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公士に、御入園おめでとさん、とからかわれ、女子校の制服を着た琴巳は少し頬を膨らませた。怒っているらしいが、そんな顔も可愛かった。
「お兄ちゃんはどう?」
琴巳は、自信無さげに訊いてきた。真新しいスカートを、ほんのちょっと持ち上げて見せる。「幼稚園児みたい?」
栩麗琇那は、本音を洩らした。
「確かめていい?」
ばっ、馬鹿――何を言ってる!?
突然、漆黒の髪が床に広がった。円らな瞳が見上げてくる。澄んだ声が、魅惑的に響いた。
「コドモじゃないんだから」
待て、やめろ、言うなっ。
「じゃ、確かめよう」
げ――っ。
内心頭を抱えたい状況なのに、手は勝手に少女の身体に触れていた。ふふっ、と、くすぐったそうに声が笑う。
細身の肢体を抱き寄せ、栩麗琇那は囁いた。
「訊きたいんだ」
訊く必要が何処にある!?
ケレド、気ニナッテショウガナイ。
「なぁに?」
「江利と何処までいってた?」
何もなかった。どう見たってそうだろうっ。
ナラ尚更、俺ダケノものニシテシマエ――ことみハ多分、拒マナイ。
違う――嫌だ、駄目だっ。
激しい葛藤のさなか、琴巳は極上の笑顔を見せた。
「怒らないでね、お兄ちゃん。わたし、江利さんにバージンあげちゃった」
足元が、突如崩れた。バランスが取れずに、落ちる――
「――っ」
栩麗琇那は目を開いた。一瞬何処に居るのか判らなかったが、記憶が理解させた。青葉大学からスクールバスに乗った。その座席だ。
「降りるでしょ?」
女性の声がかかり、栩麗琇那は肩に手をかけられていることに気づいた。目を上げると、綺麗に化粧をした、いかにも女子大生風の娘が見下ろしてきていた。「青高前よ」
「え――」
気づけば、バスは停まっており、右手の車窓から青葉高校の校舎が見える。栩麗琇那は慌てて立ち上がった。「すみません、降ります」
「はいはい、早く降りましょ」
娘は親しげに栩麗琇那の腕を取ると、降口へと導いた。運転手に声をかける。「ありがとーございましたー」
はいさよなら、と運転手は娘に言ってから、栩麗琇那を見た。
「よく寝れたかい?」
「どうも。すみません」
「はは、さよなら」
二人が降りると、バスの扉が閉まった。一、二人の残った学生を乗せ、次の停車地へ向かって走り去る。
栩麗琇那は額に手をやりかけ、まだ腕を取られていると知った。
「放してくれ」
「あら、ごめん」
悪びれない口調で言い、娘は手を放す。ショルダーバッグを掛け直し、見上げてきた。「うふふ。結構なうなされ顔を拝まさせてもらっちゃった」
額に手をあて、栩麗琇那は押し殺した息をついた。先日、琴巳に寝言を聞かれてしまってから、落ち着いて家で眠れない。しかし、所構わずうたた寝した挙げ句、全くの他人に聞かれるのも考えものだ。
何しろ不用意に触れてしまったあの合格発表日以来、見る夢見る夢、琴巳が出て来る。しかも、無理矢理抱いたり、哲朗との関係を問い質す内容ばかり。何を口走ってしまうやら、迂闊に眠れない。
琴巳に聞かれた時、幸い、まずいことは口にしていなかったようなのだが……
彼女は何も聞いていないだろうな?
