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翠界も、一年は三百六十五日だという。それを、やっぱり十二等分している。ただ、あちらの一ヵ月は等しく三十日。残った五日間を〝神の曜〟と呼び、年末の祭日として、十二ヵ月とは別個に考えているらしい。
ひと月は、更に五等分されている。つまり、一週は六日間だ。
碧界の暦で七月二十一日から始まった琴巳の異世界体験は、翠界の勘定の仕方だと、四週間経過した。
炊事も洗濯も、やっとこさっとこ、コツを掴んできた。それまで連日、しかも幾度も浮かんでいた、帰りたい、という思いが、ここ二、三日は訪れない。住めば都とはこういうことか、としみじみ感じている。
今日は、日本風に言えばお盆だ。
お祖母ちゃんのおはぎを食べられないのが、残念だなぁ。
ぼんやり思いながら、大半を木で作られている小屋で、琴巳は宿題にようやく手をつけていた。
毎年早めに片づけていたが、今年ばかりはそうもいかなかった。渡仏前の予定では、別世界に慣れつつ、毎日夜にでも少しずつやるつもりだった。だが、実際はそれどころではなかった。暮らすことだけに脳味噌をフル稼動させないと、成り立たなかった。
とにかく覚える事々が膨大で、それらが頭に入るまでの毎日はミスの連発だった。苦も無く頭に入れてしまっているシェリフがレクチャーするあれこれを、必死に試みた。
基本は、いかに節約するかだ。溜めた雨水にしろ、ポンプで汲み上げた水にしろ、無駄に垂れ流しては労働が増えるばかり。燃料も同じく。夜は特に、灯りをどれだけ使わないかで相当違ってくる。
全ては、日のある内にやってしまうのが最良だ。
そんなわけで、本日は朝から勉強である。
森と見紛う庭の一角にひっそりと建っているこの小屋は、二部屋プラス離れのような空間のみだ。
玄関を入ると廊下が真っ直ぐ離れに向いている。そこにはトイレと浴室がある。離れに向かわず、すぐ横に折れればダイニングキッチン。丸テーブルと椅子が二脚。達磨ストーブ、竃、戸棚が一つずつ。後は手押しポンプの付いた流し台。ダイニングから布を分けると、ベッド、小卓、丸椅子があり、他は小さな箪笥が二竿。
小屋の横手には、食料と燃料の地下付き貯蔵庫がある。又、離れには夜露や雨水を溜めるタンクに、砂利と炭を用いた濾過装置が取り付けられている。
ダイニングのテーブルでしばらく数学問題を解いていた琴巳は、難問につまずいてシャープペンシルを置いた。筆記具だけは宿題をやる時のみ使うという条件で、持ち込みを認められている。
翠界には、スレンダーな鉛筆は無い。太目で2B程の濃さの芯を手頃な二枚の板で挟み、紐で縛った代物が〝鉛筆〟と呼ばれている。
消しゴムはパンが代用されているそうだが、贅沢なので職業画家辺りしか使わないらしい。
一般に勉強で書き物をする人々は、地面に小枝や石で書いたり、石板と水を使ったりしているという。インクを使った羽根ペンや筆もあるけれど、間違うと書き直せないのが難点だ。
お兄ちゃんはきっと、好きなだけ書いたり消したりできるありがたみを知ってたから、勉強にも熱が入れられて……めきめき頭良くなって……
わたしも頑張ろう、と琴巳はペンを取りかけたが、額から汗がつたい、やる気が萎んだ。
周囲の木々が一部を遮ってくれるが、夏の陽射しに照らされ、小屋の温度はぐんぐん上昇していく。
額の汗を綿のタオルで拭い、琴巳はテーブルに頬をつけた。蚊帳に似た網を掛けた窓から、青々と繁る枝葉を見る。
森に入ると割合涼しいと九十五里で覚えたが、様々な生き物が活躍する季節だ、害虫の類も多いから迂闊には歩き回れない。琴巳は栩麗琇那が一緒でなければ、森や林にはなるべく入らないようにしていたものだ。
懐かしい時間を思い出し、じわりと涙が浮かんでくる。
