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加賀家の子供達は、それぞれ最後の夏休みを迎えた。公士は小学校、琴巳は中学校、栩麗琇那は高校の。
七月下旬に順子を昼食に招き、八月の登校日後、加賀家の子供は揃って九十五里にやって来た。
受験生が二人居るのだが、内一人は例年と変わり無く過ごしている。のんびりと、好きな本を読んだり、クロスワードパズルに戯れる毎日だ。
大学受験と高校受験とでは前者がより難関で深刻だと思うのだが、それに向き合っている筈の栩麗琇那はまるで焦燥に駆られている様子が無い。
しかも、何だかんだ言って、彼の志望校は未だ不明である。
だから琴巳は、連日各教科に取り組む自分が少々惨めだった。
いち日、祖母が使いを頼んで、少年二人が外に出た。残った琴巳は、祖父母にぼやいた。
「お兄ちゃん、高校受験の時みたいに夜だけ勉強してるのかなぁ。水高に通ってちゃ、そうそう適当な大学にも行けないと思うんだけど」
「青葉大学の考古学科だ」
祖父が、さらりと言った。麦茶の硝子湯呑を手にしながら苦笑する。「琴巳には言ってないのか、あいつめ」
琴巳は思わず身を乗り出した。
「ホントに!? お兄ちゃん、青大行くの!?」
「先生のお話だとね、青大の考古学科は関東じゃ一番レベルが高いんですって」
祖母が、かき氷器を回しつつ言った。「でも青大は私立でしょ。お金がかかるからって、最近までシュウ君迷ってたのよ。気にしなくていいのにねぇ」
迷う気持ちの方が琴巳にはよく解ったので、祖母には頷くだけにする。
琴巳も、梛女子高校が私立だと知って、母に告げるのをためらった。けれど、既に順子と、頑張ろう、と約束してしまっていたし、社会人になってから学費は必ず返すから、と熱意を手紙に託した。
緊張して迎えた翌朝、台所には意外な程あっさりと許可するメモが留めてあった。
【お金の事は心配しないでいいよ。お父さんが、たっくさん貯めておいてくれてるから。ナギ女子高校って、いい学校みたいだね。頑張れよぅ!】
どうやら、父が事故死した時に入って来た保険金や慰謝料を、母は手付かずのままにしていたらしい。お蔭で琴巳は、学費を気にせずに済んだ。後は学力である。
かき氷に檸檬シロップをかけつつ、琴巳は祖父に問うた。
「お兄ちゃんに、お金のことは気にするな、って言ったの?」
「それでは琇那は折れなかった」
祖父は麦茶を一口飲んでから、言った。「幸い、青大も馬安の家から近いじゃないか。ということは、改めて下宿代も要らないし交通費も割安、その上、実家から更に離れることもない。実に親孝行だな、と言ってみた」
祖母が、蜜柑の缶詰を開けながら付け足した。
「そしたら、シュウ君、丁寧に頭を下げてくれたのよ。それで決まったの」
お兄ちゃんらしい、と琴巳は果物を盛りつけつつ思う。
「お兄ちゃん、水高の中でも頭いいよね。絶対受かるよね」
「落ちたら医者に連れて行かんといけないだろうな」
栩麗琇那の頭脳を信じきっている祖父の言に、琴巳は匙を握り締めた。
「お兄ちゃんが青大と判ったからには、わたし、何が何でも梛女に受からなきゃっ」
祖母は再びかき氷器に手をかけ、小首を傾げた。
「梛女と青大は接点があるの?」
「そうなの」
琴巳は順子から聞いていた話を説明した。「青大には青葉高って付属高校があるんだけど、そこと梛女は隣同士なんだって。で、青大のスクールバスの停留所の一つに〝青高前〟っていうのがあるらしいの」
「あら、じゃあ、もしかしてシュウ君、交通費要らないんじゃない?」
「あ、うん。スクールバスだから、学費の中に組み込まれてるんじゃないかな。〝青高前〟までは梛女と一緒で歩いて行ける距離だし、更にお金を出す必要は無いと思う」
