

 青々とした草が、風に流れて波打つ。合間合間に、固まって咲き競う黄色や桃色の花々。ぽつぽつと遠くに木立。背後には縦横に枝を広げた大きな木。

 澄んだ空気が、さあっと横手から吹きつけて来た。見上げる大木の若葉が、さわさわと優しい音をたて、葉の間から陽光をこぼす。

 ここ――

 琴巳は息を呑んで、振り返った。振り返ったところへ、シェリフが歩み寄って来た。琴巳はほっとしたが、戸惑う。

 髪形と着ている物が変化していた。さっぱりしたショートカットで、白いシャツにジーンズというラフないでたちだったのに。前髪が長めのショートカット、すらっと長いいぶし銀のコートと黒のスラックスに早変わりしている。

 変だな、と思う。第一シェリフは、蒼杜に会うまで一緒に来てくれたら心強かったのだが、何故か、翠界には行けないと言っていた。

「初めまして、琴巳」

 やんわりと微笑をたたえて青年が言い、琴巳は益々わけが解らなくなった。

 又、初めまして、だ。去年の三月、馬安(うまやす)の家に来た時もそう言った。何なんだろう。

 不審の目を向ける琴巳に、青年はちょっとだけ顔を傾けた。

「わたしはシェリフではありませんよ?」

「……え?」

「蒼杜・マーニュ・アリクです」

 中性的な美青年は苦笑いを浮かべた。「シェリフは、詳しく言わなかったんですね」

「えぇ?」

 琴巳は小さく口を開けて青年を見上げた。この人が蒼杜? 姿形から声まで、まるで区別がつかない。「冗談じゃなく、シェリフさんじゃないんですか」

「では、翠界ならではの友に証言を願います。驚かないでくださいね」

 青年は丁寧に日本語で述べると、傍らに手を向けた。「しゃとり、すみませんが姿を」

 手の向いた先に、ふうっと白っぽいモノが現れた。琴巳は危うく土産物のクッキーを胸元で潰してしまいそうになったが、ふわんと浮かび上がった半透明の美女に、感嘆の声を洩らした。

「なんて……綺麗」

 羽は無いが、本などで見た妖精のようだ。まじまじと見つめる琴巳に、しゃとりは淡い水色の目を細めた。

〈正直な娘じゃ〉

 ビブラートのかかった声が、目と同じ色の唇から紡がれた。〈琴巳、この御方は吾の主じゃ。碧界の片割れとはちと違う。納得しないと栩麗琇那には会えぬぞ?〉

 琴巳がどきっとすると、蒼杜はほんの少し悪戯っぽく続けた。

「あながち嘘とも言えませんね」

「な、納得しました」

 焦って琴巳が言うと、蒼杜青年は女性と見紛う程の美麗な笑みを見せた。

「それでは、リィリへ参りましょう。昼頃に栩麗琇那(くりしゅうな)をお呼びします。幾らか、お話ができるかと」

 琴巳はややの間、ぽかんとしてしまった。

「今日、会えるんですか……?」

「どうもわたしがお気に召さないようですが、口実を作っておきました。嫌々ながらもお越しになると思います」

 蒼杜は何でもないことのように言う。「貴女が願えば、度々お越しになるかもしれません」

「……はぁ」

 ともかく話はお茶でも飲みながら。蒼杜はそう言うと、にっこり笑った。



 栩麗琇那は何も言わずにぱっぱと瞬間移動していたが、蒼杜はそうもいかないようだった。

 半透明の美女は瞬間移動はできないそうで、きらりと軌跡を残して宙を飛び去ってしまった。琴巳は蒼杜の後について、起伏のある草地を数分歩いた後、森の中に入る。

 茂みを分けて少し進んだだけで、木陰に建つ電話ボックスサイズの小屋が見えた。扉に簡単な閂が嵌まっていたが、外からも内からも抜き差しできるタイプだった。単純に、扉が開きっ放しになるのを防ぐ目的で付いているらしい。