栩麗琇那がちらっと目を向けると、娘は弾んだ声で話し始めた。
「貴男、火曜日に十二時二十分のバスに乗ったでしょ、ここから。わたしもなのよね。で、木曜日は二時五十分のバスにここまで乗ったの。わたしもなのよ。火曜の時、講義は一緒かな、って捜したんだけど、講義は違うみたい。火曜の三講、貴男、何をとってるの?」
「…………」
「黙秘? 起こしてあげたのに」
娘は口紅を塗った唇を、つんとすぼめた。「わたしが運転手さんに声かけなかったら、貴男、牧浜駅前まで連れてかれるトコだったのよ?」
「……語学」
娘は不服そうな顔をしたが、栩麗琇那も不服だった。ルウの皇子が軽々しく脅されているこんな姿、故郷の者には見せられない。
だが、どうもこの脅し文句からして、寝言を言っても大したことは漏らさなかったらしい。そうと判れば、もはや無用の関わりである。
「起こしてくれたことは感謝する。けど、牧浜まで行っても、そこから帰れば済む。恩を着せられても困る」
一息に言うと、栩麗琇那は加賀家と反対方向へ足を向けた。さっさと歩き出す。
「あ――ちょっと、ねぇ、名前と学科教えて」
背中に声が当たったが、無視した。すると、向こうが名乗った。「わたしは日文一年、クロサワサキコ」
栩麗琇那はやむなく立ち止まった。顎に手をかけ、浮かんだ名前を言う。
「ハナダ」
振り向かずに偽名を放ち、栩麗琇那は再び歩き出した。そのまま遠回りに馬安図書館へ向かい、彼女がついて来ていないのを確認して帰宅した。
去年の夏、バス停まで一緒に登校したいという琴巳の願いを栩麗琇那は知った。知った時、毎日朝一で出ても構わないと思った。
けれど年が変わり、その思いは変更を余儀なくされた。琴巳と居ると、ある衝動が湧き起こるようになってしまったから。
その感情は、恋を自覚してからずっとあるモノだった。それが、例の一件から、急激に増大してしまった。増大し、他の様々な感情まで呼び起こしている。
栩麗琇那は、琴巳を何処かに閉じ込めてしまいたかった。何処か、栩麗琇那しか知らない所に。四六時中二人だけで居られる場所があれば、行ってしまいたかった。
最近の栩麗琇那は、琴巳に、抑えがたい程の独占欲を感じてしまう。
琴巳は、まさかあの短い接触でそんな感情に火を点けたとは思う筈もない。一緒の登校が週に一度だと知ると、いたくがっかりしたようだった。それでも口にした台詞は、朝から行かなくていいなんて羨ましいな、だった。
そんな反応が益々栩麗琇那の恋心をかき立てているのだが、それに関しても琴巳は解っていない。彼女は、未だに、自分が傍に居ていいのかさえ疑問に思っているようだから。
木曜の朝は、琴巳は大層可愛かった。
僅か三十五分のひと時を余程楽しみにしているらしく、普段よりきらきらしている。それを目にする栩麗琇那は、くらくらしていた。講義など投げやって、琴巳にも学校をさぼらせ、家でいいから一日中一緒に居たい気分になる。
四月最終の木曜日、栩麗琇那はやる方無く琴巳と家を出た。木曜の一時間目は必修科目で、どうしても避けられない講義だった。
歩き出してすぐ、琴巳は〝栩麗琇那殺し〟の仕種を見せた。
「ゴールデンウイーク、いつでもいいからどっか行かない? お兄ちゃんの行きたいトコでいいから」
脳裏にバス通り沿いで見かけるラブホテルが浮かんできて、栩麗琇那は自分にげんなりした。どうなったんだ俺の頭は、と自問してしまう。ここ二ヵ月というもの、そのテのことばかり考えている。格式高いルウの民の名折れだ。
自己叱咤をして、栩麗琇那は真っ当な行先を思い巡らせた。
「そうだな……青大に興味ある?」
「わ。あるある」
好奇心に輝いた顔に、栩麗琇那は無意識に目を細めた。
「かなり広いから、連休中は公園みたいな感じになると思う。それに多分、空いてる」
「レジャーマット広げてもいいかなぁ」
「あちこちベンチがある」
「あ、じゃ、お弁当だけでいいね」
楽しそうに話す琴巳を見ると、たまらなくなった。思わず、距離を置く。
琴巳は足元を見やってから、僅かに首を傾げた。落ちている何かを避けたと思ったらしい。気づかれたくなくて、栩麗琇那は口を開いた。
