7
季節と日々は移ろった。
読書やら芸術やら食欲やらが持て囃されたと思ったら、歳暮だ大掃除だとせわしくなり、お節に年賀にお年玉を頂戴して、中学三年生はいよいよ岐路に立たされる。
真新しいカレンダーが掛かった教室で、琴巳は順子と机を合わせていた。
三学期早々の席替えで久しぶりに離れてしまったのだが、給食の時は気の合う者同士が机を寄せる。二人も例外ではない。
黒板脇では、当番が配膳の準備をしている。
パック牛乳に早くもストローをさしつつ、順子が訊いてきた。
「来週ガッコである最後の模試、受ける?」
「やめとく。その次の週には、もう本番だから」
琴巳はビニール包装されたままのストローをいじりながら、応えた。「後はやれるだけやるしかない、って感じ」
「んー。それもそうだよねぇ。どうしよっかな」
迷っている親友を見て、琴巳は机に両肘をつくと掌に頬をあずけた。
「雰囲気に慣れておきたい?」
順子は大きく頷いた。
「それそれ。自分の位置の最終確認って言うより、そっち」
八月に受けた模擬試験以来、琴巳と順子の成績は上り調子。琴巳は最後のつもりで受けた昨年十二月の模試では、二人共、合格率九〇%、判定Aが出ている。滑り止めに公立高校も受けるが、もはや、第一志望は完全に梛女子高校だった。
順子は両腕を組んでしばらく唸っていたが、腕を解くと息をついた。
「あぁあ、お兄さんが羨ましー。もうのんびり最後の高校生活を楽しんでるんだよねぇ」
「楽しんでるように見えないけどね」
琴巳はちょっぴり苦笑いを浮かべる。「合格通知が来た時も、全然表情変えなかった」
栩麗琇那は一足早く昨年に、推薦入試を受け、呆気なく合格した。加賀家の面々は感嘆と賞賛を浴びせたが、当人は実にクールだった。そのまま平静を保ち続け、今に到っている。
「後ろに琴巳が控えてるから、自粛したんじゃないかな」
言いながら、順子も琴巳のように頬杖をつく。
「え、手放しで喜んでくれて良かったのに」
琴巳が口をすぼめると、順子は掌に包んだ顔を傾けた。
「でも、逆の立場だったら、琴巳もあんまり浮かれないんじゃない?」
想像してみた琴巳は、そうかも、と言う。順子は目を細めた。「琴巳とお兄さんて、そういうトコ、似た者同士だね。血筋かな」
血筋はあり得ないことだったので、琴巳はぎごちなく笑みを浮かべる。
「正反対より、いいよね」
「世の中いろんなカップルが居るから一概に言えないけど、長続きするのはそっちのタイプじゃないかなぁ。琴巳達も二年目だよね」
「――ホントだ」
琴巳は頬から放した手を握り拳にした。「わ。そうだぁ、二周年に向かってるー」
順子は可笑しそうに歯をこぼした。
「呑気なトコは似てる?」
どうだろ、と瞳を上向けた琴巳は、先の八月を思い出した。
「そういえば、お兄ちゃんたら、夏休みまで、青大にスクールバスがあるって知らなかったみたい」
「えぇ?」
順子は、あの時の琴巳と全く同じ反応をした。意外そうな表情で、訊いてくる。「お兄さん、青大が第一志望だったんでしょ?」
「それが、青大一本勝負だったの」
「わーお。大した度胸だねぇ。トップレベル校を単願受験かぁ」
「あ、そっか。お兄ちゃんの場合は、呑気じゃなくて度胸か」
準備できましたー、と給食当番が告げ、待っていた一組の生徒達はぞろぞろと動き出す。琴巳と順子も席を立った。
あっと言う間にできた列の後方に並びつつ、けどさ、と順子は話を続けた。
「呑気は呑気だね。スクールバスを知らなかったってコトは、わざわざ余計なお金使って電車通学か市バス通学するつもりだったのかな」
「でもね、一本勝負の理由は、受験費用の負担をかけたくなかったからなんだって」
なーんとなく矛盾しちゃうね、と琴巳は言いながら首を傾げる。
ふむ、と順子は呟く。以前から栩麗琇那の心理洞察を試みている彼女は、推理小説好きだ。琴巳は、さながらホームズの推理を静観するワトスンのように、親友を見つめる。
配膳の進みに合わせ、列が移動して行く。一歩一歩、順子と琴巳も動く。
もうすぐ順番が廻ってくるというところで、順子は振り向いた。へへ、と笑う。
「どうしても琴巳寄りに考えちゃう」
琴巳はえくぼが浮かぶ。
「わたしは嬉しい」