 そんな入口から中に入ると、すぐ前に階下への階段がある。地下へ降りれば、蒼杜が急に片手を光らせたのでちょっとびっくりしてしまった。シェリフはそんな手品を披露してくれたことは無かったし、やはりこの人はこちらの世界の人だと認識する。

 手の明かりで、さして広くない石造りの空間が照らし出された。

 床の白っぽい石の台座に、ぼんやりと光る円があった。何やら、いかにも魔法っぽい文字や絵。それらが、青年の髪に似た色で光っていた。

 瞬間移動の陣です、と蒼杜が説明してくれた。

「ウチの、納屋の地下に繋がっています」

 こういうモノが在る場所というのは神殿みたいな所をイメージしていたのだけれど、翠界では小屋と納屋の地下らしい。

 何はともあれ、瞬時に遠くへ移動できてしまうのだから、便利なものだ。

 行きましょう、と、そっと手を取られ、琴巳は蒼杜とほぼ同時に陣へ踏み込んだ。一瞬目の前が暗くなる。

 次の瞬間には、移動したと判った。同じく石壁に囲まれていたけれど、先程は一つしか無かった陣が、隣にもう一つあったから。

 マラソンでゴールした直後のように、息が切れている。瞬間移動は結構、シンドい。

 琴巳が浅い呼吸を繰り返すと、蒼杜がこちらを見て眉をひそめた。

「琴巳、よく寝込んだりしますか?」

「いえ、そういうことは、あんまり……でも、瞬間移動、とても疲れます、ね」

「……結界を張って移動すればましだったかもしれません、すみませんでした」

 いいえ、と琴巳は手を振る。初めて瞬間移動した時も何だか疲れたし、こんなもんだと思っている。しかし、どうやら妙に疲労するのは琴巳だけか。

 軟弱者は帰れと言われたらどうしようと、不安が湧いた。琴巳は懸命に息をひそめ、速やかに歩き出した蒼杜に続いた。

 干し草らしき香のする広い納屋の隣には、避暑地の別荘みたいな小洒落た建物があった。二階建てのようだが、屋根裏部屋もありそうだ。

〝翠界体験用ログハウス〟と同様に、厠と浴室は別棟らしい。近くに井戸の東屋と菜園らしきモノも見える。

 家の玄関には〝でかけています〟と書かれた木の札が下がっていた。だのに、鍵をかけていなかったらしい。蒼杜は札を取りつつ、すいっと扉を引く。

 どうぞ、と中へ勧められ、お邪魔しまぁす、と琴巳は胸元を押さえつつ入る。ハーブ系の匂いが微かにした。

 入ってすぐは広間のようになっていた。すぐ脇にどっしりした丸テーブルと四脚の椅子。他には暖炉と、戸棚や棚が適度な間隔で配置されていた。感じのいいフロアだ。

「お好きな場所に座ってください」

 テーブルの方を示してから、蒼杜は奥へ足を運ぶ。丈の低い仕切の向こうは台所だろう。

 椅子には背もたれに素朴な花のレリーフが施されており、琴巳は何となしにそれを撫でつつ腰かけた。体験用ログハウスと同じ、全て手作りの風合いだ。

 蒼杜が盆を手に戻って来て、土産のクッキーと一緒に紅茶を出してくれた。いただきます、と琴巳がカーキ色の渋いカップに手をかけたところで、玄関がテンポ良くノックされた。

