4
担任教諭は、開口一番、言った。
「これだけ安心して、頑張れ、と言えるのは、極めて珍しいだろうなぁ」
そこはかとなく面白い台詞だ、と思いつつ、学校で受けた最後の模擬試験の結果表を、栩麗琇那は黙って受け取った。
第一志望の欄だけ埋められている表の、合格率は八八%。判定はA。校名は、最初の試験時から同じだ。
この瀬戸際になっても、定員三百人の所を二千人近くが志望している。第二、第三志望として記入した者も居るだろうが、水晶高校を本命にしているのはかなり居そうだ。
〝志望者数中、十六位〟と印刷されている文字を、栩麗琇那は微かな罪悪感を持って見つめた。
本当なら十七位の人物が、これを手にしている筈だ。そして十七位は十八位が、十八位は十九位が……そのまま一人ずつずれて三百十一位はぎりぎりで補欠合格に滑り込む。異世界からの闖入者さえ居なかったら。
けど、俺も、好きで来たんじゃない。
後ろめたさを振り切り、栩麗琇那は表を折り畳む。
今日は志望校の確認などだけなので、仕切の奥で膝を突き合せての話ではない。担任は自分の椅子に座り、生徒はその脇で佇んでいる。二つ隣の机で、B組の女性教師と女生徒が似たような光景を生み出していた。
栩麗琇那が制服の内ポケットに表をしまうと、D組担任教諭は再び口を開いた。
「敢えて一つ心配なのは、加賀の場合、体調だ。この前のマラソン大会にも初めて参加できたし、だいぶ体力ついてきてるみたいだけど、健康には充分注意して。それと今のところ、ウチのクラス――って言うより、三年生の中で加賀の受験会場が一番遠い。当日、親戚の所からじゃなくて、こっちから行くんだろ? 電車なんか、ラッシュに巻き込まれる可能性充分だ。その辺も気をつけてな」
もし良かったら、試験終了後にでも、無事終わったー、って学校に電話してくれ。僕じゃなくても、三年の先生方には話通じるから。担任はそう締め括った。
結局のところ、受験生を受け持った教師達は、生徒全ての進路がしかと定まるまで心は休まらないのだ。栩麗琇那は少しくすぐったい気分で頷く。
担任は、去年の夏前より数段厚みの増したファイルを閉じた。
「はーい、じゃ、昼休みに御苦労さん。次、十二番以降で教室に居るのを呼んでくれ」
今一度頷いてから、失礼します、と栩麗琇那は一礼する。
壁に掛かった時計の針は一時を示そうとしている。昼休みは二十分までなので、面接は何とか後一人といったところだろう。栩麗琇那は歩調を速め、職員室を出た。
職員室は本棟一階にある。対して、三年生の教室は三階だ。
一階と二階の間にある踊り場付近で、下方から呼び止められた。三年生の上履きを履いた少女が、肩で息をしながら駆け上がって来た。
「あ、歩くの速いね」
「…………」
「足が長い所為かな」
言って、少女は長い髪を耳の後ろにかける。栩麗琇那は、やや眉根を寄せた。彼女は先程、B組の担任と話をしていた。何か伝言でも託されたのかと思ったが……
「急いでいたから」
栩麗琇那は簡潔に理由を述べた。そ、そか……と少女は口許だけ微笑む。うつむきがちで口の辺りしか見えなかった。少女は、ジャンパースカートのポケットから、何か取り出した。
「あの、これ、イモウトさんに」
やけに強調されていて、栩麗琇那は一瞬、妹、と判断できなかった。某かの固有名詞かと思い、は? の形に小さく口を開けかける。だが気づいたので、発声したのは、あ、の音だった。
「あぁ」
手を突き出されたので、受ける形で栩麗琇那も手を出す。掌に新品の消しゴムが一つ乗り、思い出した。「消しゴム半分貰った人……?」
先の夏休みだ。
図書館で、栩麗琇那は『ネイチャー』の最新号を読んでいた。向かいの席では、一緒に来た琴巳が貝の名前や生態を図鑑で調べていた。
訪れた時間帯は開館したばかりで空いていたが、館内は次第に混んできていた。六人用の机は琴巳の隣も埋まり、栩麗琇那の横も埋まった。その、横に座った女性が、しばらくして声をかけてきた。
『あ、あの』
声がこちらを向いていたので、栩麗琇那は軽く目を流した。同年代くらいだ。少女は、頬を赤らめて言った。『け、けっ、消しゴム、貸してもらえる?』
