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一学期の終業式を明日に控えた放課後、今日も大通りで順子と別れ、琴巳は一人で歩道橋の前を通り過ぎた。
青葉大学のスクールバスが追い越して行き、停車地で停まる。琴巳が近づくうちに四、五人の学生が降り、中の一人が小走りに駆け寄って来た。ベリーショートになっていたのですぐには気づかなかったが、咲子だった。
「琴巳ちゃんっ、ひっさしぶりーっ」
まったくその通りで、琴巳は、わ――と声を洩らす。
「半年――もっとかも?」
「会わなかったわねぇ」
咲子は言葉を引き継ぐように言い、変わらず綺麗に化粧した顔をほころばせた。「わたし、今年は一講が全然無いのよね。その代わり四講五講があるもんだから、帰りが遅いの。琴巳ちゃん達を見つけられないのがねー、ちょっと残念だったのよ」
久々にお昼一緒しない? と咲子が指を立て、琴巳は喜んで同意した。あそこにしよう、とどちらからともなく言って、一年前に〝お知り合い記念会〟をしたパスタの店に入る。
注文を済ませると、早速という感で咲子は問うてきた。
「加賀君、どうしてる? 本命とヨリを戻したわよ、って言っても懲りずに彼の追っかけをしてる知り合いが居るんだけど、一般科目から姿を消した所為か、今年はまるでリサーチできてないらしいのよ。わたしも、春から一回も見かけてないし」
「お兄ちゃん、二年間で中途退学しました」
ぅえっ!? と、咲子は素っ頓狂な声をあげた。店内の他の客が目を向ける中、ぽかんと口を開け、固まる。
ぎごちなく笑って、琴巳は道すがら考えていた答を口にした。
「考古学の関係で、引き抜きにあって。春から、フランスの辺りに行ってるんです。わたしも夏休みの間、行くんです。あっちの習慣を勉強できることになって」
「……ほへぇ……今年の前期で、最高のびっくりだった」
咲子は溜め息まじりに言うと、そうなんだぁ、と洩らした。「じゃ、高校出たら追っかけるんだ?」
「やっていけそうだったら」
「なるほどなるほど」
何度か咲子は頷き、優しく微笑んだ。「琴巳ちゃんなら大丈夫。上手くいったら、うふ、来年には加賀君とゴールインしてるかも」
「えっ、ま、まさか」
琴巳はふるふる手を振った。「お兄ちゃん、忙しくて――行っても、会えるか判らないんです」
あら、と咲子は口紅を塗った唇をすぼめた。
「なぁに、加賀君たら、海を渡って来てくれる琴巳ちゃんをほっとくなんて許せないわっ。ラブレター第二弾書こっか」
くすぐったい気分で琴巳は笑声をこぼした。
「もしも会えたら渡しますよ?」
「よっしゃ」
咲子は網状のバッグからペンと手帳を取り出した。手帳の後方に付いていた、無地の紙を一枚破る。それにペンで大きく〝ごちそーさま〟と書いた。仕上げに、んちゅ、とキスマークを付ける。
わたしのお守りに欲しいかも、と言いながら、琴巳は受け取った。それでもオッケー、と咲子は指で丸を作る。
パスタと飲み物が来て、一旦、二人は会話を止めた。昼食に専念する。
一年経ったが味に衰え無く、琴巳は満足のうちに食事を終えた。向かいの咲子も、満腹ぅ、と機嫌のいい台詞を言う。
今日のパスタも作ってみたくなった琴巳は、メモ帳を出した。待ってました、と咲子が身を乗り出す。
「わたし、今日はばっちり記憶した。任せて」
「わ、嬉し」
それでは、と二種類のパスタ内容をメモして、琴巳はえくぼを浮かべた。「晩御飯、弟の為に頑張ってみようかな」
「お。必勝祈願パスタね」
琴巳は、ややきょとんとして前を見た。高校受験に向けてとしたら気が早い。だが、弟がバスケットをやっている事や、全国大会に出られそうな事は、話していない。咲子は知らない筈だが……
「お兄ちゃんから、聞いてたんですか」
あ、と咲子は口を覆った。奇妙な沈黙が漂う。
