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六暦六一四年三月中旬の夜、栩麗琇那は中庭の片隅に座り込んで、モノトーンの世界にぼやっと浮かび上がる雪柳の花を見ていた。
ここ半年ばかり不眠症で、明け方の一、二時間しか眠れない。
秋と冬の長い夜は、寝室の出窓から、滲んだ黒い空を眺めて過ごしていた。春が近づいた今日この頃は、中庭で煤けた白い花を見つめて夜を明かしている。
今日も今日とて、頭の中はぼうっとしているのに眠気が無い。ただ、ちらちらと、閃いては消える思い出に耽っていた。
りりん、と耳元で鈴の音がして、栩麗琇那は僅かに顔を傾けた。
鈴の音は、弱めの鐘結界に誰かが触れると聞こえる。強めより音が優しく、術力も少なめで済む。境界役が張っているのは、通常こちらだ。栩麗琇那も最近は、弱めを張っていた。というより、弱めしか張れなくなっていた。術力は嫌と言う程あるのだが、体調が悪い所為で、思うように操れなくなっていた。
寄りかかっていた壁に手をつき、栩麗琇那はふらりと立ち上がった。土埃の付いた長衣の裾をひと振りし、伸び切った雑草の間を通って中庭を出る。
結界の反応は境界の扉付近だった。訪問があるのは随分と久しぶりだ。
暗い廊下の小窓から真っ暗な中庭を見やり、何時だろう、とぼんやりした頭で思う。
夕方六時に仕事を終えて後宮に入ってしまうと、時間の感覚がまるで無い。辺りが薄白くなるまで夢想に夢想を重ねた挙げ句、瞼を閉じ、何とか眠りに就いている。それも、実のところは眠ったのかよく判らない。夢現の状態で、午前六時を告げる時計の音を聞き、目を開けるので。
境界の扉の脇に跪いた相手を目にすると、栩麗琇那は僅かに足を速めた。このところ凝っていることは、コレだった――〝コトミならどうするか〟。
コトミなら、あんな風に畏まられたら、慌てるんだ。で、急ぐ。走るかな……?
栩麗琇那はちょっと走ってみて、彼女が言いそうな台詞を思い巡らせた。
ゴメンナサイ、遅クナッチャッテ――
「すまない、遅くなった」
封書を携えた陣舎の若者は一層頭を下げた。
「夜分に申し訳ありませぬ」
ソンナ、オ仕事デスモノ。謝ラナイデクダサイ――
「故あってのこと。気にしなくていい」
自己流に言い換える栩麗琇那に、若者は精一杯に手をのばして書簡を掲げた。
「蒼杜・アリクからにございます。どうぞ、御覧ください」
〝コトミごっこ〟はそこまでにして、栩麗琇那は封筒を受け取った。若者が扉の向こうに消えてから、開いて、入っていた紙片に目を走らせる。
【御依頼を受け薬の処方をせんとす。リィリ共和国の医療所に来られたし】
薬など頼んでいない。栩麗琇那は訝しんだが、踵を返して歩き出す。
やる方ないことに、職務が関わってくると頭が動き出す。機械的な反応で、栩麗琇那は自己に嫌気がさしていた。胸焼けを感じながら、今回も大体に察しをつける。
老がまた何か、相談事を持ちかけたのだろう。
帝代理で多忙な筈だが、泰佐が近頃頻繁に参上し、食事はきちんととっておられますか、だの、何かお悩み事でもあるのでは、だのと尋ねてきていた。はぐらかしていたから、業を煮やして蒼杜の所へ行ったに違いない。
蒼杜もほっといてくれればいいものを。馬鹿正直に受けることはないんだ。
栩麗琇那は、伸びた髪をくしゃりとかき上げた。
自分の身体だ、自分で解っている。翠界に戻って来た日から、既に異状が出ていた。一向に治る気配が無い。
未だに、目に映る物の色は、濁った黒と灰と白。内も外も、曇った生活。積もり積もって一年、やつれようが明らかになってきた。けれど、薬など要らない。欲しくない。
このまま衰え、死んでしまいたいのだ。瞼の裏で淡く彩られた、愛しい人を見ながら。
いっそ、本音を蒼杜に言ってしまおうか……いや……
寝室の暖炉に封書を放り、栩麗琇那は眼力を発した。時間がかかったが、弱々しく紙の端に白色の火が起こり、燃え広がっていく。
蒼杜に打ち明ければ、加賀家へ伝わるかもしれない。そうなると、当然ながら琴巳にも。栩麗琇那が衰弱して死にたがっているなどと知らされたら、彼女はどうするだろう?
