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翌々日の土曜日、待ち合わせ場所で、琴巳は順子と会った。学校へと歩き出しながら、順子が気づかわしげに言う。
「四日、雨だったねぇ」
「でもお兄ちゃん、青大に連れてってくれたの」
「ホント? わ、良かったね」
順子は胸を撫で下ろす仕種を見せる。「はぁ、良かった。ブルーだったらどうしようかと思っててさ」
「御心配おかけしました」
「いやいや、雨の大学でデートか。ムーディーですなぁ」
順子は胸の前で両手を組む。「見つめ合う二人。周りは雨音のみ――君の瞳に乾杯」
「そこで『カサブランカ』が来ますか」
二人は笑う。箸が転がっても笑ってしまう年頃だ。
歩道橋が見えてくると、順子が目の辺りに手をかざした。何なんだろ、と呟く。
「同じ人かな。今日も誰か立ってるみたいに見えるけど」
琴巳は無意識に順子の袖を掴んだ。半ば隠れ、前方に目を凝らす。遠く歩道橋の所に、ぼやっと青い人影があった。
「ヤだ、どうして――?」
「例の――えっと、何とか君?」
「遠過ぎて判んない。でも……」
琴巳は口ごもる。今日も一緒に遠回りを願うのは身勝手だ。第一、人影が武だとは限らない。
順子は、肩越しに振り返った。
「ね、なんで怖いの」
ぴくっと琴巳は震えた。感情の出所は判っている。栩麗琇那に言って欲しい台詞を、栩麗琇那に似た空気を纏って言われたから。気持ちが、揺れてしまったから。
しかしそれを、琴巳は話せなかった。これまでずっと、順子は恋の後押しをしてくれている。別の人に心が反応してしまったなんて、とても口に出来なかった。
「わたし、今日も遠回りしてく。ヨリちゃんは、真っ直ぐ行って……?」
「……わーかった」
順子が応じて、琴巳は親友を失くしてしまった気がした。けれどすぐ、肩を抱かれて戸惑う。「話題にしないって約束したよ。ごめんごめん」
これからはそっちの道が通学路、と宣言し、順子は少し先の脇道へ促す。琴巳は足を向けながら、目頭が熱くなった。
「お兄ちゃんに、似てるの――」
涙声で、琴巳は吐露した。「なのに、違う――あの人、お兄ちゃんから聞きたい台詞、言うんだもの」
角に入った所で、二人は立ち止まった。琴巳が懸命に涙を抑える前で、順子は眉根を寄せる。
「お兄さんに似てる人なんて見た目じゃ考えられない。雰囲気?」
琴巳が頷くと、順子は口許に手をやる。「でもって、言う、ってコトは、メアドどこじゃない――一足飛びってヤツ?」
再び頷き、琴巳は取り出したハンカチで目元を押さえる。
順子は、琴巳が恐れた軽蔑を見せなかった。はーん、と納得したような声を出す。
「まったくぅ。独りで悩むんだから」
言って、順子は琴巳の背に手をかけた。ゆっくり歩き出しながら、説明してくれる。「あのさ、琴巳があたしに、大好き、って言ってくれると、あたしは嬉しいの。ちょっぴり心も弾んだりして。で、ちょっぴりなのは、あたしらがレズじゃないから。けど、異性に同じ台詞言われたら、よっぽど嫌悪をいだいてる奴でもない限り、たくさんドキドキしちゃうよ」
「……朝倉君の時も、そうだったのかな」
「似てると思った分、ドキドキが割り増しされたんじゃないかな」
順子はにっこりすると覗き込んできた。「けど、四日のデートはもっとドキドキしなかった?」
かあっと頭が熱くなったが、そうだぁ、と思うと琴巳は肩の力が抜けた。
「早く聞いてもらえば良かった。わたし、馬鹿みたい」
順子はからから笑ったが、つと顎に指をあてた。
「琴巳、ちゃんと断ったんでしょ?」
「好きな人いるからごめんって」
「んー。じゃ、何だ彼は。諦めが悪いな」
親友が小首を傾げ、琴巳は肩をすぼめる。
「やっぱりあそこに立ってるのは、わたしを待ってる朝倉君だと思う?」
「交歓会があるまで、女子校通りに立ってる青高生なんて居なかったからねぇ」
琴巳は不安に鼓動が速まった。
「わたし、まだ、怖いな」
「押しの強い男から逃げ回るのも考えものだけど……ま、今日は帰りもこっちのルート通ろ」
治まらない鼓動のまま、うん、と琴巳は応えた。
