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翌木曜日の朝、栩麗琇那は普段通りに琴巳と家を出た。とはいえ、九十五里から馬安に帰って来たのは今日――午前二時過ぎだった。
歩きながら欠伸を噛み殺す。帰ってすぐ眠れれば良かったが、結局、一睡もできなかった。
「お兄ちゃん、学校休んだ方がいいんじゃない……?」
琴巳が、おずおずと言った。「シンドそう」
「……授業があると言って帰って来たんだ」
「口実通りにしなくても……」
「一講は必修だ。口実じゃない」
言い返してしまい、栩麗琇那は腹立たしさに前髪を払った。「気にするな。休み時間にでも仮眠をとる」
琴巳は両手でツーウェイバッグを提げ、目を落とした。うん、と小さく応じ、口を閉ざす。木曜の輝きが今日は無い。昨日のことが気になっているのだろう。彼女の気分を沈めているのが自分だと判るだけに、栩麗琇那は苛々した。
失せ物とはこういうモノなんだろうか――諦めかけると、出て来る。シェリフは、遂に首飾りの先を探し出してくれた。
ルウの皇子は、昨日の内にでも故郷に帰ってしまえた。けれど、こうして大学なぞに登校している。この一見呑気な現状にするまでには、シェリフや養父母と深夜二時近くまでの話し合いを要した。
亘からの電話を切り、栩麗琇那は馬安の私室から瞬間移動した。九十五里の自室から階下へ降り、応接間に居た客人を目に映す。
実に、八年ぶりの再会だった。
十七になる筈の少年は、さほど印象に変わりが無かった。こちらを見た中性的な面差しが、悪戯っぽく微笑した。
『お待たせ』
言いながらシェリフは立ち上がり、栩麗琇那と握手を交わした。背丈はほぼ並んでいた。流石にお互い、成長している。
積もる話があるだろうと、養父母が部屋を出て、二人の若者はそれぞれソファに腰を下ろした。
複雑な感情の整理ができない栩麗琇那の前で、シェリフはローテーブルに何か置いた。
例のペンダントだった。鎖のみではなく、十歳の栩麗琇那が受け止めて泉に踏み込んだ、あの時の、あのままの物だった。
天才には、八年の時間は感慨に耽る程のモノではないらしい。つい先日した話の続きをするように、訊いてきた。
『これ、本物に見える?』
不可思議な問いかけに、栩麗琇那は小首を傾げた。
『イミテーションなのか』
『そうとも言える。けど、性能は同じだ』
組んだ足の膝を、シェリフは両手で包んだ。『本物は、勝手とは思ったが、一足先に蒼杜に送った。彼には唯一の形見だから』
栩麗琇那は目を見張った。寸時言葉が出なかったが、何とか尋ねる。
『やはり、これが媒体だったのか』
『そう。ヘッドだけでも駄目だった。ペンダント全体で媒体となり得ている』
シェリフは唇の端を軽く上げた。『単に石を見つけたと報告しても、君をぬか喜びさせるだけだからね。あの蚤の市でヘッドを買い取った御婦人は、幸い、物を粗末に扱う人ではなかった。一昨年に彼女から本物を買い取った後、色々試した。結果は、そのペンダントに限り効果があると出た』
ずっと〝石はまだだ〟と伝えてきていた春分と秋分の日の葉書は、一昨年から頭に無色の付加があったらしい。〝媒体として絶対確実な〟という――
『ま、材質と質量が揃っていて形態もほぼ同じ物ならば、本物でなくても使える。去年の末、初めて蒼杜につながったのも俺の作ったコレだった。例の、母さんの小部屋から』
シェリフは、脇に置いていた上着のポケットから、白い封筒を取り出した。『君の放った結界の力は、母さんが最初に現れたのと同じ、ヴィンラ・タイディアの風の丘に通じたようだ。以来、蒼杜がその場所に鐘結界を張って、こちらからのアクセスを待ってた。お蔭で話が早く済んだよ』
封筒から紙片を取り出し、シェリフはそれを向けてきた。