その時、こんこん、と玄関がノックされた。
「っは、はいっ」
琴巳は慌てて立ち上がり、入口の閂を外しかけて思いとどまる。翠界では、リィリ共和国に限らず、女性の一人暮らしは多くない。通常以上に用心が要される。「どっ、何方ですか」
「〝開けゴマ〟」
シェリフの合言葉が聞こえ、琴巳はドアを開けた。白金の髪の美青年が、涼しげな顔で立っていた。「三日程度で、忘れかけたな」
琴巳は、上目遣いにシェリフを見上げた。
「開ける前に思い出せたから見逃してください」
いまいち君は危機感が足りない、とシェリフはぴしゃりと言う。天才教官の採点は厳しい。琴巳はしゅんとして、気をつけます、と応じる。
マーニュ家の屋敷はこの小屋から一㎞ほど離れた所にそびえている。シェリフは毎日指導に通ってくれていたのだが、慣れてきたようなのでこれからは気が向いた時に来る、と言い置き、三日前から来なくなった。
彼の前で、帰りたい、とこぼしたことは無かった。だから的確に、慣れてきた、と見破られたのには少なからず驚いた。彼は観察眼も並々ならぬ。
アイスティーもどき淹れますね、と流しに足を向ける琴巳に、シェリフは訊いてきた。
「何をめそめそしていた?」
はっと琴巳は両の目尻に手をあてる。シェリフはのんびり続けた。「ホームシックか。また何か失敗したか。独りで人恋しくなったか。変な虫でも出没したか」
それは今まで、琴巳が泣いていた理由の殆どだ。しかし、泣き言を洩らしたことも無かったが、泣いているところを見せた覚えも無い。
夜中にこっそり見に来てた、なんてことはないと思うケド……
琴巳が立ち尽くしている横手で、勝手知ったシェリフは空いた椅子に腰かけた。
「それとも、数式が解けないかな。と言うより、栩麗琇那のことでも考えていたか」
「えぇ!? なんでそこまで解っちゃうんですか!?」
半ば叫ぶように琴巳が声をあげると、シェリフは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「こんな限られた空間を埋めるピースなんて、それぐらいだ」
日暮れ過ぎまで吹いていた風のお蔭で、大気の向こうに宇宙の広がりが見える。
運良く、流星観測に適した気象条件だ。
午後十時、シェリフは静かな厨房に入った。
栗色の髪のメイドが、一人で床を磨いていた。
メイドはシェリフに気がつくと、額をなぞった手をエプロンで拭き、立ち上がる。
「飲み物だけでいいんですか? 何か簡単な物なら、作りますけど」
「いや、いい。じっと寝転がるだけだから」
ちょっと間を置いてから、そうですか、とおっとりした笑みをこぼして、メイドは手を洗う。彼女――ローズ・ファロは、三年前に亡くなった古参メイド、オレリア・ボネの姪だ。その大叔母のツテで、二年前から住み込みで働くようになった。
シェリフは窓に目を移す。外の暗闇を背景に、硝子にはローズの細い姿が浮き上がるように映っていた。
彼女は二十二歳と若かったが、万事、地味で影が薄い。マーニュ家に雇われるまで、幸福とは言い難い日々を送ってきたようだ。物覚えや要領も悪い節があり、使用人の間でも、鈍臭いと苦笑されているらしかった。オレリアがとても優秀なメイドだったから、余計にそう見られるのだろう。
当人はそれなりに頑張っていると、シェリフは知っている。
てきぱきとは言えなかったが、丁寧に支度したのだろうポットタイプの魔法瓶を差し出してきて、ローズは微笑んだ。
「お庭のログハウス、天体観測所だったんですか」
「それはおまけ。あそこは、本来あるべき生活に邂逅する所」
「……何だか難しいトコですね」
「まぁ、今晩は天体観測所で間違ってないよ」
シェリフは魔法瓶を手に、厨房を出ながら言った。「遅くまでありがとう。おやすみ」
はい、と応じるのを耳にしつつ、シェリフは厨房を出てすぐの壁にもたれている父を見た。甘いマスクがにいっと笑い、息子に並んで歩き出す。