 いらっしゃい、と外へ向けて応じてから、蒼杜はこちらを見た。

「貴女の仕事先を探してくれた方がお越しになりました」

「――はい」

 琴巳が腰を浮かせた()に扉が開き、黒髪の、かなりの二枚目が現れた。腰の脇に剣らしき代物を佩いている。

 待たせた? と蒼杜に笑んだ目が左右で違う色に見えた。光の加減かと思ったら、そうではないようだ。モスグリーンとミッドナイトブルー。

 今着いたところでした、と笑みを返し、世界間の番人は言った。

「わたしは、碧界(へきかい)に首飾りを戻してきます」

 うん、と言いつつ、勝手知った様子で若者は琴巳の斜向かいの椅子を引く。

 では、と蒼杜は彼と入れ替わるように玄関に向かい、つと振り返った。

「チトセ、第三候補一択になりました」

 呼びかけられた男性はやや小首を傾げたが、分かった、と応じた。その返答を受け、いってきます、と蒼杜は出て行く。

 心細く見送った琴巳は、どうぞ座って、とチトセに言われ、椅子の端に腰を下ろした。

 まぁ、気楽に、とチトセは前置きし、幅広の帯の合間から細く畳んだ紙片を取り出した。節くれだった指先で開いていく。

「わたしはこの国の警備隊に居るんだ。君への仕事も、そこに関係している」

 はい、と喉を動かし、琴巳はチトセが机上に開いた紙を覗き込んだ。短く四行、職種らしきものが漢字でしたためられていた。

【一、詰所食事処 銀二・豆銀一

 二、宿舎食事処 銀二・豆銀三

 三、針子 出来払

 四、宿舎・詰所清掃 銀一・豆銀二】

「何故かは解らないけど、君は針子をやるしかないみたいだ」

 チトセは〝三〟を示して言ってから、こちらを見て稀有な目を細める。「警備隊は独身の男が多いからかな」

 よく判らなかったが、贅沢など言えるわけがなかった。いきなりわいた異世界人が、勤め口を紹介してもらえるだけで相当の待遇だ。三番を宜しくお願いします、と琴巳が頭を下げた時、蒼杜が帰って来た。

 おかえり、とチトセは声をかけつつ立ち上がった。第三候補で進めるからね、と言い、又ね、と蒼杜と入れ違いに出て行く。ろくに挨拶をする間も無い。

 琴巳が呆気に取られていたら、蒼杜が向かいの席に座った。

「慌ただしくてすみません。仕事の口は早い者勝ちなもので」

「あ、ご、ごめんなさい、何から何まで迷惑かけちゃって――」

 いいえ? と蒼杜はシェリフと全く同じ色合いの目をやんわりと細める。

 彼の腰の低い物言いは、普段からなのか。琴巳はシェリフとのギャップにどぎまぎしてしまう。碧界で見ていたこの顔の主は、人が従ってしまうカリスマタイプだった。この二人、性格は結構違うようだ。

 就職の話やシェリフと蒼杜の瓜二つぶりに、琴巳はしばし、誰に会いに来たのか忘れていた。蒼杜の方が、きちんと話を進める。

「栩麗琇那を呼ぶのは、もう少し待っててくださいね」

「は、はい」

 琴巳は思わず、両手を膝の上で組んで畏まる。蒼杜は暖炉の上壁に掛かった時計を見やった。碧界の時計と一緒で中央に文字盤があり、ちょっと変わっているのは、一から十二まで漢数字が円を描いている。長針と短針が表した時刻は九時過ぎ。