じゃあねぇ、と順子は人差指を立てた。
「思うに、お兄さんの学校選びの基準は、学費や学力じゃない。立地条件ではなかろうか」
「風水ってヤツ?」
言った途端、ぶふっと後ろで笑い声が起こった。不審に琴巳が振り返ると、宗一が口を押さえて笑っている。戸惑ったが、琴巳の所為ではないかもしれないので、追究せずに親友に向き直った。
順子も笑いを噛み殺したような顔をしていたが、ちっちっ、と指を振った。
「お兄さんはぁ、琴巳の家から通える所を選択してるの。だからぁ、厳密には立地条件と言うより、ずばり、琴巳を中心に考えてる」
頬がほてった。
「ヨリちゃんてば、ホンっトにわたし寄り」
琴巳は熱い頬をさする。順子は、にやにやぁ、とした。
「だって琴巳のユデダコ顔を見るのには一番手っ取り早い方法だもんね」
それを聞いた琴巳がぷくと頬を膨らませると、おっ益々似た、と順子は笑い出す。すぐ背後や周りからもクスクス笑いが聞こえ、琴巳は情けない心地で問うた。
「そんなにタコみたいな顔してる?」
どっと、一同はウケた。
「何だ何だ、この時期に随分リラックスしてるなぁ」
担任教諭が、おどけた口ぶりで言いつつ教室に入って来る。「今日はカレーだからかぁ?」
三年一組は、更に笑顔に包まれていった。
二月中旬過ぎ、後は卒業を待つばかりの栩麗琇那は、居間でパズル雑誌に目を落としていた。表向き平然と。しかし内心は、落ち着いていなかった。
今日は、梛短期大学付属女子高校の合格発表日。琴巳は、順子と一緒に結果を見に出かけている。
栩麗琇那は、自分の結果には揺るぎ無い自信があった。しかし、琴巳の合否は判らない。もし不合格となったらどう接すればいいのか、合格しか知らない栩麗琇那には分からなかった。
当の琴巳は試験を終えた日、自分のことより順子を気にしていた。何でも、風邪をひいて酷い熱があった中、受験したらしいのだ。
階段を駆け降りて来る音がして、公士が居間に現れた。二階の窓から見張っていたようで、帰って来た、と開口一番告げてくる。
「やべーよ。何か、暗い顔に見えた」
ほんの僅か眉根を寄せ、栩麗琇那は雑誌を閉じた。琴巳は滑り止めの高校を選択してあるので、まだ絶望することはない。何か言うとすれば、それだと思うのだが……
鍵を開ける音がして、ただいま、と沈んだ声が聞こえてきた。栩麗琇那と公士は思わず顔を見合わせる。フォローしあおうと無言のうちに諒解し、連れ立って居間を出た。
玄関口で佇んだ琴巳は、こちらを見ると口許を手で覆った。瞳から、みるみる涙が溢れる。
とても嬉し泣きには見えず、少年二人は何も言えないまま近くまで歩み寄った。歩み寄ると、涙声で琴巳が言った。
「ヨリちゃんの、番号が……」
台詞は途中で切れたが、言いたいことは察せられた。琴巳の番号はあったが、順子のは無かったらしい。
重い沈黙が、立ち尽くす加賀家の子供達に降りかかった。
琴巳と順子は、一年間、二人で頑張ってきた。一人が合格で一人が不合格では、あまりにもやる瀬無い。
想像していない結果だった。二人は殆ど変わらない成績だと聞いている。だから結果は、二人共受かるか、二人共落ちるか。それしか考えていなかった。栩麗琇那も公士も、咄嗟に巧い言葉が出て来ない。
沈黙を破ったのは、琴巳だった。ぽろぽろと雫をこぼしながら、トートバッグの持ち手を握り締める。掠れた涙声が、独り言のように唇から洩れた。
「最後の模試、受けなかったら、風邪なんて、ひかなかったのに。風邪ひいてる人が受けてたら、伝染っちゃうかもよって……どうして、言って、あげられなかったんだろ」
公士が、廊下を見つめながら応えた。
「その時は、思いつかなかったんだろ」
ぼろぼろっと涙が頬をつたい、琴巳は懸命に嗚咽をこらえる仕種を見せた。靴を脱ぐと、少年達の脇をすり抜けて洗面所に駆けて行く。
しょうがないじゃん、と公士がぽつんと呟いた。
「そうだな」
栩麗琇那は、それしか言えなかった。
気まずい時間が、加賀家に、実にゆっくりと流れた。
本人は合格したが親友は不合格だった場合の慰め方など、栩麗琇那は皆目分からない。当人が不合格だったらどう言えばいいのかさえ、迷っていたくらいだ。その上、皇子は努めて友人を作らずに過ごしている。この類の悲しみへの接し方は、まったくもって不慣れといっていい。