忘れたかもしれないのだから。
知らせず静かに消えるのが、最良だ。
書簡が燃え尽きるのを見届け、立ち上がる。懐へ手を突っ込み、リィリへの指輪を指先に引っ掛けると、栩麗琇那は姿を消した。
瞬間移動の指輪は、魔法陣を限りなく小さくしたような代物だ。対の輪周辺の動物や液体に反応し、光で警告してくれる。
だから術者は、移動前に指輪が発光しているか確かめるのが鉄則である。
ところがこの日の栩麗琇那は、確認を怠った。
その上、現れた足元に地面が無いと気づくまで、かなり間を要した。重力に従って落下する己を、何処か他人事のように捉えていた。
仰天したように泣き喚いて羽ばたき遠ざかる黒い鳥の姿と、共に落ち始めた小さな木目の指輪が目の端に映る。
じっくりとそれを眺めていることはできなかった。栩麗琇那は、樹木の枝の合間に背中から突っ込んだ。ベキバキと派手な音を立て、枝葉の間を落ちて行った。
途中で結界を張って衝撃を抑え、何とか体勢を立て直して地表まで落ち続けるのは免れたものの、草地にうずくまるように片膝をつく。
ばらばらと木屑や葉が降って来る下で、顔をしかめた。瞬く間に顔や手から血がつたう。
身体中のあちこちに裂傷と打撲を負い、栩麗琇那は口を曲げた。これでは、いかにも薬が要りそうに見えるではないか。書状は燃やしてしまったし、すっぽかしてしまおうか、と怠慢な考えがよぎる。
「帝」
青年医術師の声が木々の間から響き、栩麗琇那はうつむいた。先程の鳥は、大した距離を飛んではいなかったようだ。内心で舌打ちし、顔の血を拭う。ぼそぼそ言った。
「うっかりしていた」
そのようです、と蒼杜は静かに応える。
それ以上の弁解はせず、栩麗琇那は口を結んだ。鳥獣に対の輪を移動させられるなど、そうあることではない。輪からは微量ながら術力が漏れている。そうそう彼等は近寄らない筈なのだ。強術者の作った輪は、特に。
視界に医療所の切妻屋根を見留め、下手に追究される前に栩麗琇那は足を向ける。
蒼杜は微かに苦笑を見せ、傷の手当てを、と言う。医事者は、二級以上ともなると碧界には無い優れた術を会得している。術力でもって治癒能力を促進させ、怪我全般はたちどころに治してしまえる〝癒し〟。
「構わないでいい。この程度なら明日には治る」
栩麗琇那はそう応じ、家の玄関に着くと主を促した。蒼杜は扉を開け、どうぞ、と逆に招く。栩麗琇那は首を振った。「誰の依頼で何の薬を処方するのか知らないが、要らないと言いに来た。俺は別段、具合は悪くない」
蒼杜は敷石の上に佇んで、眉を曇らせた。
「されば命帯を診たところより申しますと、勢いが著しく減少しています。貴男には睡眠障害が現れている筈。恐らく生活の仕方がまずく、体内時計が狂ったのです。せめて一週間、執務を老に委ね、規則的な睡眠と整った三食ないし四食を摂取することを勧めます。診断状に加え、滋養と眠りの薬を調合しますが、如何」
栩麗琇那は顎に流れて来た血を拭った。
「傷の所為で命帯を診誤ってはいないか。俺は不必要なほど寝てるよ」
顎をさすりながら、栩麗琇那は短く喉を鳴らした。「よしんば俺に休養が必要としても無理だ。今のラル宮は俺を中心に回転している。動力が止まれば、歯車は動けない。ようやく全体が順調に巡るようになったばかりで、俺が動かなくなった時の対策は恥ずかしながら立ててない。一日でも休めないな」
「此度は老長たってのお申し出。帝の大事となれば、ラル家は前例を得ています。何とかいたしましょう」
蒼杜は、ぽぅ、と掌を発光させた。「回復力の尋常でないルウの皇帝ともあろう方が、こうも血が止まらないのは何故でしょう」
「……寝起きだからだろう」
頬の傷を癒され、栩麗琇那はぼさぼさになってしまった髪を梳き上げた。「泰佐には心配御無用と言ってくれ。とうに成人した者が、健康を他者に気づかわれるのも情けない話だ。今後、執務前には身だしなみに重々気をつける」
医術師は、一つ息をついた。
「いくら身なりを整えようと、内側の疲れは隠せません。もはや貴男のやつれは外見だけではないんです。放っておけと言われても、わたしは医事者として聞き流せない。今日の診断が怪我と重なった故の誤診と仰るなら、明日にでも今一度お越し下さい。指輪の光にお気をつけの上で」
「……例え病でも薬は要らない。ただでさえ、邪界帰りと噂されているんだ。加えて薬で永らえているなどと流れては、一族に顔向けできない。なれば、いっそ潔く散る。花でさえ心得ていることだ、俺もそう在りたい」
ふと、蒼杜は不可思議な笑みを見せた。解りました、と言う。
「では、薬以外を処方できないか考えてみます。要は生活周期を、良い方向へ変えられればいいと思うので」
根気強さに、栩麗琇那は肩をすくめた。
「酔狂だな。メイフェスにはきちんと薬師が居る。大陸の医事者が手間をかけることはない」
「貴男には、わたしは責任があるんです」
蒼杜は穏やかに言った。「責任を果たしたいのは、シェリフだけではありません」
「二人で、俺を在るべき場所へ戻してくれた。これ以上気にするな。気持ちだけで充分だ」
「そう仰ってくださるなら、わたしの気が済むまで関わらせていただきます」
とことん生真面目な返答に、栩麗琇那はそれ以上、拒否する理由を口に出来なかった。
この病の特効薬は、この世の誰にも、知られるわけにいかなかったから。