 鼓動が高鳴ってきて、琴巳は深呼吸する。まさか会えるなんて、去年の今頃は思いもしなかった。それが、追いかけて来た当日に会えるなんて。

 組んだ手の片方をつねってみた。

「痛い――夢じゃない」

 蒼杜がくすくす笑った。

「そうして確かめるのは、いずこも同じようですね」

 はにかむ琴巳に、蒼杜は可笑しそうに言った。「彼には前もってお話ししていないので、やはり同じようになさるかもしれません」

 琴巳は口をつけていなかったカップを両手で包み、苦笑いした。

「わたし、怒られるような気がしてます」

 物問いたげな緑眼に、琴巳は応えた。「ホントは、俺のことは忘れろ、って言われたんです。別れ際に」

 蒼杜は、やおら口許に手をあてた。笑みまじりに言う。

「それはまた、あの方にしては解り易い台詞ですね」

「前々から言われてたんですけど、とうとうここまで来ちゃって……」

「前々からですか」

 何やら満足そうに蒼杜は微笑んだ。「随分と彼は、貴女を気にかけておいでだったんですね」

「どうかなぁ。わたし、実の兄や姉がいなかったからか、九歳で会った時から、彼というお兄ちゃんに懐いちゃって」

 シェリフの手紙で気持ちは知られてしまっているので、琴巳は正直に言った。「それが何だか、男のヒトに見えてきちゃった。お兄ちゃんは、仕方無さそうに妹を傍に居させたけど、気にかけてくれてたのかしら」

「それは、今日、怒られても翠界にとどまってごらんなさい。自ずと解ります」

 いやに自信ありげに蒼杜は言った。そこは、シェリフに似ていると琴巳は思った。




 ルウの皇帝は、夜更けの老の訪問を煩わしい思いで受けていた。

 ルウの民が住まうメイフェス島の時刻は、午後の十一時へ向かっている。

 六老の内、連れ立ってやって来た二名は、栩麗琇那が境界の扉へ来ると驚きを見せた。

泰佐(たいさ)が口を開けば申す故、参った次第ですが……」

 四十代ほどに見えるが、実際は齢六十に差しかかっている典元(てんげん)が眉をひそめる。隣で現ラル六老、紅一点の和泉が言を継いだ。

(おさ)の心情もお察しくださいまし。我が子より大事にお育てした貴男様がかようにおやつれあっては、心痛甚だしいものがありましょう」

 泰佐は、栩麗琇那が四歳のみぎりから碧界へ迷い込む十一になる年まで傍に居てくれた。母を亡くし、父は多忙――寄る辺の無い皇子の為に、己が家族も省みずに世話をしてくれていた男だ。

