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七月、期末試験の最終日、琴巳は順子と学校を出た。
今年は空梅雨で、昼過ぎの外は太陽の光が眩い。既に夏本番という感じだ。
暑いー、と順子は片手をぱたぱたさせた。
「こういう時は早く塾行きたいよ。クーラー効いてるもんね」
「ナルホド」
琴巳は相槌を打ち、えくぼを作る。順子は大学を目指すと決め、四月から週四日、塾へ通うようになった。今日もこれから、塾でテストを受けるのだそうだ。
中学の時から不思議な程に縁のあった二人だったが、去年からそれが段々薄れてきていた。今年も三組と四組にクラスが別れ、一緒なのは登下校のみとなっている。
お互い殆ど何でも話してきた相手だったけれど、三年生になってからは、相談事などをしなくなった。単なるその日その日の話しかしない。
言う機会も訊かれることも無く、琴巳は独り、止まった時間の中で栩麗琇那を捜して、彷徨っている。あの、三月の日から……
大通りに出た所で、琴巳は塾へ行く順子と別れた。颯爽と市営バス乗り場へ行く後ろ姿をちょっと見送り、琴巳は目を落とした。足元を見ながら、家へ向かって歩き出す。
三年四組には元一年五組の裁縫仲間が三人集まっていて、琴巳は去年のような、クラスで淋しい思いをせずに済んだ。昼もその三人と机を合わせ、弁当を食べている。しかしそれが却って、順子との間を疎遠にしたかもしれない。三組には瑠璃が居て、順子は彼女と昼食をとっているようだ。
そもそも順子は、楽しい高校生活をする為に梛女を選んだ。望み通り充実した毎日を送り、後悔の無い三年間を終えるだろう。
片や琴巳は、栩麗琇那との釣り合いから選択した。不純な動機を反省しろとばかり、見事に裏目の生活……当の相手とは一年ももたず、隣接の男子校から望まない告白を繰り出される日々。
「加賀先輩っ」
歩道橋を通り過ぎた所で、若い男性の声に呼び止められた。又……? とぼんやり思いつつ、琴巳は振り返る。
本年、青葉高校では専ら〝呼び止め作戦〟が流行っているらしい。それというのも、昨年の二学期末、少年達がどうやって女子校の下駄箱に手紙を入れていたかが判明したからだった。
入れていたのは梛女の下級生。少女は金品と交換で下駄箱に手紙を入れる商売をしていたそうだ。琴巳と同じようにしょっちゅう手紙を入れられて閉口していた二年生が、授業もさぼり、友達とひたすら昇降口に張り込んだらしい。挙げ句の果て、商売人を捕まえ、辞めさせたのだ。
そんなこんなでラブレターが渡らなくなり、少年達は、度胸で当たるしかない、という考えに行き着いたようである。
駆け寄って来た少年は、何かの大会で選手宣誓でもするかのように声を張り上げた。
「ベンキョでお忙しいとは思いますがっ、俺と付き合ってくれませんかっ」
うわ、と琴巳は半歩ほど引いてしまう。どうにも体育会系の男子から真っ向勝負を挑まれることが多い。奇妙に押しの強い、苦手なタイプに。
好奇の視線が集まるのが判り、琴巳は肩をすぼめた。少年は、お願いしますっ、と集中する目をものともせずに、頭を下げる。
順子は逆の道を行ってしまったし、琴巳は勇気を出すしかなかった。きゅっとバッグの持ち手を握る。
「ごめんなさい。付き合えない」
少年はキッと顔を上げた。琴巳は更に半歩引いてしまう。
「理由を教えてくださいっ」
好きな人がいるの、と琴巳は素直に言えなくなっていた。忘れろ、とその人は言った。言った人は、この世界にはもう居ない。好きな人は、居ない――
「他に相手が居るからだ」
第三者が割って入って来て、琴巳はびくっとした。嫌でもあの日を思い出してしまう人が、何処から現れたのか、琴巳の目の前、少年の隣に立ち止まった。悠然と、緑の瞳を少年に向ける。「納得したかな?」
言葉に詰まる少年を尻目に、緑眼の美青年は琴巳に目を移した。軽く顎をしゃくる。夏の陽射しを反射し、プラチナブロンドがきらきら輝いた。
加賀家の方向へ、青年は歩き出した。何も考える間が無く、琴巳は後を追う。以前、二人で話した時もそうだった。シェリフは、人を従わせる何かがある。会いたくなかった相手なのに、琴巳は何だかついて行ってしまっている。
少し歩いて、琴巳はともかく礼を言った。シェリフは鷹揚に受けると、綺麗な歯をこぼした。
