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四月、些少の遠回りはあったものの、琴巳とその周りの面々は望んだ進路に向かった。
梛女子高校の一年五組で、放課後、琴巳はアンケートの集計をしていた。
隣の席で集計済みの用紙を束ねた順子が、軽く息をつく。
「図書室のCDを貸し出しして欲しい、って意見多いね。あたしも書いたんだけどさ」
並んだ〝正〟の字を数え、琴巳は頷く。
「先生達は、紛失すると思って渋ってるみたい。実際、図書室の本はかなり消えてるらしいんだ」
「青高は去年から貸し出しを始めたらしいよ。出入口に、お店みたいな防犯装置を置いてさ」
琴巳は瞳を上向けた。
「そんなのを置かなきゃ貸し出せないっていうところが、ウチの先生には引っ掛かってるんだろうなぁ」
まぁねぇ、と順子は苦笑気味の相槌を打つ。
琴巳と順子は、三度目の同じクラスになっていた。成績順にクラスが決まる梛女で、拮抗していた二人が同じ組になれたのは、順子が風邪をひいたお蔭かもしれない。怪我の功名と言えよう。
集計結果を生徒会室に届け、琴巳は五組の教室に戻った。
「お待たせー」
おかえり、と言って、読んでいた小説を順子が閉じる。琴巳は小さく笑んだ。「手伝ってくれて、ありがとね」
「何だか人ごとじゃないからさ」
順子は悪戯っぽい笑みを見せた。「まかり間違えば、あたしもやらされてた仕事かもしれないでしょ。七組まであるし」
「ホント。絶対ヨリちゃんも級長になってただろうなぁ」
琴巳は、五組で入試トップの成績だった。学年五位だったのだ。
一年生は全クラス、各トップの生徒が級長を任じられ、琴巳も例外ではない。副級長は各次点の生徒。このシステムの所為で、学年十四位までは一年生の殆どが知るところとなっている。琴巳としては恥ずかしい決まり事だった。
教室を出ながら、琴巳はぼやいた。
「あぁあ。むいてない、まとめ役って」
「でも今のところ、なかなかいい調子だよ」
のほほんとした口ぶりで順子は言った。「琴巳の場合はさ、みんなが協力したくなるタイプだから。結果的にまとまるよ」
「それはそれで、みんなに迷惑かけて申し訳無いような気がする」
「そういう性格だから協力したくなるわけ」
順子は階段を降りながら、歌うように続けた。「ま、本人は解んないかなー」
先に降りて行く幅広の襟を見ながら、正直に琴巳は応えた。
「ん。解んない」
最後の段だけ両足で着地し、だろうねぇ、と言いながら順子は振り向く。ふわん、と真新しいプリーツスカートのひだが揺れた。茶系のチェック柄だ。上着はスモックタイプの黒で、襟と袖口が大きい。校章が浮き彫りになった銅色のボタンが、真ん中ではなくて左の方に寄っている。
この制服が可愛いという理由で梛女を目指す少女もいるらしい。公士は見るなり、幼稚園児、と評したが。
鞄は高級ブランド物や派手でない限り自由で、今日の順子はディバッグを持っていた。それを肩に掛け、にいっと歯を見せる。
「琴巳は自分のコト過小評価気味だもんね。何せあの超二枚目に好かれてるって、一年以上も変な態度とられてて、考えもしなかったみたいだし」
かあっと顔が熱くなり、琴巳は持っていたトートバッグをぱたぱた振った。
「ヤだ、ヨリちゃん、古いこと持ち出す――」
「何か思い出したのさー」
再び歌うように言い、順子はこちらを見た。「お兄さんの方は、授業まだ始まってないんだっけ?」
琴巳は頬をさすりながら頷く。
「来週から」
「大学ってのんびりしてるよね。四月中旬過ぎてからなんて、びっくりだよ」
「それに、必ず一時間目からじゃないしね」
自分が口にした台詞に、琴巳はちょっと落ち込んでしまう。「お兄ちゃん、木曜日しか一時間目の授業がないの」
順子は下駄箱の蓋に手をかけつつ、あらら、と洩らす。
「じゃ、一緒に登校できるのって、木曜だけ?」
靴を履きながら、琴巳はしみじみとこぼした。
「たった二百mでも、毎日の方が良かったなぁ」
琴巳が帰宅した時、玄関には栩麗琇那のスニーカーしかなかった。
新中学生の公士は運動部の〝一日入部〟をして廻っている為、連日帰りが遅くなっている。今朝はテニスの話をしていた。どうも彼は球技に勤しみたいらしい。今日はバレーボール部を体験するそうだ。
ただいま、と言ったが、迎えてくれたのは静けさだった。栩麗琇那は私室に居るようだ。居間や台所に居れば、おかえり、と応じてくれるから。
ささやかに拗ねた心地で、琴巳は手荒いうがいを済ませた。
色々期待して進んだ道が、期待通りにのびていない。障害や勘違いで、四月に入ってから、琴巳は栩麗琇那と一緒に居る時間が減ってしまっていた。
無性に顔が見たくなって、手早く着替えると、琴巳は書斎のドアをノックした。返事が無い。
しばらく待ってから、そうっとドアを開けてみた。室内を覗くと、即に望む姿は見つけられなかった。あれ、と視線を巡らせ、ベッドに淡い茶色を見つけた。昼寝ならぬ夕寝をしているらしい。平日だというのに大学生は優雅なものだ。
拗ねた気持ちが膨らんだが、琴巳はドアを閉めようとした。閉めかけて、止める。低声が、何か言った。
