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時間は同じ速さで流れている筈なのに、長く感じたり、短く感じたりする。
あの八月十日以来、琴巳の周りの時間は凄まじい程のスピードで過ぎ去っていた。
未だ身の置き場が無い二年三組での、喫茶店を出店した文化祭。順子や珠洲や有美と、和気藹々に行けた九州への修学旅行。本来なら印象に大きく差があるべき二つのイベントも、何処か別の次元の出来事のように、琴巳にはさほどの印象を与えず終わった。
毎日、頭の中が栩麗琇那でいっぱいで……
瞬く間に年末がやって来て、彼は九十五里へ帰省した。淋しさをこらえて正月を迎え、一月半ば過ぎにようやく再会できた。
タイムリミットが着実に近づいて来る中で、琴巳はつらさを顔に出すことだけはしないようにしていた。
彼は殆ど、学生生活を楽しむ為だけに碧界に居る。卒業後は、双肩に大変な役目を担い、故郷で生きていく。過酷な人生だと思うから、青春を過ごした碧界の、いい思い出を持って帰って欲しかった。たまには、琴巳のコトも思い出して欲しい。それもやっぱり、いい思い出として。
咲子に〝餌付け〟と言わしめた程、琴巳はきっちり三食を栩麗琇那に作っていた。味の記憶というのは後々まで残る気がして、日々料理の腕を上げようと精進している。
そんなこんなで、琴巳は高校卒業後の希望進路が、何となく決まっていた。
二月下旬、学年末テストが終わった日の放課後、校門を通ってから順子が切り出した。
「今日さ、来年のクラス分けの為にアンケートやんなかった?」
「ん。ウチもやった」
琴巳は答え、後ろ手にバッグを揺らした。「選択科目がクラス分けの基準だろうけど、卒業後の進路希望もある程度書くようになってたね」
「あたし、のほほんとしてたよー。もうそんな話が来る時期になったんだねぇ」
順子は午後の青空を見上げた。「焦って無茶苦茶書いちゃった。〝大学か短大。とにかく進学〟って」
「わたし、ヨリちゃんは青大に行くような気がしてた」
瞳を上向け、琴巳は言った。「センパイが行った所為かな」
青葉高校生は、半数以上がそのまま青葉大学に上がって行くそうだ。順子の兄も、去年から青大に通っていた。琴巳は土曜日しか行っていない所為か、キャンパスで見かけたことは無いが。
「それを言うなら琴巳もだよ。ずっとズレてたけど、ついに一年間、同じガッコの学生としてキャンパスを歩けるじゃん。〝青大〟って具体的に書いたんじゃないの?」
ううん、と琴巳は首を振った。
「それも考えたんだけど、やめた。咲子さんの話を聞いてると、同じ学年でもそれ程お兄ちゃんに会う機会って無いみたいだし」
「あれ、じゃ、アンケート何て書いたの?」
「〝調理師専門学校〟」
ややの間、順子はぽかんとした。
「はー。更に腕を磨こうって?」
うん、と琴巳が笑むと、そっかぁ、と順子は首の後ろに手をやる。琴巳は肩をすくめた。
「選択科目は一緒でも、進路先で、又クラスが別になっちゃうかもね」
「うーん、そうかも。残念だぁ」
順子は、ちろっと舌先を覗かせた。「一歩先行されたな、これは。あたしも真面目に考えよ」
琴巳は短く笑った。
「わたしも、お兄ちゃんが居なかったら、まだ考えもしなかっただろうけど……」
「シシ。お兄さんが羨まし。一生美食三昧か」
翠界にお料理上手な人が居たら、わたしの味なんてすぐ忘れちゃうかもね。でも、お兄ちゃんがこっちに居るうちは、わたしにできる精一杯のことをしておきたいから……
「お兄ちゃんには、ずっと美味しい物食べてもらいたいな」
琴巳は明るい表情で言った。
それは、空元気も混じっていたが。
半年があっと言う間に経過し、栩麗琇那はささやかに気が滅入っていた。
苦しい日々は長々とたゆとうのに……幸せだと、どうしてこうも光陰のように時は過ぎ行くのか。
この分だと、一年も二年もさして違いは無さそうだった。
三月半ばの土曜日、アルバイト料を貰い、栩麗琇那は大学図書館を出た。
一年間続けたバイトだったが、今日で辞めた。司書達はしつこく存続を勧めてきたが、栩麗琇那は不必要に琴巳と過ごす時間を削りたくなかった。そろそろ本分に集中したいので、と断ったものだ。
女子校の制服を着た少女が、入口の横手から小走りに来て、バスケットを掲げた。
「配達に来ましたー」
栩麗琇那は僅かに口の端を上げ、手をのばした。
「取り上げられなかったか」
「半ドンだから」
バスケットを渡してきて、琴巳は花のような笑顔を見せる。「後四回学校行けば、わたしも春休みだもん。ポーチ一個で来る子も居るよ?」