「家まで傍観する予定だったんだが、倒れる可能性を否めなかったから。出ることにした」
傍観を予定する人も珍しい。琴巳は、はぁ、と応じ、瞳を上向けた。もしかして、校門の所から〝傍観〟していたんだろうか。相変わらず、不思議な人物だ。
あの日の事々を思い出してしまうので、琴巳は沈黙を嫌った。
「シェリフさんは、大学……? 今回は夏休みを利用して?」
「そうか、君には何も言っていなかったな」
シェリフは、短く笑った。「俺は、割と飛び級したんだ。四、五年前までは各国の大学に呼ばれて教鞭をとったり、専門研究チームに入ってみたりしていた」
琴巳は小さく口を開ける。シェリフは前を見たまま、のんびりした風情で続けた。
「今は、そういうことに飽きた。それでまぁ、気儘に過ごしているのさ」
しばらく言葉が見つからなかったが、あぁだから、と思う点が幾つかあった。やたら機転が利くのも、外国語が流暢なのも、十年がかりで異世界の迷子を家へ帰せたのも、こういう人物だったからだ。
ところで今回は何をしに来たのか。予定としては琴巳を傍観するつもりだったらしいから、琴巳に会いに来たのか。
思えば、シェリフは二年前に会いに来た時も意図が掴めなかった。裏公園までの僅かな時間、話しただけである。
琴巳は、ちょっぴり笑みを含んで尋ねた。
「今日はウチまでお話しするんですか」
シェリフは寸時沈黙した後、笑声を洩らした。愉快そうに応じる。
「今日は少々長くなりそうなので、良ければお邪魔したい」
「あ、はい」
「見せたい物があるので、本題は家で話す」
「分かり、ました」
琴巳は小首を傾げつつ答える。
青年は、結構、とにっこり笑った。
シェリフも昼食はまだだと聞き、家に帰りついた琴巳は二人分の食事を用意した。
昨日までは公士も半日で帰って来ていたので、やはり二人分作っていた。今日は、中学も期末試験最終日で、弟は早速再開した部活動の為、帰りは遅くなると言っている。
居間のローテーブルに食後の冷茶を出すと、ソファで上品に座る客人は目を細めた。
「調理師っていう進路は、いい選択だな」
「お祖父ちゃん達から聞いたんですか」
琴巳は自分の分のコップを手にテーブルの脇に腰を下ろす。シェリフは頷くと、横手に置いていた麻のサマージャケットへ手をのばした。
「依頼主の話が出たことだし、本題に入るとしよう」
言いつつ、内ポケットから、白い封筒を取り出す。琴巳は微かに眉根を寄せた。
「お祖父ちゃん、すぐ近くなのに……わたしに関わることで、わざわざ何か頼んだんですか」
「近くに居るのに何もできないもどかしさを、君は経験してると思うけど?」
シェリフは問い返すように言い、封筒から便箋を何枚か出した。「多くは、遠くに居たって何もできないけどね。お祖父様の願いは、遠い俺に叶えられることだった」
期待が湧いて、琴巳はきゅんとした。
栩麗琇那を忘れなくても良くなった、と言ってほしい。異国の知り合いとしてでいいから、彼に手紙が書きたい。
帰郷してすぐ、栩麗琇那はこれまでの礼として大量の宝石を加賀の二家に贈ってきた。〝万一換金が必要な時は御連絡を〟と、仲介してくれたシェリフが書き添えていた程の量だった。無論、家族は贈られて来たままの現物を思い出として手元に置いている。
確かに受け取ったと祖父母が便りを書き、今度は遊びに来て欲しいと母と弟が一筆添えた。
琴巳は、記名しかできなかった。忘れろ、と言われていたから。
本当は、何か書きたかった。
シェリフは、手にした便箋の一枚を差し出してきた。
「俺は日頃から、自分の書いた手紙をコピーして保管している。これも、実物は先月末に翠界に出した。改めて説明するより解り易いと思うので、読んでくれ」
「……はい」
「受取人は、ソウト、と言う。翠界で、碧界との接点を管理している男だ。まぁ、俺とそっくりな人物さ」
向こうにもシェリフのような奇特な人が居るのだと認識し、琴巳はとにかくも手紙の複製を開く。下手な日本人より数段上手な日本語の文章が、書いてあった。
【実は黙っていた事が有る。俺は二年前、翠界の客人絡みでもう一件依頼を受けた。
依頼主は、彼の養い親夫妻。依頼の内容は、彼等の孫娘に関する事。これでおおよそ察すると思うが、一応書くと、その琴巳嬢は彼に恋慕している。】
「えっ――えぇ!?」
風が通って涼しい居間で、琴巳はたちまち顔が熱くなった。シェリフはしれっとして、今もだろ? と言った。