信じられなかった。栩麗琇那の心には、喜びが欠片も浮かんでこなかった。あれほど望んでいた故郷への道が照らし出されたのに、暗闇の中でもがく自分が見える。己の為に八年の歳月を費やしてくれた相手に、感謝もいだけずにいる。
自己への嫌悪感に震えつつ開いた手紙は二枚。丁寧な筆致の日本語が記されていた。公用語だと思わない。日本語だと思ってしまう。皇子はすっかり、この世界の住人になってしまっていた。
【栩麗琇那、この書簡が貴男に届くと知り、言葉もありません。私が形見を落としたばかりのこの事態、貴男が御無事で在る事が本当に救いです。
ルウの大方は、ラル家の皇子を、生きながら死んでおられるものと解しております。ですが、今でもラル領の方々は新帝をおく事を拒み、栩麗琇那のお帰りを待ち望んでおられると聞き及びます。
一刻も早い御帰還を願っております。
六暦六一〇年神の曜 地の日 蒼杜・マーニュ・アリク】
手紙の日付は、こちらでは昨年の大晦日にあたる。換算しつつ、栩麗琇那は二枚目を読んだ。
【思う事が生じました。
彼は故郷に帰りたいと、本当にお考えでしょうか。八年という時間は、あまりに長い。私は、通信が可能になったと、お知らせするのをためらっています。帰郷を望むべきか、判らなくなりました。
六一一・一・十 蒼】
二通目を走り読んで、栩麗琇那は目を上げられなくなった。内心を、知神の申し子に読まれている。そして、天才には謀られた。二通目は栩麗琇那宛ではない。それを敢えて、シェリフは読ませた。反応を見るつもりだろう。
沈黙が、二人の間をたゆたった。シェリフが、それを破った。笑声をこぼす。
『簡単には探らせてくれないな』
無言で栩麗琇那は手紙を折った。シェリフに向ける。少年は受け取り、封筒に戻しつつ言を継いだ。『率直に訊く。君はいつ帰るつもりだ』
栩麗琇那は息をついた。
『そうだな……』
『入ったばかりの大学だ。卒業まで通いきりたい?』
シェリフは聡明そうな緑の目を細めた。『養父母の為には、中途退学なんて噂をたてられるわけにはいかない?』
『あぁ』
応じて、栩麗琇那は背もたれに身を沈める。天井を見上げ、続けた。『シェリフ、率直と銘打った割に回りくどいな』
少年は面白そうにくすりと笑った。
『神の子の蒼杜と違って、俺はひねくれてる』
栩麗琇那は短く喉を鳴らした。身を起こし、髪をかき上げる。
『中途退学には、幾らでも好誼的な飾りが付けられる。留学の為、某かのプロとなった為――両親だけが引っ掛かりじゃない、確かに』
シェリフは、今度は言葉通り、ストレートに問うてきた。
『帰る踏ん切りを、いつかつけられるのか』
『…………』
『八年は大きい。一体何人と関わっただろうね』
シェリフは、相変わらず大人びた物言いをした。『全てと別れるのは並大抵のことじゃない。それは、時間が経てば経つほど困難になる。引き延ばすのは得策じゃないよ。引き延ばした分の未練が生まれる』
栩麗琇那は、視線を床に落とした。
『納得するタイミングがある筈だ』
シェリフは、嘆息した。
『どうかな』
『…………』
『ま、俺はいつでもいい。非常に残念だけど、俺は君の世界に行けなかった。こっちに居続けるしかないから、いつでも連絡を受けられる』
言って、シェリフは新たな連絡先のメモをくれた。
受け取りつつ、栩麗琇那は首を傾げた。
『じゃ、君の場合、首飾りだけがあの壁の辺りで消えるのか』
『そう。初めて手の中から消えた時は、喜んでいいのか迷った』
シェリフは歳相応の、不貞腐れた顔になった。『蒼杜も、媒体を持って泉に入ってみたら、それだけが消えたと書いてきてる。今のところ原因は判らない。既に向こうには〝シェリフ〟が居て、こっちには〝蒼杜〟が居るからとしか説明できずにいる』
『……それだけ、神は君に等しく蒼杜を創ったということ……?』
感嘆を含んで呟くと、シェリフは肩をすくめた。
『性格までは無理だったようだけどね』