「……高校も、もう休みに入るんだな」
「えへへ。宿題無いから毎日遊べるぅ」
琴巳は、ほのかに頬を染めて見上げてきた。「お兄ちゃんも、バイト終わったなら、毎日遊べる?」
「あぁ」
バスケットを片手に提げ、栩麗琇那はもう一方を差し出した。重なってきた柔らかな手を握ると、歩き出す。
強い春風に前髪をなぶられ、やや顔を背けた。琴巳はプリーツスカートの裾を押さえ、きゅっと目をつぶる。
風下へ水平に散って行く雪柳の花びらを見やって、栩麗琇那は言った。
「今日は何処か、教室に入って食べるか」
こくりと頷いた琴巳は、目を閉じたままで言う。
「そうしないと、おべんと食べてるのか花びら食べてるのか判んなくなりそ」
まったくだ、と応じ、栩麗琇那は手近な校舎に入った。せっかくだから景色を楽しむかと、最上階まで上がる。
特殊な視聴覚のシステム等が入っていない限り、教室は何処も鍵が無い。語学の時に使われる小さ目の教室を選び、二人は窓際に腰かけた。五階に位置するそこからは、青バス乗り場や大学生協の入った一画が見下ろせた。
土曜の昼過ぎは、キャンパスを歩く人影はちらほらあるが、果たして校舎に人は居るやら、という感だ。
今日も張り切ったらしい琴巳がたくさんの弁当包みを取り出し、栩麗琇那は心地好い昼食に興じた。
食事が終わると、時間を確認し、栩麗琇那は机に頬杖をついた。帰りのバスまで、一時間ほどある。
「眠くなってきた」
呟くと、向かいで琴巳がくすくす笑った。
「お兄ちゃん、しょっちゅう御飯の後で寝てるのに、牛にならないね」
既にまどろみ出していて、ん、と栩麗琇那は鼻で応じる。
琴巳が土曜に弁当を届けてくれるようになってから、栩麗琇那はよく昼寝していた。寝つきもいいし寝覚めもいいので、睡魔に任せて眠りに落ちる。バスの時間が近づくと琴巳が起こしてくれるので、安心しきって睡眠がとれる最高のひと時だった。
「新学期からも、土曜日はお弁当配達していい?」
「いいな」
栩麗琇那は微笑をひらめかせた。「で、来年からは専門学校で覚えたメニューを、配達してくれ」
「うんっ――できたら絶対する」
極上の笑顔が華やいで、栩麗琇那は目を細めた。
「今から楽しみだ」
瞼を伏せ、息をついた。
コトミが料理学校へ行っている間、残っていられないだろうか……
調理師専門学校は長いと終了まで二年かかる。栩麗琇那が卒業してから、もう一年。一年ぐらいなら、帰郷を延ばせないだろうか。
去年の秋、分家より負荷の多いラル家に一言欲しいと蒼杜からの手紙を受け、栩麗琇那は幾つかの提案をまとめた。それまでの記録を見て気になっていた、無駄な配属と労働時間を割いている箇所を指摘し、省けないか検討してみるよう伝えた。
他に、この九年に渡って蓄積してきた碧界の知識も参考に、皇領の移民対策や統治についての改善案も、一意見として書き送ってみた。
今年初め、六暦六一一年の記録と共に、蒼杜から返礼と報告が届いた。
叶う限り指示に添ってみた結果、諸々良い方へ向かっているようだという。ならば後二年ぐらい我慢してくれ、と栩麗琇那は更な返信をしようかと思ったが、シェリフを煩わせるのも申し訳無かったのでやめた。
あの時返信しなかったのを幸い、後三年我慢してくれ、と言い直せないものか。一年ぐらいなら、延びたところでラル家の面々も何とかするだろう。
もう一年居れると知らせたら、コトミがどれだけ喜ぶか……目をきらきらさせて――澄んだ声で、嬉しい、って言うだろう。
少しでも長く、彼女を幸せにしたい。傍で行く末を見守りたい。近くに居られるようになって、欲が出てきている。限られている筈の時間を、延ばしたくなっている。
この感情は、我儘以外の何物でもないけれど……
ふわふわっと頭を撫でられ、栩麗琇那は目を開けた。琴巳が、ぱっと放した手を胸元にあてた。
「ごめん――起こしちゃった」
「寝てる隙にちょっと叩いてやろうって?」
冗談なのに、琴巳は慌てた様子で弁解した。
「そんなつもり無いよぅ。花びらが付いてたから、取ろうと思ったの」
あ、ほら――と、琴巳は栩麗琇那の目先をひらひら散った物を指差した。「それ、付いてたの」
栩麗琇那は、机に落ちた小さな白い花弁を見やった。
「早咲きだな、今年は」
「あったかい日が続いてるから、間違えちゃったのかな」
気を取り直したように琴巳は言った。「雪柳って、すぐ散っちゃうけど綺麗ね。散り際も間違えて、長持ちして欲しいな」
言葉の後半は自分に重ねられたようで――
栩麗琇那は心の底から、あぁ、と応じた。