友達の多い公士でさえ、自分の無力さが腹立たしいのか、多少苛々した風情でテレビを点けたり消したりした。
琴巳は、私室に閉じこもっている。恐らく、独りで自分を責めているのだろう。客観的に見れば、琴巳には何の罪も無い。判っていたが、それを口にしたところで慰めになるとも思えない。
電話のベルが鳴った時、少年二人はただソファに並んで、日の暮れかかる居間に居た。
公士が、床の一点を見つめながら、抑揚無く言った。
「電話だ」
「あぁ」
応じたが、栩麗琇那は動く気がしなかった。それはこの時、加賀家の三人共そうだった。だが、電話のベルは鳴り続ける。
栩麗琇那は前髪をかき上げた。仕方無しに立ち上がる。暖簾を分けて台所に入り、不愉快な音を消す為に受話器を取った。
加賀です、と無愛想に発すると、覚えのある声が早口に名乗った。
〔あのっ、早稲ですっ〕
複雑な気分になった栩麗琇那の耳に、順子の声が立て続けに飛び込んで来る。〔琴巳っ、お願いしますっ〕
不合格だった割に弾んでいる声に、栩麗琇那は小首を傾げた。待ってて、とこちらも口早に告げ、保留ボタンを押す。
一階から呼びかけられる状況に思えず、階段を上がった。
「コトミ、早稲さんから電話」
上がり口で言うと、ややの間の後、ドアが開いた。目尻を拭いながら、制服姿のまま、琴巳が出て来る。うつむきがちに、それでもちらっとこちらを見た。
「ありがと」
「あぁ」
子機を取るうなだれた姿を目の端に映し、栩麗琇那は階段を降りかけた。と、背中に、え!? と突飛な声が当たった。振り返ると、琴巳は微かに震えていた。
「ほっ、ホントに!? ホントに!?」
曇っていた表情が驚くほど明るくなって、栩麗琇那は瞬いてしまう。琴巳は、ぺたんと廊下に座り込んでしまった。やにわに泣き始める。「……っ……良かったぁ」
終いに受話器を持ったまま声をあげて泣き出したので、黙って見ていられなくなった。降りかけていた階段を上り直し、歩み寄る。
琴巳はこちらに気づくと、しゃくりあげながら受話器を向けてきた。受話器から、泣くな泣くなー、と順子の声が繰り返し聞こえてくる。栩麗琇那は受け取って、悪い、と会話に入った。
「コトミ、泣きやめないみたいで」
〔あっ、あはは。そうですかぁ〕
気さくな口調に、栩麗琇那は口許がほころんだ。
「受かったんだね?」
〔あはは。補欠の一番ですよぅ。琴巳と行った時は気づかなくて――すみませんが、だから多分入れる、って伝言いいですかぁ?〕
「伝える。おめでとう」
ありがとうございますー、と言って、それじゃ、と順子からの電話は切れた。栩麗琇那は受話器を戻すと、廊下で泣きじゃくっている琴巳の横に屈み込んだ。琴巳は、涙で濡れた頬を拭いながら、笑みをこぼした。
「止ま、なく、なっちゃ、た」
「あぁ」
「あの、ね、わたしも、受か、たの」
「あぁ」
栩麗琇那は短く笑った。「取り敢えず、泣きやみな」
素直に琴巳は頷く。栩麗琇那が立ち上がると、続けて立とうとして、少女はよろけた。反射的に出した栩麗琇那の腕にしがみつき、何とか体勢を立て直す。
琴巳はそれで良かったが、栩麗琇那の方はいいとも悪いとも言えない状況に陥っていた。腕に、柔らかな感触が伝わってきたのだ。少女の、身体の感触が。
「ご、ごめん、ね」
「……あぁ」
何とか、そう応じた。脳裏に、夢で抱いた時の恥じらう琴巳がちらついた。実行するわけにはいかない自分の行動も思い出してしまう。
膂力に任せ、栩麗琇那は琴巳を少し抱え上げた。爪先から横手の壁にもたれさせると、素早く手を放す。
「立てるな?」
「う、うん」
何に驚いたのか、琴巳は涙の止まった目を丸くして見上げてくる。潤んできらきらした瞳から、栩麗琇那は目を逸らせた。速い鼓動に合わせて、こめかみが痛い。
「公士にも、二人共受かったって教えないと」
こめかみをさすりつつ、栩麗琇那は踵を返した。階段を降りながら、今度はさする指先が疼いた。つい今し方、琴巳の身体を感じた指――
疼く指で髪を梳き上げ、栩麗琇那は深く息を吐き出した。
胸元から、初めてバイブレーションが起こった。