琴巳は両手を合わせた。「わたし、お兄ちゃんとバス停まで一緒に通いたいな。今までは五分ぐらいだったけど、梛女までは四十分ぐらいあるもんね」
はにかみながら言った琴巳は、祖父母がにこにこしているのに気づいて顔が熱くなる。
いつの間にか、琴巳が栩麗琇那を好きなことは二人にバレてしまった。バレてしまったので、親友に話す時のように、ついつい話してしまう。でも、ふと我に返ると結構恥ずかしい。何せ、相手は人生の先達だから。
照れてかき氷をさくさく崩す琴巳に、祖母が優しく微笑んだ。
「琴巳ちゃん、これからもシュウ君のお食事をお願いね」
うん、と琴巳はえくぼが浮かんだ。
八月二十日、栩麗琇那は琴巳と、馬安に向かう鈍行に揺られていた。
朝の通勤ラッシュが過ぎた車内は、割合に空いている。
出入口付近の座席横に軽く身をあずけた栩麗琇那は、単語を口にした。
「北」
ドア脇に立つ琴巳が、瞳を上向ける。
「N、O、R、T、H」
「通る」
「P、A、S……S?」
「あぁ」
ゆっくり視界に入って来たホームを眺めつつ、栩麗琇那は言った。「Tにしようか迷った?」
素直な仕種で頷く琴巳に、栩麗琇那は解説を添える。
「Sを通ってTになると〝過去〟だ。丁度アルファベット順だな」
ぷしゅー、とドアが開くと同時に、そっか、と琴巳は両手を合わせる。グレーの制服の、半袖からのびる細腕が眩しい。
知らず目を細めた栩麗琇那は、腕時計に視線を移した。午前十時過ぎ。時刻表通りだ。この駅は、九十五里と馬安の中間辺り。次の駅で乗り換えだ。
馬安中学校で行われる模擬試験は、午後一時から。予定では、昼前に馬安に着き、その辺で食事をしてから、学校に向かう。栩麗琇那は、試験終了まで馬安図書館に居るつもりだ。
養父母は、夏場の電車内には痴漢が多いと、琴巳に注意を促すのではなく、栩麗琇那に言った。無視できず、こうして同行している次第だ。
ドアが閉まり、がったん、と電車が走り出す。
琴巳の、黒目がちな双眸が見上げてきた。
「問題、終わり?」
「熱心だな」
栩麗琇那は微かに苦笑した。「最近、かなり遅くまで勉強してるだろう。養母さんが、夜食を作ろうかどうしようかって落ち着かなげだ」
「えぇ? お祖母ちゃんたら、気にしなくていいのに」
「あまり根を詰めるなよ? コトミが倒れたら、養母さんも一緒になって倒れそうだ」
「わたし、そんなに無理してるように見える?」
少しな、と口には出さなかったが、栩麗琇那は肩をすくめて見せる。
琴巳はややうつむくと、夏の間に合格圏に入っておきたいんだもの、と呟くように言った。栩麗琇那はセーラー服のリボンを目に映しつつ、小首を傾げる。
彼女は、梛女子高校の何にそれほど魅かれているのか。
女子校だからとは思えない。すぐ隣に青葉大学付属の男子校があり、交流もあるようなので、共学と変わらないだろう。となるとレベルか。県で十位以内に入る偏差値の私立校。
それとも、将来を考えてのことか。梛女に入れば、エスカレーター式に短期大学に上がれる。梛短大は取り沙汰する程の学校でもないが、短大という一つの進路は確保される。
「お兄ちゃんは、模擬テストとか受けないの?」
問いかけに、栩麗琇那は答えられなかった。日夜必死に勉強している少女を前に、問題が簡単過ぎて物足りない、などとはとても言えない。
何処を受けても栩麗琇那は合格する自信がある。県でトップと言われている水晶高校の授業も、試験も、中学の時と変わり無い。ルウの皇子の学力は、未だに、周りに合わせ調節する余裕があった。
駅に着いたのを幸い、栩麗琇那は返答をうやむやにした。ドアが開き、琴巳を促してホームに出る。乗り換えの電車が来るのはすぐ隣のホームだ。
琴巳は、返事を要求してこなかった。柔らかな手を重ねてきて、別のことを訊いてくる。
「面接で、青大なら楽勝って太鼓判押されたの?」
面食らった。志望校は教えていない筈だったから。
「養父さんか養母さんだな?」