新しい週が始まって三日目、教室で順子とお喋りをしていた琴巳は、入口から珠洲と有美が顔を覗かせたのを見留めた。
「やっほー」
琴巳がひらひら手を振りながら声をかけると、有美が駆け寄って来た。
「えーん、琴りん、どうしよう、ごめんなさい、ごめんなさぁい」
言いながら抱きつかれ、琴巳は受け止めながら瞬く。珠洲に目を向けると、一組級長は心得た様子で尋ねてきた。
「ここ何日か、歩道橋の前を通ってないね?」
どきっとする間に、珠洲は続けた。「朝倉君が、二、六、八、九、十と、この五日間、朝夕あそこに立ってるんだ」
順子と顔を見合わせてしまう琴巳の胸元で、有美が泣きそうな声で告げてきた。
「今朝、通り過ぎる時に目が合っちゃって、訊かれたの――加賀、風邪でもひいてんの? って」
やはり武は琴巳を待っていたのだ。頭のてっぺんがすーっとしてきた琴巳の前で、有美は続けた。「わたし、元気に学校来てるって言っちゃったの。そしたら怒ったみたいにして、けど通ってない、って言うから、わたし――ヤだ――」
有美の目から涙がこぼれた。琴巳は慌てて少女の背中をさする。
「泣かないで――有美ちゃんは何も悪くない」
でも……と声を詰まらせる有美の代わりに、珠洲が言った。
「道はここだけじゃないもの、って口を滑らせたんだって。で、後から考えるうちに、勝手に教えて良かったのかって、頭ぐるぐるしてきちゃったんだと」
「えぇ? 良かったんだよぅ。知ってること訊かれたら、答えちゃうものだもん」
琴巳が有美を慰める横で、順子が呟くように言った。
「どうやら放課後は校門前まで来そうだな」
珠洲は苦笑気味に唇の端を上げた。同感、と頷く。
「そう思ってね。教えた方がいいって有美りんを説得して、来たわけ」
「ありがと、二人共」
琴巳は笑みを作る。で、どうする? と順子が視線を流してきたが、すぐに答えられなかった。
珠洲が、首の後ろに手をやりながら問うた。
「朝倉君のこと、琴りんはフったんだよね?」
「好きな人いるって、言ったんだけど……」
琴巳の返答に、えぇーっ、と有美がショックを受けたようにして声をあげる。たはは、と周りの三人は乾いた笑いを洩らした。もとい、と珠洲は言って、提案してくる。
「琴りん、その好きな人と付き合ってることにすれば? 片想いならチャンスありだと思われてるんじゃないかな」
順子が、ぽんと手を打った。
「そうだよ。だから朝倉君、頑張ってるんだ」
「あれは半端じゃないね。一組でも話題になってきてるんだ、昨日の夜七時頃、通りがかりに見た子が居て。学校の帰りにも同じ光景を見たから、びっくりしたとか何とか」
「夜の七時!?」
仰天した琴巳の肩に、珠洲は手を乗せた。
「下手にはぐらかしてると、ああいうタイプは余計燃え上がるよ。嘘つくの苦手そうだけど、この際きっぱり言ってやった方が無難だと思うね」
「あぁ、嘘つく必要無い。琴巳は付き合ってるもの、その好きな人と」
順子の台詞に、えぇえぇっ!! と有美が悲鳴をあげた。
「予想通りに動く人だなー」
放課後、順子は校舎の窓から外を眺め、呆れたような、感心したような口調で言った。
その窓からは下に校門が見える。傍の電柱に、渋い青色のブレザー姿が寄りかかっていた。下校する少女達が、少年をじろじろ見ながら、通り過ぎて行く。
親友と並んで見やる琴巳は、胸が痛んだ。溜め息が出る。
「付き合ってる人がいるって言ったら、脱力しちゃうだろうな」
順子は窓枠に背中をもたせかけた。
「しょうがないよ。諦めの悪さが招いた不幸だもん」
「……別の用事だったりしないかな」
「ほほー。例えば?」
「う……うーん、うーん」
琴巳も窓に背を向け、廊下の天井を見上げる。「宿題で、解らないとこがあるとか」
「クラスの友達に訊けばいいでしょー」
順子は苦笑いする。「男が女のトコに改まって出向いてくる用事なんて、決まってるんじゃん?」
「あっ、女装してみたいから服が借りたいっていうのは!?」
「……お兄さんに似た感じの人が、そんなことしたがる?」
「したがらない、か」
琴巳が足先に目を落とすと、順子がずばりと言った。
「現実逃避してる」
