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朝倉家は、真新しいシックなマンションの五階にあった。持ち家の一戸建ては、去年から別の一家に賃貸していると言う。その賃貸料で、こちらの二LDKを借りているわけだ。
張り切って掃除しとく、と言っていただけあって、予想以上に室内は整えられていた。
琴巳はトートバッグからエプロンを取り出し、早速料理に取りかかることにした。武は、花瓶探してくる、と奥の部屋へ行く。
築十年が経つ加賀家と違い、ここのキッチンはカウンタを挟んでダイニングと繋がっていた。今風で明るい雰囲気だ。
自宅の台所を使い慣れているだけに多少不便を感じたが、琴巳はカウンタにあった時計を見つつ、せっせと準備した。この分だと、正午を少々まわってしまいそうだ。
ムニエルとスープの下拵えを済ませ、サラダに移った頃、やっと見つけた、と武が戻って来た。細身のクリスタル風の花瓶に、琴巳は顔をほころばせる。
「素敵」
「それは良かったが、あの部屋、今おふくろが帰って来たら気絶するかもな」
武は茶目っ気まじりに言って、花束の包みを開く。「今まで風通して掃除機かけるぐらいだったから、何が何処にあるのかさっぱりで……」
「解る気がする。わたしも弟の部屋なんか、最近なんて特に、どうなってるやら」
琴巳は話しながら、レタスを一枚一枚剥ぐ。武は流しで花瓶に水を入れ、相槌を打った。
「やっぱり小学生までかな、姉弟で一緒の部屋って」
「そうね。別々になれるスペースがあるなら――ウチは、わたしが小学校を卒業した時に、それぞれ部屋を貰ったの」
「あれ、じゃ、それまで兄貴は我慢させられたんだ?」
「あ、ううん、えと、お兄ちゃんは、初めから、一階の書斎に……」
「書斎なんかあるのか。それってやっぱり、本棚に囲まれてるんだ?」
「ん、造り付けの本棚は三つ。だけど、本自体がちゃんとした棚以外の場所にも並んでるから、本には囲まれてるって言えるかも」
「男・女・男の三人きょうだいって、そういうもんなのかな」
武は可笑しそうに言った。「弟は姉貴を部屋に入れてくれないのに、兄貴は妹を入れてくれるんだ」
どきんっとした弾みで、ビ、と変な所からレタスが切れた。琴巳はおたおたと残りを剥ぎ、口早に応じた。
「それは、あの、どだろ――お兄ちゃんのトコは、前はたまに、勉強教えてもらいに行ったりしてたから、ちょっと、覚えてるの」
「そういや、兄貴は幾つ?」
「今年、二十歳に……」
鼓動が速まるのを自覚し、琴巳は話題を変えたかった。武はそんな心情を解るわけもないから、へぇ、と応じる。
「大学生?」
「ん、うん」
顔が下がりつつある琴巳の傍で、武はいかにも少年らしい手つきで薔薇の束を花瓶に突っ込んだ。突っ込んだだけにしては、適度に広がっていい見栄えになる。かっこいー、と琴巳は半ば本気で感想を言った。武はちょっぴり身を反らして花瓶と花を見る。
「三千円も出したら、もっと買えると思った」
「その花瓶には十五本ぐらいが限度じゃないかな。丁度いいと思うよ?」
包み紙を小さく畳みながら、武は口の端を上げた。
「加賀が気に入ったなら、いいや」
言ってから、何か手伝うことは? と武はキッチンを覗く。
「そろそろお皿の用意をお願いしまーす」
あぁ、と武が食器棚に向き、琴巳は話題が逸れたことを安堵した。気を取り直して調理に専念する。
カウンタの時計がポーンポーンと十二回鳴り、更に三十分後に一回、そして次の一回が鳴る前、料理は完成した。
カウンタ脇のテーブルに向かい合って腰かけ、二人はオレンジジュースのグラスを合わせた。いただきます、と声を揃える。
スープを一口飲んで、美味い、と武は眉を上げた。
「トトのスープより断然こっちだ」
琴巳は目を細めた。