「四日辺りはどうだ」
「うん」
頷き、琴巳は眩しい笑顔を浮かべた。「いつもよりゴージャスなお弁当作っちゃう」
「期待しよう」
そんな話をしながら努めてこれまで通りを装い、バス停前への歩道橋に着いた。
何とか手を出さずに来れたと安堵する前で、琴巳は儚い笑みを見せる。それが又、ぐっとくる表情だった。感情を抑えている時の顔。今はきっと、名残惜しい、といった辺りの。
「今日のお弁当も、ゴージャスだよ?」
「そうか」
それしか言ってやれない歯がゆさを感じつつ、栩麗琇那は口をつぐむ。琴巳は女子校へ、重そうに足を向けた。
「じゃあ――」
そう言った澄んだ声は、低めた第三者の声にかき消された。
「か、が、くぅん?」
栩麗琇那は、慣れない呼ばれ方に反応が遅れた。ぽん、と背中を叩かれ、ようやく振り返る。サキコが立っていた。「もしかして、加賀って苗字も偽物? 講義始まってまだ二週間よ? 一体何人引っ掛けたのかしら?」
引っ掛けたなどと身に覚えのないことを言われ、栩麗琇那は瞬く。はたとして琴巳を見やると、当惑気味の様相でこちらを見ていた。目が合うと、ちょっとためらったようだったが、身を翻す。頭の両脇で団子状に髪を結わえたリボンをぱたぱたさせ、小走りに角を曲がって行った。
華奢な後ろ姿を見送った栩麗琇那の横で、サキコは何やら得意げに言った。
「良かったわね、すんなり諦めてくれて」
栩麗琇那が目を向ければ、サキコは感心したように言を継いだ。「大した度胸よねー。わたしが高校生の時は大学生に声かけるなんてできなかったなー」
どうやら、声をかけられて困っているように見えたらしい。助けてやったと思っているのだろう。
これを恩として又あれこれ訊かれても迷惑だった。栩麗琇那は、先手を打つことにした。
「俺が引っ掛けたのは、今の子一人だけだ」
ほけっとなったサキコに、栩麗琇那は念を押した。「諒解?」
「えぇえ!?」
「彼女は君のでまかせを聞いて、俺の為に弁解しようか躊躇して、結局でしゃばらないことにした。そんなところだ」
「……よっく解ってるわけね」
サキコはがっくり肩を落とした。そこへ、通りを挟んだ向こう側に、スクールバスが到着する。
バスに乗り込んで窓際に腰を下ろすと、続けて乗ったサキコがすとんと隣に座ってきた。少々意外で、栩麗琇那はまじまじと娘を見てしまう。サキコは頬を赤らめ、ぽそっと言った。
「考古学科なんでしょ?」
「…………」
「一八一センチ、七〇キロ。十月二十九日生まれ。地元出身」
「…………」
「せっかく色々情報仕入れたのに。肝心のことが抜けてたわけか」
サキコは膝に置いたバッグに頬杖をついた。「昨日なんか友達と話してて、貴男と同じバスに乗ったって言っただけで、黄色い声があがったわ。みんな一斉に、わたしの知ってた貴男の時間割メモっちゃって」
唖然とする栩麗琇那の隣で、あぁあ、とサキコはぼやいた。
「がっかりー。サイコーいい男見つけたと思ったのにー」
本人を前にあっけらかんとした残念ぶり。例の無い反応に、栩麗琇那は突き放した態度が取りきれなかった。これまで告白してきた少女達とは、明らかに一風変わったタイプだ。
何となしに、栩麗琇那は話しかけた。
「友達にそのノリで、俺が売約済みだと伝えてくれると助かる」
「えぇ? やぁね、わたし本当にがっくりきてるのに」
サキコは口を曲げた。「わたしが売約した、って言いふらしたらどうするつもり?」
低く笑声が洩れた。
「一向に構わない。後々困るのは君だ」
「……加賀君て、悪い男ぉ」
サキコは、こちらを上目づかいに見た。「あの子、苦労してそうだなー」
栩麗琇那は窓の外に目を流した。そうだな、と呟くように応じる。
ごく普通の恋人同士になれず、琴巳はたくさんの悩みを持っているだろう。それなのに、彼女は傍に居る。
俺は、早くこの世界から消えるべきだ……コトミの為に……
苦しい思いをいだいて、栩麗琇那は車窓にもたれた。何か言いたそうにしているサキコが硝子に映って見えたが、もう何も話したくなかった。
バスが動き出し、青年は瞼を伏せた。