「え?」
聞き返したけれど、すぐに寝言だと気づいた。何やらどきどきしてきて、ドアが閉めるに閉められない。一体、どんな夢を見ているんだろう。たまには、琴巳も出て来ているんだろうか。
呻くような声が洩れ聞こえ、琴巳はどくんと胸が鳴った。あまりいい夢を見ていないようだ。起こした方がいいかもしれない。
戸口で迷っていると、青年は聞き取れるうわ言を言った。
「やめろ――やめ――」
琴巳は、きゅっと唇を結んだ。決断して、枕元に向かう。
肩を軽く叩くと、びくっと栩麗琇那は身動いた。ありありと驚いた表情を浮かべ、こちらを見上げる。見上げて、更にぎょっとした顔になった。
普段表情を見慣れないだけに、相当に驚かせた気がした。琴巳は慌てた。
「ごめんね、あの、うなされてたから、起こした方がいいかなって」
「…………」
「もしかしていい夢だった? ごめんなさい」
うろたえる琴巳の前で、栩麗琇那は半身を起こした。両手で髪をかき上げてから、片手で口許を覆う。
秀麗な顔に微かな赤みを見て、琴巳は口をつぐんだ。寝言なんて、聞かれたくなかったに違いない。そう気づくと、すうっと血の気が引く。
しばしの沈黙の後、くぐもった美声がこぼれた。
「いい夢じゃなかった」
「……起こして良かった?」
「あぁ」
「ごめんね、驚かせて」
栩麗琇那は、手を口許から額にかざした。ほんの少し、苦笑気味の笑みがひらめく。
「驚いてた?」
「驚かなかった?」
この問いかけには、青年は答えてくれなかった。美麗な眼差しを傍の時計に流す。
「そろそろ夕飯の準備か」
「うん、これから」
そうか、と栩麗琇那は再度髪をかき上げた。脇にあった、開いたままの厚い本を閉じる。それを読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
青年がベッドから立ち上がり、琴巳は踵を返した。
「じゃ、お夕飯作るね」
「顔洗ってから手伝う」
「お願いしまーす」
言いながら部屋を出た琴巳は、視界の端で、栩麗琇那が溜め息をついているのを捉えた。台所に入ると、胸が痛み出す。
いい夢じゃなかったから、口にしたくないのか。それとも、夢の内容まで話せる対象だと思っていないのか。栩麗琇那にとって、琴巳はやっぱり妹でしかないんだろうか。恋人だと思っているのは、琴巳だけなのではないか。
傍に居ることを許されて、増えたのは喜びより不安……? いつ故郷に帰ってしまう日が来るのかは勿論、それ以前に、もう付きまとうなと言われるかもしれない。本当に傍に居るのは自分でいいのか――そんな、たくさんの、不安。
中学卒業の日、式の後、三年一組の生徒達は写真を撮り合った。〝トランプメンバー〟で揃って写ってから、宗一が最後の意地悪を言ったものだ。
『今日は、カレシから記念のチューをしてもらい』
琴巳は皆からユデダコ呼ばわりされつつ、心の奥がぎごちなかった。誰もが、いくらなんでも、もう済ませたと思っていたようだった。本当は、記念どころか、まだ一度もしたことがない。
自分からはできない。もし嫌がられたら? 怖くてできない。
冷蔵庫に手をかけ、琴巳は首を振った。言い聞かせるように呟く。
「ヤだ……思い出したくない」
合格発表の日、順子の電話に安心して足の力が抜けた。立とうとして、よろけてしまった。傍に居た栩麗琇那が素早く支えてくれたけれど……
思いがけず彼の懐に飛び込んでしまった瞬間、琴巳は大胆な希望をいだいた。もう少し、抱き締めてほしくなった。
ところが彼は、出し抜けに持ち上げたと思ったら壁に寄りかからせ、離れてしまった。まるで、小さな子供を或る場所から場所へ移すようなやり方――否、子供と言うより、荷物と言った方が近いような――
手以外は触れるつもりがない。そんな本心を突きつけられたような気がした。かなりショックだった。素早く離れていかれたことは――
「コトミ?」
近くで美声が響き、琴巳は我に返った。冷蔵庫の側面に身をあずけ、栩麗琇那が小首を傾げていた。「何を作るか決まらない?」
「あ、え……と……」
穏やかな声を聞くと、不意に目頭が熱くなった。琴巳は焦った。「う、うーん……どうしよう」
うつむきがちに言うと、低声が笑った。
「今晩は頑張ってくれないか。俺の寝顔の見物料代わりだ」
心が切なく鳴った。どうしよう、という言葉が次々に浮かんでくる。
「わ、わたし、寝顔は見てないよ。お兄ちゃん、向こう向いてたもん」
「そうか。じゃ、寝言のただ聞きでどうだ」
「聞くつもりなかったのに? ドア開けたら、たまたま言ってたんだもん」
「聞いたことに変わりはないな」
「なーんか腑に落ちない」
琴巳は唇をすぼめたが、続けた。「けど〝琴巳のスペシャルパスタ〟でドウダ」
「あぁ、いいね」
笑みを含んだ低声が言い、琴巳が見上げた時には、声の主は食器棚に足を向けていた。すらりとした後ろ姿を目にしただけで、胸が高鳴ってくる。
どうしよう。わたしはこんなに、こんなに、好きな気持ちが大きくなってるのに。
冷蔵庫を開け、琴巳は目尻を拭った。