玄関へ向かいつつ、シェリフは苦笑した。
「厨房に用だったんじゃ?」
「うん。何か食べたくなって」
父はさらりと言った。「でもローズ、父さんが来たら用意してくれるだろうから」
「多分ね」
それはもう喜んでしただろう。
「こんな時間までシェリフを構ってくれてたなら、今月は時間外手当も振り込んでおかなきゃ」
シェリフは前を見たまま応じた。
「要らないと言いそうだけどね」
「だいぶ、ローズのこと解ってきたんだ?」
後ろ手を組んで隣を歩く父を、シェリフは横目で見た。
「含みをありありと感じるんだけど」
「隠してないから」
父はニヤリとした。「祖父さん並は困るけど、使用人に手を出すなとは言わないよ」
「……イザベルの時も何も言わなかったね」
「シェリフの恋した彼女には、文句無かったからね」
父の笑みが穏やかなモノに変わった。「シェリフを恋した彼女には、言いたいことがあったけど。父さんが言う前に、お前の方が気づいた」
シェリフは無言で顎を引く。
初めての恋人は結局、シェリフの魅かれた部分を欠けさせたまま元に戻らなかった。三年前、アルベールが持ちかけた縁談に飛びつき、イザベルはマーニュ家から出た。某石油成り金の次男坊夫人として、今は幸せらしい。
「ところで、天体観測は誰とやるんだい」
質問に些少の驚きを否めず、シェリフは隣を見た。
父は、おどけたように眉を上げた。
「一人分にしては、そのポットは大きい。筆頭執事を連れてくなら、ポットの用意も彼がやれば済んだ。残る執事は飲み物不要だし……」
シェリフは父に敬意を表し、真実の一部を告げた。
「先月紹介した琴巳嬢は、あれから一人、あそこで生活してるんだ。エコロジーライフプロジェクトのモニターとして」
「あんな痩せっぽちの女の子が?」
濃い緑の目を丸めた父は、実に正直な表現をした。「吹けば倒れそうだったのに、前時代みたいな設備しか無い小屋で、ひと月も?」
「そう。ま、今晩ぐらい現代に戻してあげようかと思って。と言っても、天体ショーを観るだけだから、現代文明を感じるかは謎だけど」
「そうかぁ。大和撫子だなぁ」
少年のように興味津々の顔つきになった父を、シェリフは片目を細めて見た。
「モニター期間が終了するまでは現代社会からなるべく隔絶したいからね。記録係の俺以外がのこのこ行くのは却下」
「……早々に釘を刺されたかぁ」
残念そうに言う父に、シェリフは肩をすくめて見せる。
玄関ホールで父と別れ、シェリフは真っ暗な庭に入った。無造作なようでいて、計画的に植樹された木々の合間を歩く。
本当のところ、琴巳がこの一ヵ月半を乗り切りつつあるのは、シェリフにも意外だ。
できないと投げ出したら、シェリフのサポートもそれまで。当人も諦めがつくだろうし、この件の主なアフターケアはそれで終了。後は、〝折々に書かれた手紙を転送する〟という選択肢を取るだけで済んでいた。
それが、この分だと〝翠界に行った場合〟のコースを取る。そちらは頭の中で更に枝分かれし、様々にして長大な道筋を築いている。
〝翠界に行った場合〟の最短コースは、〝栩麗琇那に追い返され戻って来る〟だ。その際は、別のステージに則って動く。〝失意の琴巳にメンタルケア〟へ。
各想定が起こり得る確率も試算している。今のところ〝翠界に行った場合〟の次段階は五分五分で、有力筋が二つあった。一つは先程の〝栩麗琇那に追い返され戻って来る〟。もう一つは〝当初予定通り、しばし滞在する〟。
どうも、確定できないな……
行く手に見えてきた淡い灯火を目に映し、シェリフはすっきりしない心地だった。
今一つ、異世界でルウの皇帝となった友人の本意が測れない。これが少しでも明確になると、よりミスの少ない対応を取れるのに。
栩麗琇那にとって、琴巳はどの程度の存在だったのだろう。