自邸の長い廊下を歩いていたシェリフは、シャツの胸ポケットに片手を入れ、受信機のスイッチをリセットする。
細かに手が震えていて、シェリフは興奮を自覚した。ぐっと拳を握る。
私室へ向かっていた足先を素早く方向転換すると、密やかに名を呼ばれた。
肩越しに見やる先に、イザベルが居た。若いメイドは周囲をちらっと一瞥してから、駆けて来た。
「びっくりさせようと思ってたのに、後一歩の所でUターンしちゃうんだから」
腕を組もうとするので、シェリフはやんわり制した。
「買い物に行くフリは、そろそろやめた方がいいな。いい加減バレるよ。仕事に戻りな」
「大丈夫大丈夫」
「これまでは運が良かっただけだ。チェックすれば、買い足しの必要が無いことも車を出してないことも露顕する」
シェリフは苛立ちを感じ、のびた前髪をかき上げた。「いいか、俺が教えた時は、多くの食材を前日の夕食に使っていたからこそ有効だったんだ。こういう手口は何度も使うべきじゃない」
「でも、誰も気づいてないもの」
けろりとしているメイドに、シェリフは嘆息した。俺は忠告したからな、と言い捨て、歩き出す。
イザベルは、スキップをするような足取りで横に並んだ。
「急に何か思い立ったみたいにして、何処行くの」
「母さんが気に入ってた部屋」
「あそこか。狭さ加減がいいかもね。うふっ」
シェリフは、目を眇めた。通りがかった部屋のドアを開け、イザベルを引き込み壁に押し付ける。
早々に目を閉じ半ば口を開いているメイドを、シェリフは見据えた。
「俺は、冷めてしまった」
イザベルは、せわしく瞬いた。シェリフは手を放す。「いつの間に、何処に落としたのか知らないけど、君は自分の何かを失くしてしまってる」
「は? 何、それ――?」
「解らないよ」
「何なの――解らないって、どういうこと!?」
ドアノブに手をかけ、シェリフは狼狽しかけているメイドに目を流した。
「特定の誰かを好きになる感情が如何なるプロセスを経て生じるのか、解明されてない。そんな未知の領域を言語にしても、所詮は完全に表現し得ない。今この場合、俺が甘んじて言葉に託せば、もしかすると、君はその言の葉に準じようと自分を矯正するだろう。それはおかしいし、微妙に間違っている。だから解決にはならない」
「シェリフ! 何!? 解んないわ!」
「人間には言葉より先に、心があった。感覚的に物事を理解する部分を、より昔から備えている。俺のその感覚が、君を否定してる。君が何を失くしたかは解らない。言葉には出来ない。けれど、無くなったのは解る」
シェリフはドアを開け、付け加えた。「恋に未熟な俺でさえ気づいた何かだ」
扉を閉め、シェリフは母の小部屋に向けて歩き出す。
果たして、彼女は理解できるか……
理解されなくても、冷めてしまったのだから、どうでもいいのかもしれない。
けれど、三年近く、所謂付き合いをしていた。シェリフはシェリフなりに真面目だった。真剣にイザベルが好きだった。簡潔に切り捨てられる程、浅い気持ちではなかった。
生半なアフターケアじゃ済まないな、これは。
小部屋の鍵を開け、シェリフは後ろ手にドアを閉める。
壁際の床を見やると、先日、日本から届いた葉書の文面が蘇った。
【大学で考古学を専攻する】
七年半の間、地道な確認を繰り返しているルウの皇子も、真面目で真剣だと思われる。
誰かに心魅かれていたとしたら、どうしているか……
シェリフは推測しかけ、やめた。
人の心は、常に傍に居ても思いも寄らぬ方向へ変化する。八年近く会っていない相手の心理など、考えるだけ無駄だ。シェリフには、十一になる皇子のデータしかない。十九へ向かう青年の心がどのような遍歴を経て変化しているかなど、察しようもない。
それでも、基本的な性格があの頃と変わっていないと、枚数を重ねる葉書が告げてくる。一文に込められたメッセージに、朴直な皇子の人生が詰まっている。
与えてくる印象のままに成長していて欲しいが、反面、それは厄介だ。
より、生半なケアじゃ済まなくなる。
だが、自分なら収拾がつけられる筈だ。
何せ、神の子のオリジナルだ。
シェリフは高揚を覚えつつ、壁へ向け、一歩を踏み出した。