どうやら栩麗琇那から知ったのでもないらしい。そう思っていると、咲子は覚悟を決めたようにテーブルの端に両手の指先をついた。
「わたしね、最近、バイト先で年下のカレができたんだ」
「……中学生の……?」
「琴巳ちゃんの、元カレ」
「――朝倉君、ですか?」
せーかい、と単調に応じ、咲子は気まずそうに頬杖をついた。
「んんー。ごめん。言わずにいる方が良かった」
「え――なんでですか、わたし気になってたんです朝倉君のこと。咲子さんとお付き合い始めてたなんて、何だかホッとしました」
咲子は小さく笑った。
「彼、まだ貴女が好きなの」
琴巳は、どき、とした。咲子はテーブルについた肘を、もう一方の手で包んだ。「この前、一緒に蘇座中の応援に行ったのよ。たまたま、馬安中との試合でね。コーシ君、もう二回勝てば全国行くのよね? 蘇座中をその時破って、そこまで行ったのよ? コーシ君、勝って嬉しそうに笑ってたけど、武君それ見て、目元が似てら、って呟いてた」
「…………」
「武君て、加賀君と似てるわね。でも、もっと正直。わたしが、琴巳ちゃんのこと考えてたでしょ、って訊くと、あぁ、って素直に認めるもの」
表情を定められない琴巳を見て、咲子は、ふふ、と笑った。「気にしない方がいいって言っても、琴巳ちゃんは気にしちゃうんだろーな。でも、ホントに気にしなくていいと思う。武君、貴女との関係が終わってるのは解ってるわ。じゃなきゃ、わたしが隣に来るのを拒むよね。あの一直せーんな性格じゃ」
琴巳はほんのちょっと口許が緩む。咲子は、綺麗な微笑みを浮かべて続けた。
「わたし、本気であの子のコト好き。だから、琴巳ちゃんみたいに頑張って傍に居るわ。で、わたしの方に振り向かせる」
加賀君と同レベルの男なんてそうそう居ないもの、逃がせない〝魚〟だわ。咲子はそう言を継いで、握り拳を作る。
琴巳も、きゅっと両手を握り締めた。
武を傷つけてまで選んだ男性を、簡単には諦められない。何としてでも、翠界に行かねば――!
「わたしも、頑張ります」
うん、と二人は頷き合ったのだった。
豪邸というのは、こういう所のことか。
マーニュ家の敷地に入り、遠く夕映えに荘厳さを醸している館を見やって、琴巳は思った。
この敷地、どれだけ広いのか、上空から見ないと確認できないのではないか。恐らく〝ドーム球場○個分〟と、比較表現できる程の規模だ。
高そうな黒光りする車で、森のような、はたまた巨大迷路のような庭を抜ける。入ってから優に十分はかけ、切れ切れに見えていた、ヨーロッパの宮殿を思わせる屋敷前に辿り着いた。別世界への出入口が在るというのが、思わず納得できてしまう佇まいだ。
初めての海外旅行先がこうもスケールの大きい場所だと、カルチャーショックが甚だしい。見るからに〝お上りさん〟の体で、琴巳は左右に目をやった。車が停まった所から玄関まで、落ち着いた色合いの石畳を挟み、対称に剪定された植木が並んでいる。
琴巳は麦わら帽子とメッシュのタウンバッグを両手で持ち、肩をすくめた。
遠い異国のフランスで丸々夏休みを過ごすのだが、日本から持参した荷物はそれだけ。二日分の着替えと学校から出ている課題だけ、とシェリフに指示されていたのだ。他の品々は、蒼杜から詳細を伝え聞き、シェリフが再現しておくと言っていた。
よくよく考えてみれば、そんな別世界を自宅の庭に作り出せるなどという時点で普通じゃない。それだけの資金力があると、暗にシェリフは言っていたわけだ。琴巳は、こうして目の前に突きつけられるまで、それを察することができなかった。
キャミソールに黒ニットのノースリーブカーディガン、デニムスカートといったありふれた扮装が、歴史を経た瀟洒な建物には見るからにそぐわない。せめて高校の制服を着て来れば良かったと後悔した。
「琴巳」