 耳の痛い台詞に、栩麗琇那は先日やむなく整髪したばかりの髪に指をうずめた。

「さればこそ、長の勧めのまま、蒼杜の元へ行きました」

 おぉ、と二老はそれしきのことで感嘆したような声を揃えた。栩麗琇那にとって現在の六老は、悪く言えばお節介、良く言えば非常に過保護な年長者集団だ。

「して、ハイ・エストは何と」

 典元の問に、栩麗琇那は面白くない胸中を声音に出した。

「睡眠不足を見破りました」

「このような眠るに良い季節柄、夜な夜な何をしておられます」

 今度は和泉(いずみ)に問われ、栩麗琇那は微かに感じる顎髭を撫でた。

「良き季節柄ゆえ、眠るは勿体無いのです。月見、花見と時を過ごすうちに朝が来る」

「……何と申しましょうな。風流と言うべきですか」

 典元は呆れたように肩をすくめた。「まぁ、帝は夜半しか御自分の時がありませんし、粋を求めるはそれしかないのでしょうが……」

「しかしながら、趣を追い過ぎです」

 ぴしゃりと和泉が言う。「あたかも月が欠け花が散る如くを体現されては、一族皆、懸念をいだきます。夏が近づけば、お帰りになった時分のお姿に戻られますのか」

「さて。夏こそ、趣あるは夜ですから」

 栩麗琇那は『枕草子』を思い出しつつ答える。老二人は顔を見合わせた。

 和泉が、怪訝そうに口を開く。

「それにしても、睡眠不足程度でここまで外見に現れますか」

「さよう。泰佐が申しておりました。(まこと)、お食事はきちんとなさっているのか、と」

 典元が言った。「世話役を御所望なさらぬは、帝が異界帰りという経緯を気にしておられるから、と風聞を得ましたが、真偽の程は如何なものでしょう」

 栩麗琇那は多少、目を眇めた。

「そのような風聞が?」

(みやこ)で専らの噂にございます」

 出所(でどころ)は事務役ではないだろうな、と不機嫌に邪推し、栩麗琇那は顎をさすった。

「典元老が仰ったように、わたしの私有時間は僅か。この上、昨日今日知り合ったような世話役にかき回されたくないのです。幸い、身の回りは全て自分でできますし」

 加賀家のお蔭で、と口には出さずに付け足すと、栩麗琇那は苦しくなった。〝家族〟と共に過ごした日々が、次々、浮かんでは消えた。

 死にたい……

 翠界へ来て幾度目か、思って、栩麗琇那は廊下の小窓から中庭に目を流した。闇の中で、誘うように、雪柳の白い花が揺れた。

 痩せ衰え死に逝くに任せていては、強靭なルウの民だ、一体いつ解放されるやら見当がつかない。心臓に一発、闇の塊を放てばいくらルウの民でも死ぬだろう。その方が、老にいらぬ心配をかけることも無く、早道ではないか。

 問題は、皇帝が居なくなった後の一族の混乱をいかに最小限に抑えるかだ。

 今宵は真面目に、それを考えるか。

 危うい決意をした栩麗琇那に、和泉が苦言を洩らした。

「世話役無くして、貴男様はいつ妃たる御方と出会うおつもりです。お父上が見初められた貴男様のお母上は、宮に上がられた世話役でした。帝は大君を継承されるのですから、酷な話なれど、貴男様は限られた時間の中で、なるべく早く、次期皇帝となる跡継ぎも我等に保証してくださる義務がありまする」

「あぁ、それも考えねばなりませんね」

 自殺へ歩み出した栩麗琇那に、そうとも知らず、老達は幾らか安堵した様子になる。

 ともかく今少し早くお休み下さい、と典元が締め括り、栩麗琇那は頷いておいた。

 ではこれにて、と二老が拝跪したところへ、その背後の扉が開いた。封書を両手で抱いた若者が、予想外の上役勢揃いに、瞠目する。

 慌てて膝をつき頭を下げる陣舎の若者に、老は相次いで顔を向けた。和泉が厳かに質す。

「蒼杜・アリクからですか」

「は」

 栩麗琇那は老を遠ざけるのに、この機を利用することにした。

「薬に頼らず健やかな眠りに就く方策を尋ねていました。何か見つかったのでしょう。もう安心ですよ、老」

「いやはや。ユタ・カーの申し子とは称うるべき名ですな」

「まったく」

 典元と和泉は頷き合うと、一足先に扉向こうへ退出した。栩麗琇那は一息つき、隅に控えた若者に目を落とす。

「実のところは、何なのやら」

 呟きに、どうぞ御覧下さい、と若者が掲げる。栩麗琇那が受け取ると、若者は深々と頭を下げた。

「されば失礼します」

「あぁ。御苦労だった」

 境界の扉が閉まってからも、しばし封筒を持て余した。開封する気さえ起きない。

 寝室へ向かいながら、惰性で封を開けた。これまでと同じく、便箋が一枚だけ入っていた。

【碧界から花。リィリ共和国の医療所に来られたし】

 何の花だか……と独り言を洩らす。洩らすと、自棄気味の笑声が喉の奥からせり上がって来た。

「――ハ!」

 自分にとって、花は二世界探してもたった一輪しかない。手の届かない所で、可憐に咲いている。見ることも、触れることも、もう叶わない。「ハ……ハ……」

 真っ暗な長い廊下の隅で、強烈に孤独を自覚した。

 栩麗琇那は、ふらりと壁にもたれた。

 発作的に死の道を選びそうだった。けれど、蒼杜に言っておかないといけない。今後、自分の近況を、碧界へは知らせるなと。

 極論、俗物と罵られようが、ルウの今後を定めるより、蒼杜へのその伝言の方が大事だった。

 遺言をするつもりで栩麗琇那はリィリ共和国へ行き、枸紗名(くしゃな)の言葉をつくづく思い知る。

『二人は突如、驚かせてくれるぞ』

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