「物心つく前ならいざ知らず、忘れろなんて無理な話さ。先月、倒れたそうだね。それでお母様がお祖父様方に相談されて、俺の所に連絡が廻って来たわけだ」
口をぱくぱくさせる琴巳に、シェリフは平然と、全部読んでくれ、と促す。羞恥に震えが起こってきたが、琴巳は続きに目を走らせた。
【夫妻は彼女の気持ちをよく理解していて、彼が翠界に帰れると判った翌日、俺に依頼した。
琴巳が行きたがった時、翠界に行かせてやってくれと。
俺は琴巳に面会し、その際は行かせる事にした。】
琴巳は、息を呑んだ。言葉が、出て来ない。
会いたい――お兄ちゃん――
ぼろぼろっと琴巳の目から涙がこぼれた。涙で、残りの数行が歪んで見えた。
【そこで現段階、仮定ではあるが、そうなった時の保証が欲しい。返事によって、次の段階に移る。 C】
「で、返事がこれだ」
シェリフは次の一枚を掲げた。「真正と証明する為にも現物を持って来た。向こうの紙の質はあまり良くない。泣きやんで読むのが望ましい」
琴巳は小刻みに頷き、急いで目元を拭った。けれど、四ヵ月近く抑え込んでいた気持ちが、堰を切って溢れてしまった。なかなか、涙は止まらなかった。
「ごめ……なさ……」
「予想はしていた。だから一枚ずつ見せることにしたんだ」
中性的な声で笑って、シェリフは手紙をひらひらさせた。「本音を言えば、他人の色恋に巻き込まれるのは御免だ。けど君達は、俺がもっと早くヘッドを見つけていれば、こうも深まらなかったと思う。だから俺の納得いくところまで面倒を見させてもらう」
話を聞くうち、琴巳は涙が止まった。他人の色恋に巻き込まれるのは御免だ、とは、尤もな話だった。敢えて巻き込まれてやると言ってくれている人に、要らぬ迷惑はかけられない。そう思ったら、涙が引いた。
手早く鼻をかんですっきりすると、OK? とシェリフはソウトからの返事を渡してくれた。翠界の紙は、和紙のようでいて脆そうな代物だ。
異世界からの便りを、琴巳はドキドキしながら開いた。そういえば、栩麗琇那が後二年半で帰ることになったと教えてくれた時、読ませてくれた手紙には日本語で文章が綴られていた。今回も、シェリフそっくりの筆跡で、同じく日本語が並んでいた。
【琴巳嬢の件、宜しいかと。ですが、いっ時の面会を求める程度なら、私は気が進みません。本来、ルウの当主が住まう島を出る事は稀です。それだけ多忙で、私的な時間の限られた境遇にあります。
来たいと仰るなら、数年滞在する気概が必要でしょう。されば、彼も無下にはなさいますまい。碧界の御家族には、とかく思い入れがお有りのようですから。】
琴巳は口を覆う。もしかすると、行っても会えないかもしれないのだ。こんな理由もあったから、栩麗琇那は、忘れろ、と言ったに違いない。琴巳の気持ちに応えてはくれなかったが、理解はしてくれていたから。
【もし覚悟の上、来ると仰るなら、事前にこちらの習慣を把握しておくのが望ましいです。察するに、翠界は碧界に比べてかなり生活に利便性が有りません。恐らく、女性お独りがいきなり暮らすには過酷でしょう。
翠界の習いをいささかなりとも覚えて下されば、住まい、生活及び安全は、叶う限り私の名において保証致します。
六暦六一三年六の月二十一日 蒼杜】
「――どれぐらい、不便なんでしょう」
夜の砂浜で異世界の存在を初めて知らされた時に、空気は綺麗だけれど色々と未発達だと皇子から聞いた覚えがある。
琴巳の問に、シェリフは肩をすくめた。
「下水設備は先人が完成させたらしいが、ライフラインが皆無に等しい」
「……じゃ、昔のように、石で火を起こしたり、川で水を汲んで来たり……?」
「つまり体力勝負の世界だ」
シェリフは冷徹に言った。「恋煩いで倒れてるようじゃ、無理かもな」
ぎくんとした琴巳を、青年は見下ろしてきた。
「でも一応、チャンスはやる。さっきも言ったように、責任の一端を感じてるから。試す気があるなら、翠界の疑似体験をさせるよ。我が家の庭をこの夏、提供しよう」
これを申し出に今回は来日したのさ、とシェリフは言い、冷茶を飲んだ。「どうなるとも判らない異界にあたら身を投じるより、さっさと調理師として自立する――それが最も妥当な考えと思うけど。君はどうかな」
風が舞い込み、窓辺に吊るした風鈴が鳴った。
リン――と。琴巳を、促すように。