彼が琴巳に最後に告げた、忘れろ、という言葉は、相当含みがあった、と評した枸紗名に賛成だ。しかし栩麗琇那は琴巳を迎えに来る様子が無い。本当に、言葉通りだったのかもしれない。生真面目に、養子として、里親夫妻の孫娘に接していただけかもしれない。
俺と居る時のあの緊張感の無さからして、琴巳は何もかも栩麗琇那に許していたわけでもなさそうだし……大体、栩麗琇那は皇族としての高貴なプライドを保っていた。慕って来る娘を易々と手込めにするとも思えない。しかしだ、男として、もしも多少なり好いていたら、五年も手を出さずに同居できるか? 相手の夏場の恰好はあのテだ。あの狭い家で。
なかなかに美しい腕と足を大サービスで見せていた来仏時の琴巳を思い出し、シェリフは首を捻る。
ログハウスに近づくと、中に見えていた灯し火が揺れた。玄関が開き、異界ランプを持った〝別世界人〟が、コンバンハ、と出て来る。
「窓からずっと見てたんですけど、そこの木陰から出て来るまで全然判らなかった。ホントに視界が利きませんね、夜の森って」
琴巳は、不思議そうに続けた。「シェリフさん、よく角灯無しで来れましたね」
〝懐中電灯〟でもなく〝ランプ〟でもなく〝角灯〟ときたか。
順応ぶりに、シェリフは失笑する。琴巳は小首を傾げ、見上げてきた。夜だろうが昼だろうが、お構いなしに信用している目だ。
俺に何もする気が無いから琴巳も感じ取らないだけ、というパターンもあるな。
栩麗琇那もそうだったとしたら、琴巳は完全無欠の片想いだ。
夜空をちょっと仰いでから、シェリフは思考を切り換えた。
「今から言う物を持って来て。納屋の鍵、敷物、毛布とマグカップを二人分」
琴巳は口の中で繰り返すそぶりをし、頷くと小屋へ戻る。手際良く集め、出て来た。
シェリフは納屋を開け、木製の梯子と箒を出す。梯子を家の側面に固定し、箒を持って屋根に上がった。屋根の形は色々あると蒼杜から聞いていたので、シェリフ好みにしてあった。空の観測に適したタイプに。
平らな面を箒で掃き、下の琴巳から受け取った敷物を敷く。毛布なども受け取ると、上がっておいで、と呼んだ。
琴巳は恐る恐る梯子を上ってくると、勾配の無い屋根に安心した様子で立った。シェリフはポケットから防虫スプレーを出し、吹きかけてやる。
「寝転がると、全天が見れる」
素直に従った琴巳は、わぁ、と早くも感動したらしい声を出す。シェリフは隣に座り込んだ。「では、天体ショーにつき、ライトダウン」
ランプの蓋を開け、灯火を消す。
光は、無数の星が上空で放つのみとなった。
「綺麗……」
溜め息まじりに、琴巳が洩らした。シェリフも仰向けになり、瞬く光を見つめる。
新月の夜空に、青白く、黄色く、赤く煌く太古の輝きが在る。
思ったより早く、しかも幸運なことに視線の真正面で、チカッと一際眩い光が生じた。スッと尾を引いて消える。
「わ――」
消えてしまってから、琴巳は声を出す。「初めて見れたぁ」
「願い事をするにはあまりにも短いね」
「あっ、そうですよねっ、流れ星って言えばっ」
今頃思い出したらしく、琴巳は俄然張り切った声で言う。「光ってからお願いしてたら間に合わないから、ずっとずっとお願いし続けてたらどうかしら。そしたら、お願いしてる間に流れることになりますよね」
「なるほど」
逆の発想か、とシェリフは半ば本気で感心し、つと栩麗琇那に関する思索を蘇らせた。
栩麗琇那が琴巳を好いていた場合……五年も平穏に同居するというのは――恋の範疇じゃない。愛情だ。
もしそうなら、そこまで想っていたなら、世界を間に隔てている今、どうしてる……?
「あ――」
琴巳の透き通った声が、響いた。「って思った瞬間、願い事がすっ飛んじゃうー。やっぱり駄目かもー」
それは、何か不吉な答のようで――
シェリフは、ぞくっとした。