「高級コンソメ使っただけあったね」
「材料の所為? 加賀の腕じゃなくて」
「材料でーす。味見した時、美味しいって思ったの。いつもは、こんなもんかな、って感じなのに」
「なるほど」
「ムニエルとサラダはこれから確認。サフランライスは、今回、初挑戦なの」
ふんふん、と相槌を打ち、武はぱくぱく食べ出した。琴巳も、奮闘して空腹だった胃を満たし始める。二人は会話もそこそこ、食事に熱中した。どのメニューも、琴巳のこれまでの炊事生活で一番美味しい出来となっていた。
揃ってぺろりと平らげ、続いてデザートと紅茶を楽しむことにした。琴巳が角切り果物にヨーグルトをかける間に、武はやかんをガスコンロに乗せた。紅茶の小さな缶をしげしげと眺め、髪をかき上げる。
「ウォーム、ザ、ポット、ビィフォア」
琴巳がきょとんとして見やると、少年はぶつぶつ続けた。「プティング、イン、ワン、ティースプーンフル……」
入れ方が英語で書いてあったようだ。急須じゃ駄目なのか? と缶に向かって問いかけるので、琴巳はくすくす笑って缶を覗き込んだ。
「急須って何て言うんだろね。〝ポット〟になるのかな」
武は目をこちらに流した。
「要は茶漉しが付いてればいいんだよな?」
笑いながら、琴巳は頷く。
「いいと思う」
「俺、英語苦手なんだよ」
ぼやきつつ、武は棚から急須やカップを取り出す。琴巳はデザートの器をテーブルに運びながら、わたし数学ー、と言った。武は、面白そうに言った。「学年五位も、それなりに得手不得手があるんだ」
「たはは。わたし、成績落ちたよー? 三学期は二十四位。も、役員は無理ね」
「なんだ。けど、俺も役員は無理だ。英語が足引っ張って十八番に落ちた」
「あ、わたしもわたしも、数学と物理の所為」
琴巳は拗ね気味に口にした。「お兄ちゃんに教えてもらえなくなっ――ちゃ……て」
途中から声が小さくなる。頭がすうっとなった。自分から話題に出してしまった。
武は琴巳の声量が落ちた点は気に留まらなかったか、カップをテーブルに並べ、問うた。
「兄貴、理数系の学部?」
「専攻は、考古学、なんだけど……」
「それって、発掘とかに出かけたりするのか」
「えと……確か、本格的に考古学ができるのは三年からって、言ってた」
「そうか。一、二年は高校と同じで多少遊んでても大丈夫ってヤツかな。サークル活動とかコンパの方が忙しいって?」
音をたて始めたやかんへ足を向け、琴巳はぎごちなく笑った。
「あんまり〝遊ぶ〟って言葉の似合わない人なの。でもデート代が欲しくなったのか、先月からバイト始めたみたい」
「何か兄貴も面白そうな人だな。そのうち会ってみたい」
「そ、そ、そう?」
琴巳はびくびくしながら、やかんを落とさないように手元に神経を集中させる。武は、紅茶缶の蓋を開け、笑声をこぼした。
「シスコンじゃないならな」
「それは公士の冗談だよぅ」
でも会わせられないの、と琴巳は心の内で告げる。
ポットに熱湯を注ぎ、琴巳は時計を見やった。
「葉っぱに注ぐのは、丁度、ポーンて鳴る頃かな」
あぁ、と武は銀の匙を手にする。これも美味そうだ、とデザートを見て幸せそうな顔をした。琴巳も匙を持って、えくぼが浮かぶ。「口にあって良かった」
「毎日、作りに来てほしいくらいだ」
褒め言葉に、ぽっと琴巳は頬がほてる。武はひと匙すくい、真顔で続けた。「九割本気だ。一割は現実的に無理ってことで割り引き」
「味が落ちてもいいなら、又こうして御飯食べるのも楽しいかもね」
琴巳は薔薇の花を見て、目を細めた。「これはドライフラワーにすれば、毎回飾れるし」
武は花束を見て頷いた。又ひと匙すくいながら、乾燥させればいいんだろ、と言う。琴巳は匙で果物をつついて、お母さんに訊いてみる、と答えた。
「綺麗なドライフラワーを作るにもコツがあるって、言ってた覚えがあるから」