目の端にノートや参考書を捉えていたので、また必需品を忘れたものだな、と内心で思った。
『俺は持って来てないので……』
誰か他の人に、と言を継ぐつもりだったが、ふと前を見ると、妹が自分の消しゴムを半分に折っていた。良く消えるのか疑わしい、薄緑の色付きで、匂いも付いている代物だ。琴巳は少女を窺うと、マスカットだろう匂いの漂うそれを、これで良かったらどうぞ、と半分差し出した。
『ご、ごめんね、ありがとう』
少女は益々顔を赤らめ、受け取った。
三人は、それぞれの目的に戻った。
やがて、めぼしい内容に目を通し、栩麗琇那は腕時計を見た。丁度良く、十二時に近づいていた。
雑誌を閉じ、栩麗琇那は言った。
『昼御飯にしないか』
『うん』
顔を上げて応えた琴巳は、ちょっと首を傾げた。視線が少々逸れていて、栩麗琇那は横手を見た。少女は、その時もまだ赤い顔で、口を押さえていた。
気分が優れないのかと思ったが、急を要するようではなかった。栩麗琇那はそのまま、妹を伴って図書館を出た。
出てから、琴巳が教えてくれた。
『あのお姉さんね、一瞬びっくりした顔でお兄ちゃんを見たの。昼御飯って聞いて、もうお昼!? って感じだった』
『時計も忘れていたのかもな』
その後は、持参した弁当を何処で食べるかに焦点が移り、少女のことは話題に浮上しなかったのである。
琴巳が譲った物より質の良さそうな消しゴムを見やり、栩麗琇那は顎の先を指先で掻いた。
「多分、妹も覚えてると思う。ひとまず預かるよ」
「うっ、うん」
応じた少女は、今日も心なしか頬が赤かった。栩麗琇那は、不意に望ましくない兆候を感じた。それじゃ、と階段に足をかける。かけると、慌てたように声が追って来た。「あっ、あの、待って、もう一つ」
振り返った栩麗琇那は、察するのが遅れた我が身に立腹した。ズボンのポケットに入れかけた消しゴムを手の中に戻す。
少女は、聞き取りにくい声でぽそぽそ言った。
「さっき、沼地センセが言ってたの、聞いちゃった。加賀君、遠くの学校、受けるって」
「…………」
「わたし、フエクサ高受けるんダ」
「……そこ、俺は知らない」
より正確に言えば、水晶高校以外を知らない。担任が最初の模擬テストで書いてみろと言っていた水晶以外の校名も、聞き漏らし、ばつが悪くて訊かず終いだ。校内で五度受けた模試では合格圏から外れないどころか常に志望者中二十位以内に居る為、担任も一回目の面接以来、他の名を口にしていない。
そ、そっか……と少女はまた言った。
「わたしも、ちょっと遠い方。通うのに一時間ぐらいかかるかな」
マイペースで話を進める。栩麗琇那は解った。
あの夏の日も、彼女はヒロインだったに違いない。共演は栩麗琇那だけで、他は書割。故に、昼御飯にしないか、と言われたのが、ロマンスの主役たる自分だと思ったのだ。
だから、劇的にびっくりした顔を向けた――
「加賀君、やっぱりわたしと違うトコ受けるんだね。そんな気はしてた。夏休み、図書館で読んでた本、洋書だったし」
辟易する栩麗琇那に、少女はぽつぽつと続けた。「別々のガッコ行って、新しい友達たくさんできて……わたしは、ただの元同窓生になっていっちゃうんだね……」
なっていくも何も、元々ただの同窓生だ。栩麗琇那はもはや唖然として、うつむきがちの少女を見た。
大体、中学三年間、クラスが一緒になったこともない。こちらは相手の氏名さえ知らない。こうして向かい合っているのに、未だに顔もよく認識できていない。
その時、やっと少女は顔を上げた。上げても、夏さえ思い出せそうになかった。
「それは嫌なの。だから、高校受かってから、付き合ってくれる?」
「――凄い三段論法だ」
思わず言ってしまって、栩麗琇那は口を覆うように片手をあてた。もう一方の、消しゴムを持っている手を差し出す。「これは、夏休みの時から、口実?」
少女は口許に手をあてると、それがヒロインのポーズなのか、再度うつむいた。
純粋な好意が邪な好意に変わり果て、手の中にあるような気がした。
「あの子は、本当は妹じゃないんだ」
「え……っ」
悲劇のヒロインとして顔を上げたかもしれなかったが、確かめたくもなかった。
栩麗琇那は手摺に消しゴムを置くと、足早に立ち去った。




