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五月四日、空は生憎、どんよりと曇っていた。天気予報の降水確率も、八〇%と高い値が出ている。
午前十一時過ぎ、琴巳は栩麗琇那と青葉大学のキャンパスに入った。並木に挟まれた煉瓦の坂道を登る。
ゆったりとした斜面を歩きながら、琴巳は辺りを見回した。休日の大学は、本当に閑散としている。天候の所為もあるかもしれないが。
実際、琴巳は今朝、予報を知って外出を諦めていた。琴巳は出かけたくても、栩麗琇那もそうとは限らない。こんな日に出てくれると思えなかった。
が、予想は外れた。傘を持って行けばいい、と一言で片づけ、青年は連れて来てくれたのだ。
浮き足立ち気味に歩く琴巳の横で、栩麗琇那はのんびり上を見上げた。
「晴れの日は、陽の光が葉を透かして綺麗なんだ」
琴巳も見上げると、並木の枝々に葉が生い茂っていた。今日は曇り空を透かして灰緑色だが、日が射せば、新緑の季節だ、折り重なる色の陰影がさぞ美しいだろう。
「これ、桜だよね」
「入学した頃は花吹雪が舞っていた」
「わぁ……素敵」
想像しただけで、琴巳はうっとりしてしまう。
坂道を登るとスクールバスの発着所があった。通称〝青バス〟が、何台も整列している。壮観だ。
発着所を通過すると、様々な看板が見えてきた。さっきの並木には、クラブ勧誘や政治のあり方に対する意見など、何やら難しい内容の物まで立てかけてあった。今度は〝コピー一枚七円〟とか〝三分間スピード写真〟とか、町中にもあるようなヤツだ。
「この辺は大学生協だ」
栩麗琇那の説明に、あぁー、と琴巳は声をあげる。
「この前、ノート買って来てくれたトコ」
「あぁ」
学生証があれば、文房具にはじまって本やCD等も割安で買える。琴巳と公士は学校が始まってすぐ、ノートをまとめ買いしてもらった。
ブラインドの下りた建物の周りを廻って、横手に自動販売機を発見した。スナック菓子の見本が並んでいる。
しげしげと見つめ、琴巳は栩麗琇那を振り返った。
「本物?」
ぽふっ、と青年は己が口許を片手で覆った。琴巳は唇をすぼめる。「笑わないでよぅ。ジュースやアイス以外のなんて初めて見たんだもん」
あぁ、と応じた美声が笑み含みで、琴巳は頬を膨らませた。
「も、自動販売機はお終い」
琴巳は適当な建物を前に見て歩き出す。と、コトミ、と低声が呼んだ。
「そっちにも自動販売機あるぞ」
栩麗琇那は可笑しそうに言う。琴巳が拗ねた顔を作ると、青年は目を細めた。「悪かった、やめる」
手が差し出され、琴巳ははにかんだ。最近、手をつないで歩いていなかった。というより、機会が無かった。手を重ねると、軽く握って栩麗琇那は歩き出す。
肌寒い日の所為か、今日の青年の手は多少ひんやりしていた。琴巳は何となしに、手を握り返す。
流麗な眼差しがこちらに向き、すぐ逸らされた。何やら、歩調が速まる。
「昼、そろそろ食べるか」
「ん。お腹空いたかも」
琴巳は応じて、顔を巡らせた。「ホントにあちこちベンチがあるね」
「何処がいい」
「お兄ちゃんの気に入ったトコ」
言いながら琴巳が二本の傘を持ち直すと、栩麗琇那は空を仰いだ。次いで、手に提げた弁当入りのバスケットに目線を落とす。
「分かった」
短く答え、栩麗琇那は一方に足を向けた。煉瓦道を外れ、芝生を横切る。芝生にもベンチは点在していたが、どれの脇も通り過ぎた。
校舎だろう高い建物の角を曲がると、不意に、ぽっかりと開けた場所に出た。奥の方に、石造りの東屋が見える。栩麗琇那は琴巳の手を引き、そこへ入った。