「何でも、突き詰めると奥が深いな」
まったくの真理に、ホント、と琴巳は同意する。
時計が二時を知らせた頃には、二人はデザートの器も紅茶のカップも空にし、満足した気分で後片づけを始めていた。
琴巳は家族の分を弁当箱に詰めさせてもらって、その後、並んで食器や鍋類を洗った。明日から再開する学校の事々やクラスメイトの話で盛り上がり、半を告げる音がした時刻、片づけも終わった。
「何時に帰る?」
武に問われ、琴巳はハンドクリームを手に馴染ませながら、そうねぇ、と瞳を上向けた。
「みんなのお夕飯はこれでばっちりだし、そんなに早くなくてもいいけど。ちょっと遅いと公士がすぐからかうの。幼稚園児がよく補導されなかったなー、って」
ぽふっと武は片手で口を覆う。琴巳は口をすぼめた。「笑わないでよぅ」
「あぁ」
応じながらも、武は笑みを含んだ声音だった。「随分、色気のある幼稚園児だな」
「えっ、色気があるなんて言われたの初めて」
琴巳はクリームの瓶をバッグにしまい、両手を組んだ。「自分のコトじゃないみたい」
冗談でも嬉しくて、はにかんでしまう。
武は、曇り空の日に、眩しそうな目をした。すっと手をのばして、頬を包んでくる。
キスに流れる雰囲気に恐怖をいだいた琴巳に、真摯な低声が囁いてきた。
「俺には充分、色っぽい……目茶苦茶可愛い」
優しく額にキスされ、琴巳はきゅっと目をつぶった。足が震え、カウンタの柱に寄りかかる。とん、と顔の脇に手をつく気配の後、そっと唇が重なってきた。
閉じた瞼の裏に浮かんできたのは、愛しそうな目で見つめてくれた栩麗琇那。
あの時、ついばむように重ねてくれた唇から、想いが届いた。
疑いようも無く好いてくれている相手からは、感じない――
アレは夢なのに。何故こんなにもリアルに蘇るのか。
胸が詰まり、琴巳は懸命に我慢したが、駄目だった。口を塞がれたまま、涙がつたった。
頬を包んだ手が濡れたか、武はぱっと顔を離した。目を見張る。
「なんで――」
「ごめん、なさ……」
誤魔化しようがなく、琴巳は両手で顔を覆った。くぐもった泣き声を洩らす。「忘れ、られな……」
言わんとすることを理解したのか、武はしばし絶句していた。
かた、と云う音に、掌で涙を拭いながら琴巳が顔を上げると、武は反対側の壁に寄りかかっていた。頭を抱えるように髪をかき上げた手を、途中で止める。下方の一点を凝視したまま、低声が紡がれた。
「あいつの方が、キスは上手かったわけか」
「……判ん、ない」
「じゃ、なんでキスの時に泣くんだ!?」
琴巳が身を縮めると、武は苛立たしげに息をついた。「ちくしょ……俺だけ舞い上がって、かっこ悪ぃ」
「ごめん、なさい……」
「もしか、この前も原因は同じだな!? 言えよ! 言えば今日だって我慢したぞ、俺はっ。このシチュエーションでキス止まりにする自信があったんだ。れっきとした理由があるなら、指一本触れずに帰したっ」
琴巳はぎくっとした。自分がいかに軽い気持ちでここに来たか――一人暮らしのカレシの家に上がり込んで、何も警戒していなかった。相手が抑制してくれていただけだ。
全身が震えてきた琴巳を、武は切なそうに見つめてきた。
「けど、忘れたくて、俺がキスしても逃げなかったのか……?」
こくん、と琴巳が顎を引くと、武は深く息をついた。紅茶の缶を取り、向けてくる。「飲まないか。気分直し」
憤懣を抑えてこちらを気づかえる心に、又も泣きそうになった。何とか、うん、と答える。
二人は今一度紅茶を味わい、今後について少し話した。家まで送る、と武が言ってくれて、琴巳はその言葉に甘えた。いつものように加賀家の門前で別れる。
帰り道、この際言わなければと琴巳は思っていた。だが結局、言い出せなかった。
前のカレと同居してるの、と……