フランスから長旅をして来たシェリフをもてなし、客間へ案内してから、栩麗琇那と養父母は居間に集った。
時計の針は、十二時半をまわっていた。
遠く波音が聞こえる部屋で、養子は事情を説明した。
押し黙っている老夫婦に、栩麗琇那は願った。
『御恩を受け、最高学府にまで進ませていただきました。願わくば、卒業まで御厄介になりたいのですが』
光乃は、ほっとしたように両手を胸元で組んだ。
『あぁ、そうよ、シュウ君。そうなさいな』
ねぇ、と同意を求められた亘は、栩麗琇那が転がり込んで来た当時と同じ、考え事をする時の癖を見せた。眉を撫でながら、部屋の一点を見つめる。
両親の考えることとは思わなかったが、栩麗琇那は約定しておいた。
『お話しした通り、二世界間の通信が可能になりました。あちらに着いたらすぐ、これまでのお礼をさせていただきます』
ルウの民が住まうメイフェス島は、比較的鉱物資源が豊富だ。宝玉の原石も多い。あちらでは莫大な費用がかかる加工も、技術が発達している分、こちらでは幾らか割安にできる筈だ。シェリフに頼めば融通もしてくれよう。
『シュウ君たら、お礼なんていいのよ』
水臭いわ、と光乃は拗ねたような顔をした。琴巳にも時折見る表情に、栩麗琇那は思わずうつむく。
うつむいた先で、亘がゆっくりと言った。
『一つ頼もう』
光乃が驚いた様子で、あなた、と口を挟む。栩麗琇那は顔を上げ、目で養母を制した。
『どうぞ』
亘は、頷いた。
『琴巳を、くれぐれも宜しくな』
栩麗琇那は養父を見つめたまま、しばし動けなかった。絞り出した声が、掠れた。
『連れて行けと……?』
『琴巳が、行きたがったら』
『できません』
老父母の問いかけるような眼差しを受けて、栩麗琇那は告げた。『ルウの民はあちらの世界でも特殊な民族です。神から授かった術力と使命を尊んでいる。同じ世界に在っても他の人種とは一線を画し、住まう島にも踏み込ませようとしない。異世界人など論外です』
亘は眉をひそめた。
『琇那は、拘っていないじゃないか』
『俺はまだ幼いうちにこちらに来た。一族の影響が小さかっただけです』
栩麗琇那は、膝に置いた手を握り締めた。『俺は、電化製品も皆無の、原始世界へ戻るんです。そして、カルトな集団の長になる。もしもコトミが行きたがるようだったら――孫娘が大事なら、止めてください』
老夫妻は黙り込んだが、しばらくして光乃が尋ねた。シュウ君はそれでいいの? と。
栩麗琇那は心を殺して、首肯した。
実を言って、亘に頼まれるまで気づかなかった。琴巳から告白された時に、気づくべきだった。
このままだと、琴巳は栩麗琇那について来たがるかもしれない。別れの日、おとなしくこちらに残らないかもしれない。
しかし栩麗琇那は、琴巳を来させたくなかった。
ルウの民には暗い噂がある。栩麗琇那は幼心に、己が血族に強い反感をいだいたものだ。語ってくれた父が、やはり批判的だった所為だろう。
ルウの民には三家ある。主家がラル。分家がサージとティカ。この三大家がメイフェス島でも領土を持ち、大陸の皇領も分割統治している。
亡母にはサージ領に異母弟が居た。栩麗琇那にとっては叔父となる。
叔父は、六百年に近づこうというルウの民の歴史の中で、ここ数百年に渡り誰もが避けてきたことをした。サージ家当主の地位にありながら、大陸の女性に心魅かれ、赤子をもうけたのだ。
だが、若い二人が幸福だったのは懐妊を知るまでだった。叔父は我が子を身籠った恋人を公妃に願ったが、サージ家の家老は猛反対した。一族の血を尊び、平凡な大陸人の血が混じることをどうしても許さなかった。
主家の当主たる父は、婚姻に不都合は無いという見解を示したものの、ルウの最高峰である大君の祖父が、明言は避けたがサージ六老寄りの考えだった。
結局、婚の儀は行われなかった。
一方、下手人が定かにならなかったが、女性は密かに嫌がらせを受けていたらしい。子は何とか産んだが、そのまま亡くなってしまった。