とん、と琴巳は肩を押された。「そろそろ校門前空いてきたし、ジョーブツさせてあげな? 七時まで立ちんぼさせてたのが引っ掛かってるなら」
痛いところを言い当てられ、はぁい、と琴巳はぼやくように応じる。
順子は頼り無げな姿を見送ってから、一年五組へ足を向けた。
ヨリりーん、と声がして、有美が走って来た。その後ろから、のんびり珠洲が歩いて来る。
「琴りん、行っちゃった?」
息を弾ませた有美の問に、順子は頷く。
「とっくに朝倉氏は到着してるし」
「何ですってー」
有美は爪先立ち、窓から下方を見る。「あぁっ、うぬぅ、朝倉君めー」
珠洲も傍まで来て、もう来てるのか、と窓外に目をやる。そうして、見物体勢に入りつつある有美の背中を叩いた。
「有美りん、出歯亀っぽいよ。やめなさい」
「だってぇ、わたしの琴りんがー」
「彼女はカレシのモノだ。諦めよう」
「嫌々、珠洲りん、忘れようとしてるのにーっ」
有美は唇をすぼめて珠洲の腕を叩く。あはは、と順子は笑ってから、誘った。
「お菓子あるよ。食べながら結果報告を待たない?」
「ほほ。行き届いたこと」
珠洲はおどけた口ぶりで言うと、有美と腕を組む。
三人は、五組の教室へ入って行った。
親友達が呑気に菓子袋を開けた頃、琴巳は昇降口から外へ出た。
重い足を無理矢理動かし、校門を出る。出た途端、電柱に寄りかかっていた少年は気づいた。真っ直ぐこちらを見て、真っ直ぐ歩み寄って来る。
下校していた女生徒達が興味深げな目を向ける中、武は琴巳しか見えていないようだった。立ち止まってしまった琴巳の前に来るなり、待ってた、と言う。
「鞄は?」
「教室。あの、三隅サンから、今朝のこと、聞いて……」
「窓から見えたのか」
武が校舎を見やり、琴巳も何となしに振り仰ぐ。つと腕を取られ、琴巳は慌てて向き直った。
「な、何?」
「加賀、逃げそうだから」
武は、ぽつんと言う。琴巳は小刻みに首を振った。
「に、逃げない逃げない」
だから放して、と言外に漂わせたのだが、少年は放してくれなかった。
ピークは過ぎていたが、校内全ての生徒が下校してはいない。新たに門を出る人出る人、好奇の眼差しを送ってくる。琴巳はうつむいて、懇願した。
「みんな見てるから、放して?」
武は無言で、琴巳の腕を引いた。そのままフェンス沿いに歩き出す。琴巳は困惑の声をあげた。「朝倉く――」
「誰も見ないとこへ行く」
琴巳はぎょっとした。それはそれで困る――怖い。
「も、ここでいい」
広い背中に訴えると、少年は足を止めた。大層かの青年に似た仕種で、くしゃっと前髪をかき上げる。
「じゃ、聞いて」
真摯な目が振り返り、琴巳を射すくめた。「俺は本気だ」
ゆるゆると琴巳は首を振る。声が、喉の所で停滞して、出て来ない。
武は断言してのけた。
「加賀の好きな奴よりずっと、俺は加賀が好きだ。それは確かだ」
これでは、カレシがいると言っても通用しそうになかった。
その上、琴巳は弱点を突かれた。ずっとずっと、気になっていること。栩麗琇那の内の琴巳の割合――琴巳など、彼にとっては針先ほどの存在感しかないんじゃないか――
目の前の少年は、この二年与えてもらえなかった台詞をくれる。琴巳だけを見つめてくれる眼差しも。
ヤだ、わたし――
肩をすくめた琴巳の腕を取ったまま、武は繰り返した。
「好きだ」
足が震えてきた。流れに呑み込まれそうだった。
腕を僅かに引き寄せられ、琴巳は悲鳴気味の声をあげた。
「放して、お願い」
やにわに、願いを叶えられた。する、と手が離れ、琴巳は胸元で両手を組む。後ずさりながら少年の顔を見て、気まずそうな目線が琴巳を通り越していると知った。振り返ると、数歩先に二人と居ない美青年が立っていた。
感激する琴巳と裏腹に、武は不愉快そうな声音で問うた。
「知り合い……?」
琴巳は、否定される不安に潰されそうになりながら、言ってみた。
「わたしの好きな人で、今、付き合ってる、人」
武が見返すと、栩麗琇那は表情を浮かべないまま、不意に踵を返した。琴巳は、深い穴に落とされた気分になる。
だが、歩き出した栩麗琇那は、落ちかかった琴巳に翼を付ける台詞を放った。
「コトミ、バス停で待ってるから鞄取って来な」
「う、うんっ」