東屋は小ぶりだったが、中央にテーブル、その両脇に背もたれの無い腰かけが据え付けられていた。どちらも同じ石造りだ。
テーブルにバスケットを置くと、栩麗琇那は腰かけを見やった。軽く手で払ってみて、呟くように言う。
「誤算だ」
テーブルや椅子には少々砂埃が付いていた。感じのいい場所だが、あまり利用者は居ないらしい。
琴巳は傘をテーブルに立てかけると、バスケットを開けた。ウエットティッシュを取り出す。
「ちょっと拭くから待ってて?」
「俺もやろう」
「じゃ、お願いします」
ティッシュを受け取ると、栩麗琇那はテーブルを拭き始めた。琴巳も腰かけに取りかかる。
粗方使用に足る状態になった頃、ぽつぽつと草地が音をたて始めた。予報に違わず、雨が降ってきてしまった。幸い無風で、雨は真っ直ぐな銀糸のように東屋を取り巻いた。
使ったティッシュをゴミ用のビニール袋に集めて足元に置き、ようやく二人は食事がとれるようになった。琴巳は新たなウエットティッシュを手拭として向かいに渡し、バスケットから弁当箱やタッパーを複数取り出す。
次々出した所為か、栩麗琇那は笑声をこぼした。
「頑張ったなぁ」
「ゴージャスでしょ?」
「あぁ」
栩麗琇那は食事時に見せる顔つきになった。感情を、ほんの少し表に出す瞬間だ。琴巳は、彼のこの顔が大好きだった。琴巳の料理を前にして幸せだと、言ってもらっているようで。
昼食が始まり、大半は琴巳が喋っていたが、談笑と共に時間が過ぎた。青年は用意した物を平らげ、琴巳が片づけを始めるとテーブルに頬杖をついた。やや降りの酷くなった雨の筋に目をやる。
片づけを終え、琴巳はバスケットを閉めながら、今日はもうやまないかなぁ、と独り言のように声をかけた。反応が無くて、目を向ける。栩麗琇那はいつの間にか、両腕に半ば顔をうずめ、瞼を閉じていた。寸時様子を窺ってから、琴巳は耳を凝らす。雨音に混じって、微かな寝息が聞き取れる。
眠っている。
判ると、とくんと心が鳴った。寝ていても、栩麗琇那は綺麗だった。濃い睫毛を伏せた顔が、起きている時より安らかだ。
お兄ちゃん、この前、寝顔の見物料請求してきたっけ。納得。この寝顔をタダで見るのは贅沢ね。おべんと作り頑張ったからサービスしてくれてるの?
雨音を聴きながら、琴巳は頬杖をついた。ただただ、目の前の寝顔を見つめる。
今まで一緒に過ごしてきた思い出が、浮かんでは消え、浮かんでは消え……最後に、幸せな気持ちだけが琴巳を包んだ。
起こしちゃうかなと思いつつ、囁いた。
「大好き」
寝息が返ってきて、琴巳はえくぼが浮かぶ。
それにしても〝目を放した隙に〟とはこのことだ。あっと言う間に眠ってしまった感がある。琴巳は瞳を上向け、最近寝不足だったのかな、と考える。
大学生だもんね。流石のお兄ちゃんも、授業についてくのが大変になってたりするのかも。寝言聞いちゃった時も、分厚い本読んでたみたいだし……
デートをねだったことが後ろめたくなってきた。雨降りのこんな日は、一日家で寝ていたかっただろうに。琴巳に付き合ったばっかりに、こんな所でうたた寝する羽目になっている。
青年の左手に、琴巳はそっと指先をかけた。大きな手がさっきよりひんやりしていて、申し訳無さが募った。
「ごめんね」
思わず呟くと、栩麗琇那は反応した。しかしそれは、目覚めてのことではなかった。幸せそうにさえ見えた寝顔が、眉を寄せた。かけた琴巳の指先を、左手が縋るように握ってきた。
低い美声が掠れて、言葉を発した。
「傍に、居て――くれ――」
琴巳は、息を呑んだ。
誰に言ったのか、今の言葉を。誰が、夢に出ているのか。
狼狽に、琴巳は握られた手をほどきかけた。が、よぎった考えに動きが止まる。