ルウの中で嫌がらせの証拠は挙がらなかった。しかし、こうして噂になるからには、いか程かのことはあっただろう。大陸の守護者たる我等にとって、汚点だ。在りし日の父は、話をそう締め括った……
今の栩麗琇那にとって、あの話は人ごとではない。もし琴巳がついて来たら、栩麗琇那がどう説明したところで、眷属は察するだろう。そしてサージ大公の想い人と大差無く遇するのは、火を見るより明らかだ。
どうにかして、皇子は隣を歩く少女を遠ざけないといけなくなった。もはや栩麗琇那のことを、考えさせないようにしなければ。
それは難題だった。避けるという手段は既に失敗している。琴巳は何故か、こちらを見てしまった。その末にこうして傍に居る。
まったく、どうしたものか――
通学路を歩きながら栩麗琇那が息をつくと、琴巳は気づかわしそうに見上げてきた。慌ただしく九十五里に行った理由を、彼女は知らない。昨日はどうしたの、と訊きたいだろうに、琴巳は我慢している。ただ、栩麗琇那が寝不足なのに気づき、心配してくれている。
どうして、俺を選んだんだ。
昨夜から何度も思っていることを、また思った。やる瀬無く見つめると、琴巳ははにかんだ顔つきで小さく笑みを見せた。
「大学に、お菓子の自動販売機があったでしょ?」
「あぁ」
「ミントガムあったよね」
バッグを揺らし、琴巳は言った。「一講目、こっそり噛んでみたらどうかな」
そうだな、と応じる声が掠れそうになった。どうにも、やり切れない。別れなければならないなんて。
歩道橋の所まで来た時、急に、琴巳は袖を掴んできた。
滅多にしてこない行為に、栩麗琇那は訝しんだ。目を周囲に流し、微かに眉を寄せる。アサクラとか言った少年が、歩道橋を挟んだ向こうの通りに立っていた。こちらをじっと見ている。
不安そうな琴巳に、仕方無く、栩麗琇那は気休めを口にした。
「こっちに居るわけじゃない」
「う、うん……」
見上げてきた漆黒の瞳が、潤みかかっていた。それに目を落として、心意に気づく。栩麗琇那は微かに口角を上げた。
「俺のことを気にしてどうするんだ」
「だって……」
「俺は別に、迷惑でもない」
「でも……ごめんね」
「あぁ」
栩麗琇那は促すように、女子校へ目を向けた。「大丈夫だから、気にするな」
琴巳はためらいがちに頷いた。柔らかな香が、ふっと離れる。小走りに、少女は角を曲がって行った。
華奢な背中を見送ると、少年も同じようにしていた。どうも生半な思い入れではないらしい。
少年がこちらを見た。栩麗琇那は素知らぬ風を装い、階段を上がる。男子校側に降りて来ると、彼はまだそこに居た。
物言いたげなアサクラ少年に、栩麗琇那は問いかけた。
「諦められない?」
少年は、ぴくっと肩を上げた。頬を赤らめ、口を開く。
「何だか、納得できない」
何が、とは栩麗琇那は訊かなかった。言われなくても解っている。自分達は、よくよく注意すれば、恋人らしくない空気がある。それは栩麗琇那が一線を引いているからで、わざわざ指摘されるのも不快だった。好きで築いている壁ではない。
栩麗琇那は、自身の感情と別の所で、好機を知った。この少年、半端に琴巳を好きじゃない。何せ、栩麗琇那が出て来ても気持ちを捨て切れないようだから。彼なら、哲朗のように琴巳を大事にできるのではないか?
寸時の迷いがあったが、決断した。
「頑張ればいい」
「え……?」
「彼女が選択しているだけなんだから」
スクールバスが滑り込むように停まったのを目の端に映し、栩麗琇那は少年の脇を通り過ぎた。「単に今、俺を選んでいる」
早口の言葉が、背中にぶつかった。
「なんで――自分だって選んでるくせに」
栩麗琇那は、応えなかった。彼女にさえ言っていないことを、他人に言う筈もない。
青年は無言のまま、少年を残し、スクールバスに乗り込んだ。