舞い上がる心地で琴巳は返事をしたが、立ち尽くす武を見て切なくなった。「じゃ……行くね、わたし」
「……あぁ」
「それじゃ」
琴巳は唇を引き結んで、既に遠ざかりつつある青年の背中を追って行った。
恋する女性が綺麗になるというのは、真実らしい。
帰り道を歩きながら、栩麗琇那はそう思った。
琴巳がいたく可愛らしい風情で、横を歩いている。先程の男から逃げ出せたのが余程嬉しかったのか、うっとりとして、心持ち寄り添い気味だ。
先月は、そうして近づかれようものなら激しい欲望に苛まれていた。が、今は取り敢えずの平静を保てる。それというのも、ここ数日ぱったりと、琴巳の味見や食事の夢を見なくなったから。
思い返すと、大学へ当人と出かけた辺りからだ。彼女の傍で眠り込んで、彼女の傍で目覚めてから、精神的に安定したようなのだ。
いっ時の幸福を味わう栩麗琇那の鼻先を、ふわっと花のような香がかすめた。昨日、琴巳の入浴後から匂い始めた石鹸のモノだ。去年から育てたハーブで、連休中に琴巳はわざわざ手作りしていた。嗅ぎ慣れない香だったが、キツ過ぎず、優しい匂い。
材料のハーブを摘み取った時、二人も使ってみる? と琴巳はえくぼを見せた。しかしながら、公士は、女臭い、と一言で片づけ、栩麗琇那も遠慮した。琴巳が育てたハーブで、琴巳が作る石鹸だ、琴巳が大事に使えばいい。そう思ったから。それを口には、しなかったが。
それにしても、こうして隣からほんのり薫ってくると何やら心地好くなってくる。琴巳の雰囲気を嗅覚でも感じ取れるなんて、栩麗琇那にとっては至福だ。
更に琴巳は、耳を潤す、澄んだ声を聞かせてきた。ようやく、話をする余裕が出てきたらしい。
「お兄ちゃん、飴玉要らない?」
琴巳はトートバッグのポケットに手を入れた。「さっき、ヨリちゃんから貰ったの」
何となしに手を出しつつ、栩麗琇那は問うた。
「コトミの分はある?」
うん、と頬に小さくえくぼを生み、琴巳は苺ミルクの飴を掌に乗せてくれた。
「お兄ちゃんが来てくれたお祝いって、二つくれたから」
「祝う程のことか……?」
多少呆気に取られて言うと、琴巳はぎごちない笑みを見せた。
「アサクラ君、ちょっと、根気強くて困ってたの」
「そう」
相槌を打ったが、頭の痛む思いだった。
琴巳は相変わらず栩麗琇那の傍に居たがる。即ち、寄って来る男は彼女にとって迷惑な存在なのだ。栩麗琇那としては、琴巳をこれ以上苦境に追いやりたくない。だから、助けてしまう。助けられた琴巳は、益々傍に居たがる。ちょっとした悪循環が起こっている。
しかし、どうしようもなかった。そもそも栩麗琇那自身が、琴巳から離れられずにいる。彼女が傍に居てくれるだけで、驚く程ゆとりが持てる。大学で二人だけの時間が過ごせて、改めて実感してしまった。
栩麗琇那は自分でも、かなりの数の異性と出会ったと思っている。全て向こうから次々やって来るからだったが、今でも、近づいただけで空気の変化を感じる相手はただ一人。
きっと、故郷にもコトミのような女性は居ない。近頃、栩麗琇那はそう思うことが度々になってきていた。
思いもかけず異世界に来て、八年もの歳月が流れた。もはや、あの緑石は出て来ないのではないか。今年の春も、フランスからいつも通りの葉書が届いた。この秋も、来年も、再来年も、〝石はまだだ〟と知らせてきて、いつか〝石は駄目だ〟に変わるに違いない。
もう、それならそれで良かった。否、正直に述べてしまうと、その方が良かった。
はっきりしてしまえば――
「わ、電話」
琴巳の台詞で、栩麗琇那は我に返った。加賀家の前まで来てしまっている。確かに、家の中から電話のベルが聞こえてきていた。
もどかしげに琴巳が鍵を開ける。開いて、栩麗琇那は扉を引いた。少女の脇をすり抜け、手早く家に上がり、受話器を取る。こちらが名乗る前に、相手が急き込んで話し出した。
〔やっと帰ったか。琇那か? 琇那はまだか〕
養父と判り、栩麗琇那は何事かと色々想定しつつ、俺です、と応える。あ、琇那――と亘はせわしく繰り返し、即本題に入った。
想定した中で、最もあり得なさそうだった内容だった。
〔すぐこっちに来なさい。フランスから、待望のお客がいらしてる!〕