ほどいたら、彼が夢で掴んでいる手も離れてしまうかもしれない。頼んでいるのに。行かせたくない相手に。
琴巳は両手で、青年の左手を包み込んだ。
「だいじょぶ。傍に居る」
大きな左手から力が抜けた。秀麗な顔に目を移すと、安心したようだった。落ち着いたらしい寝息が、雨音に紛れて耳に届いた。
胸が、きゅんとした。
思えば、栩麗琇那は異世界からたった一人でこちらに来てしまったのだ。琴巳などの抱えている不安より、もっともっと深刻な気持ちを抱え込んでいるだろう。誰かに、支えて欲しいこともあるだろう。
わたしじゃ、駄目……? わたしにはどうして、傍に居な、なの? 傍に居て、って言ってくれたら、ずっと居る。故郷に帰れるまで、ずっと、居るのに。
誰に頼んでいたのだろう。琴巳は包んだ手に目を落とした。涙が滲んできて、鼻をすんすん云わせる。
「――ん」
低声が洩れ、琴巳は目線を上げた。数度瞬き、栩麗琇那が顔を浮かせた。腕のあたっていた頬の辺りを片手でさすり、こちらを見る。見て、眉を上げた。「あ、俺、すまない、うたた寝、して」
らしからぬ風情で途切れ途切れに言ってから、青年は自分の左手が琴巳の手を握っているのに気づいた。みるみる顔が赤くなっていったので、琴巳は驚いて見つめてしまう。
栩麗琇那は状況を把握しようと必死になっているらしく、額に右手をあてた。それでも、左手は琴巳の手を取ったまま。
琴巳は、きゅっと青年の左手を包み込んだ。
「えへ。寒くなっちゃって」
「…………」
「お兄ちゃんあったかそうだな、って思って手に触ったら、寝てるのに握ってくれたんだよ。ありがと」
「あぁ……そう、か」
栩麗琇那は赤みの残った顔で、生成りのシャツに引っ掛けていたカーディガンの袖をほどいた。羽織りな、と言うようにそれを向けてきて、苦笑気味に言う。「起こせばいいのに」
グレーのカーディガンを受け取った琴巳は、ほわっとした日の香に包まれた。胸元で抱き締め、上目づかいに向かいを見る。
「だって、今日は気持ち良さそうに寝てたんだもん」
青年は少しだけ口の端を曲げた。琴巳はカーディガンに目線を落とし、また変な夢見てたの? と、しらばっくれた問いかけをしてみる。
栩麗琇那は、思い返すように小首を傾げた。
「目が覚めたら忘れてしまった。けど、いい夢を見た気がする」
琴巳は、どきどきしながら、尋ねた。
「わたし、たまには出て来る?」
紅茶色の目が、質問を避けるように雨の方へ流れた。琴巳がうなだれかけると、時間差の返事が来た。
「味見や食事の夢をよく見る」
瞬きのうちに理解できて、顔がほころんだ。料理絡みなら、琴巳もたまには出て来るだろう。毎日三食、琴巳の手料理を食べている人だ。
嬉し、とささやかな喜びを感じ、琴巳は大きめのカーディガンを背中から羽織る。栩麗琇那がしていたように袖同士を軽く結ぶと、顔が熱くなってきた。つい今し方まで彼が引っ掛けていたと思うと、何やら後ろから本人に包まれているような気がしてくる。
琴巳がほてる両頬を押さえる前で、栩麗琇那は銀の筋に目をやっていた。
「やみそうにないな」
「しとしと降りのうちに帰る? メインのお昼、いい所で食べれたし」
頬から手を放し、琴巳はえくぼを浮かべた。「そのうち又、案内してもらっていい?」
「あぁ」
「今度は、お兄ちゃんが寝不足じゃない時」
栩麗琇那は額に手をかざした。悪かったよ、と情けなさそうな台詞が紡がれる。琴巳は笑った。「いいの。今日は寝顔のただ見しちゃったもん」
雨の中で、二つの傘の花が開いた。
並んで、坂道を降りて行った。
その日は一日、琴巳は栩麗琇那の傍に居た。
彼がそれを希望した相手は、自分じゃないかもしれなかったけれど……