漏洩元を察して呟くと、琴巳は横で澄まし顔をする。
「お兄ちゃんも、わたしの志望校、お母さんから聞いたんでしょ?」
「訊かれたんだ」
電車が入って来ていないホームの日陰に立ち、栩麗琇那は応えた。「梛女子高校を知ってるかって」
窺うように、琴巳は見上げてきた。
「知ってる?」
「今は」
いささか単純な返事ではなかったか、琴巳は瞬く。栩麗琇那は付け足した。「訊かれた時は知らなかったから、調べた」
「訊いてくれたら、教えたのに」
ホームに差しかかる電車に顔を向け、栩麗琇那は言った。
「俺に訊くということは、千鶴子おばさんは、客観的に知りたいんだと思った。だから、コトミには訊かなかった」
風と共に電車が滑り込み、そっか、と応じた声が殆どかき消される。
きゅ、と手を握り直されて栩麗琇那が目を戻すと、琴巳はくらくらしそうなほど可愛いはにかみ顔をしていた。何か言いかけたが、プシュ、とドアが開き、口をつぐむ。
涼しい車内に乗り込んで、栩麗琇那は吊革に手をかけた。琴巳は、四人がけの座席に付いた銀の持ち手に指先をかける。
発車すると、琴巳はキラキラした漆黒の瞳を向けてきて、口を開いた。
「受かったら、バス停まで一緒に登校していい?」
栩麗琇那は二、三度瞬く。
梛女子高校は、水晶高校ほどではないが加賀家から近い。徒歩で行ける。対して青葉大学は、徒歩ではキツい。馬安駅から都心に向けて二つ目の駅が最寄りだ。バスよりも電車の方がコストがかからないので、栩麗琇那は電車で通うつもりだ。
馬安駅は学校と反対方向にある。故に、来春からも、一緒に通うとすればあの二百mの小道だけの筈だが……
当惑しつつ、栩麗琇那は首の後ろに手をやった。
「何処のバス停までだ」
琴巳は、ほんのちょっと身を引いた。唇をすぼめ、ささやかに怒っているらしい。さりとて、まるで迫力が無い。それでも憤慨を示すように、琴巳は短く言った。
「〝青高前〟」
「あぁ、青大の付属高の前……?」
琴巳は、意外そうな顔つきになった。
「お兄ちゃん、青大が第一志望なんでしょ?」
「受けるのは青大だけだ」
馬鹿正直に言ってしまい、理由を誤魔化そうとした栩麗琇那は顎に手がのびてしまう。寸でで気づいて髪にまで移行させ、かき上げながら二番目の理由を口にした。「私立だし、それ以上の負担を養父さん達にかけたくない」
ん、と琴巳は同意を示す。
電車が停まり、再び走り出す。
琴巳はトートバッグを抱き込むように持つと、確かめるのと教えるのが半々のような口調で言った。
「青大のスクールバス、青葉高校前にも停まるでしょ?」
「……コトミ、俺より詳しいな」
額に手をかざし、栩麗琇那は情報を整理する。青大にはスクールバスがあったようだ。そのバスの停留所が付属高校の前にもあるらしい。
頬を染め、琴巳は小さな声で言った。
「バス停まで、一緒に通いたいの」
それがちょっとした励みになり、ここ数日、一層頑張っていたのか。
可愛いことを考えるよなぁ、と思いつつ見やれば、琴巳は益々顔を赤らめた。クーラーの効いた車内だ、暑さの所為ではあるまい。
栩麗琇那は車窓の景色に目をやり、合格するまで黙っていた方が良さそうだ、と思う。大学の講義は、朝からとは限らない。
用が無くても朝一で行くテもあるか、と浮かんで、内心で苦笑した。そうしてしまいそうな自分が、容易に想像できたから。
がたん、と停まった電車が大きく揺れ、反射的に琴巳の無事を確かめる。少女はちゃんと持ち手を掴んでいたので、僅かに足踏みしただけだった。バッグを肩に掛け直し、こちらを見上げる。
双眸に不安と期待が入り交じっているのを見てとり、栩麗琇那は彼女の希望に応えていないのに気づいた。取り敢えず首肯する。
「まぁ、好きにしな」
琴巳は花が咲いたように顔をほころばせた。目にした栩麗琇那は、身体が熱くなる。
勿論、暑さの所為ではなかった。