シェリフが数歩先から声をかけた。「今日はウチに招待する。〝君の家〟に行くのは明日の朝からだ」
「は、はい」
琴巳は慌てて後を追う。追いついた相手は、真っ白なTシャツにチノパンツ。琴巳と大差無い恰好だ。だが、栩麗琇那のように、ラフなのに気品がある。
とほほ。庶民と王侯貴族の差みたい。
卑屈な思いに囚われる琴巳に、貴公子青年は問いかけてきた。
「君、自宅でもそういう恰好多い?」
やっぱり浮いて見えたらしい。琴巳はぎごちない笑みを貼り付かせた。
「こういう服しか、持ってないので」
「袖が無かったり、せいぜい膝丈だったり?」
観点が違っていると気づき、琴巳は無理な笑みを消した。軽く口をすぼめる。
「夏場は、やっぱり」
「ふーん」
シェリフは鼻で言う。琴巳は小首を傾げたが、青年はそのまま、使用人らしき落ち着いた紳士が開けた両開きの扉から屋敷に入った。
入ってすぐの広間は薄暗かった。二階まで吹き抜けの天井から、ウエディングケーキのように段々になったシャンデリアが吊られている。琴巳が小さく口を開けて見上げる間に、シェリフは左右にのびている廊下の左手へ歩き出した。見事な木彫りが施されたアーチ状の入口をくぐり、琴巳は青年の背中について行く。
「君が目指すリィリ共和国では、夏物の衣服は生地が薄くなるだけで、丈は概ね長い」
シェリフは歩を進めながら、独り言のように言った。「初めは暑苦しく感じるかもな」
琴巳は生唾を飲み込んだ。次第に、漠然としていた異世界生活のイメージが凝縮してくる。文明の利器が乏しい翠界の……
布張りの階段を三階まで上がり、まるで学校のように窓や扉が幾つも並んだ廊下を歩いて、シェリフは細かな浮き彫りが施してある扉の一つを開けた。
「今夜はここで寛いでくれ」
声も無く、琴巳はそろそろと部屋に入った。
えらく広い。全体的にウッド調だ。シェリフは室内に数箇所あるドアを示しながら、続けた。
「トイレもバスルームもついている。それと、ここで日本語を話せる者はごく限られているので、俺のケータイだけにつながる電話をベッドルームに置いておいた」
手前には応接セットの一式がでんと据えられている。奥の窓辺にはダイニングセットが配置されていた。どれかのドア向こうに、ベッドルーム等もあるのだろう。泊まったことは無いが、これは高級ホテルの最上階スイートだとしか思えない。
「こんな立派な所、使っていいんですか」
琴巳がやや狼狽して見上げると、シェリフは面白そうに言った。
「明日からは殆ど原始生活だし、遠慮せずに使いな。何よりこの部屋はその昔、この世界に来たばかりの異世界の王子が泊まった所だ」
どきっとして、琴巳は胸元に麦わら帽子を押し当てる。シェリフは、ソファの背を軽く叩いた。「ここで懐中電灯の分解に熱中していたし、そっちのテーブルで食事した時には、苦そうに珈琲を飲んでいたものさ」
それは琴巳の知らない栩麗琇那だ。彼がまだ十代になったばかりの頃の。今はもう聞けない鈴の音のような綺麗な声で、やはり幼いシェリフに故郷のことを切々と話したりしたのだろう。
どきどきしつつ想像の翼を広げていた琴巳は、他の部屋にする? と素知らぬ口ぶりでシェリフに言われ、大慌てで首を振った。
「使わせてもらいますっ」
シェリフは、笑みを含んだ声音で応じた。
「では、ごゆっくり」
翌朝、いよいよ〝体験学習〟がスタートした。
リィリ共和国の一般的な女性の服を纏い、宿題の用具だけを持つと、琴巳はマーニュ家の御殿のような部屋を出た。服は、昨夜のうちに実物を渡され、身に着け方を教わっていた物だ。麻や綿は翠界にも在るそうで、着心地はこちらの服と変わり無い。
綿の、長袖Tシャツ。上から、麻織りで袖無しのワンピース。腰に、幅広の帯を巻き込む。更にスカート丈と同じ長さのエプロン等を着けているのが通常らしい。靴は柔らかな布製で、底だけ厚い革が使われている。ショートブーツ程の丈があり、足首の辺りに細いベルトをして脱げないように固定する。リィリの森は起伏に富み、様々な地形で構成されているという。それ故の、歩き易さと足の保護を追求した形のようだ。
この屋敷は使用人がたくさん居るらしいが、広大な所為か、全くと言っていいほど出会わない。
琴巳は、夕食と朝食を運んで来てくれた、濃い栗色の髪の綺麗なメイドにしか会っていなかった。
『こんなにしていただいてるお礼を、お家の人にも言いたいんですけど』
夕食時にそう言ったら、同席してくれていたシェリフは軽い口調で応えた。
『空港で君のお祖父様達に貰った饅頭で充分さ。今回のことは、貰うつもりも無かった栩麗琇那からの礼金で賄っている。家の連中は何も気にしていないし、父も俺も自分の時間で動いている。会うのは偶然に頼るしかないだろう』
アーチの向こうに昨日驚嘆した玄関口が見え、偶然は起こらなかったかと琴巳は高い天井を仰いだ。
広い家というのも考えものだ。家人に知れずに上がり込んでいるようで、変に居心地が悪い。
と、更に向こうの廊下に誰か現れた。三十代か四十代らしき細身の男性が歩いて来る。シェリフより銀の増した髪だった。
シェリフは、アーチをくぐった所で立ち止まった。半歩後ろで足を止めた琴巳に、言う。
「偶然だ」
短い台詞が終わるか終わらないかで、若々しい父親が声をかけてきた。息子に負けず劣らずの、達者な日本語で。
「なんだ、シェリフ。日本からのお客って、そんな若いお嬢さんだったのか」
「友人の御家族」
シェリフはするりと答えてから、尋ね返した。「始めたのはウォーキング? ジョギング?」
琴巳は挨拶のタイミングを掴み損ね、近づいた家主をおずおず見上げる。親子で同じ程の、栩麗琇那に近い背丈だ。
この息子ならばこの親と得心できるハンサムな父は、軽快に両腕を動かして見せた。
「ジョギングだよ。家を一回り」
マーニュ家なら、一周も大した距離だろう。そして言われてみれば、半袖にハーフズボンで、出社するようないでたちには見えない。一汗かいてから重役出勤だろうか。
シェリフは、ここでやっと、こちらを示した。
「加賀琴巳さん」
琴巳は頭を下げた。
「お世話になってます」
いえいえ、といかにも日本的な返答が来た。琴巳が顔を上げると、当主は優美に腰を折った。
「シェリフの父のアルベールです。愛らしいマドモワゼル、マーニュ家にようこそ」
アルベール氏は優しく微笑んだ。「琴巳さん、可愛らしい姿だね。それも日本の民族衣装かな?」
シェリフが代わりに答えた。
「これは彼女のオリジナル」
「ふぅん。いいセンスだ」
琴巳は何も言えずに笑みを繕う。本当は彼の息子のセンスだ。
そういえば、下着もシェリフさんが選んだりしたのかな……
下着類も全て翠界風だ。上に着る物と一緒にさり気無く手渡されたので、その時は特に恥ずかしくなかった。けれど、今思えば結構恥ずかしいではないか?
うひゃ。そうだよぅ――〝女の子の日〟の話まで、平気な顔で聞いちゃってたぁ。
翠界には使い捨て生理用品なんて無い。あちらでは完全に布ナプキンらしい。これを繰り返し洗って使う、と、昨夜、シェリフは何でもないような顔で解説してくれた。何でもないような顔をしていたので、琴巳も、ふんふん、と真剣に聞いていたものだ。
そして今も、シェリフは至極冷静な物腰で父親に対していた。若人は散歩かい? という問に、この前作ったログハウスに行くんだ、と答えた。
「あぁ、あれか。お前も凝った物作ったよね」
アルベールは、作ったことに関しては何ら問題の無い感想を述べてから、こちらに笑いかけた。「遊びに行く分にはなかなかのモノだよ」
琴巳も笑みを浮かべたが、引きつった。生活しに行くのはちょっと……と言われたようなものだ。
シェリフは一瞬苦笑をひらめかせ、まぁ行こう、と玄関を開けた。




