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ラル家の皇子は元々、読書が好きだった。
ルウの民の住まうメイフェス島には大陸の粋たる蔵書を集めた図書館があり、皇子はよく書物を借り受けたものだ。
本当は、借り出さず、館内で頁を繰りたかった。古めかしい紙の匂いや穏やかな静けさに、或る種の憧れがあった。その中で文字を追う利用者の姿に、オトナの雰囲気を感じていたから。
けれど栩麗琇那には、皇子という肩書があった。その場で書物を開くとなると、周りの者が著しく気をつかう。結果的に、求めている図書館の空気ではなくなる。故に宮殿まで持ち帰り、自室で読むしかなかった。
面が割れないようにしなければ、図書館で時を過ごすことは叶わないだろう。そう思っていたのだが……
皮肉なことに、皇子のささやかな願いは異世界で実現した。
シャープペンシルの芯を戻し、栩麗琇那は机に乗せた腕時計を見た。もうすぐ三時だ。
五月も終わりに近づく休日、九十五里中央図書館はさざめいている。少々好みの雰囲気が壊されていて、日曜に来る時は長居しないと決めていた。
帰り支度を始めると、斜向かいから小声がかかった。
「センター試験にチャレンジしてたの?」
顔を上げると、すっかり馴染みになった女性司書が、こちらを覗き込むようにして立っていた。手に何冊か本を持っている。横手の書架へ戻しに来たところらしい。「あれぇ、加賀君って、高校生だったっけ?」
鞄に入れていた生徒手帳を、栩麗琇那は掲げて見せた。司書嬢は眼鏡に手をかけつつ、表面に箔押しされた文字を読む。
「〝九十五里南中学校〟だぁ。なっつかしー。わたしも南中だったんだー」
「OGってヤツですね」
言いながら、栩麗琇那は広げていた新聞を畳む。
四月から通っている中学校は、生徒をはじめ近隣の人々も〝南中〟と省略して呼ぶ。〝北中〟も在って、九十五里に住んでいる中学生はおおよそが南北どちらかに通っていた。加賀家は南寄りで、栩麗琇那は近い方に入学した。
本を並べ終えた司書は、手を向けてきた。
「資料室に行くから、ソレついでに戻しとくわ、後輩クン」
「すみません、先輩」
「真顔でノってくるんだから、この子は」
新聞を手にしつつ、司書は笑いを噛み殺す。栩麗琇那が椅子を戻して肩から鞄を掛けると、訊いてきた。「やっぱり今でも、組の名前はABCって英語?」
栩麗琇那は首肯する。
一年生は四クラスあって、〝加賀琇那〟はD組だ。更にクラス内に出席番号というのがあり、誕生日の順らしい。これは十一番だ。
向こうの世界では十一の月二日生まれだが、こちらでは暦が微妙にずれていて、数えると十月二十九日に相当した。だから、戸籍上では十月生まれになっている。
図書館の出入口と資料室は途中まで同じ方向で、二人は連れ立って歩き出した。
「これ、今年のだよね」
司書は新聞の日付を見て言った。「今年のセンター試験は結構難しかったって聞いた覚えがあるけど、加賀君、さっき、たまたま開いてただけ? それともホントにチャレンジしてたの?」
誤魔化そうか逡巡したが、栩麗琇那は正直に答えることにした。
「日曜毎に、センターが導入された時のから、順番にやってたんです」
「へぇー。やれちゃったのね」
「まぁ、何とか」
ルウの子供は、五歳から学舎に通い出す。初級の、語学・理数学・史学・神学・魔術を十歳までに習い、十一歳からは上級の課程へと移る。
栩麗琇那は十歳になる年まで都の子供達と机を並べていたが、初級学舎を卒業してからは宮殿で課程を学んでいた。
帝王学と難度の高い術の習得とが要求され、同窓生より多くの事々を詰め込まれる。成人までの四年間そんな生活が続く筈だったが、たった七ヵ月間、過密な日々を送っただけで、異世界に来てしまった。
魔術はともかく、他の物事はこちらの世界で吸収するしかない。結界を張らずに暮らせるようになって、学校へ通うことを養父母が勧めてくれたのは栩麗琇那にとって願ってもないことだった。
家に居た一年半、小学校卒業辺りまでに覚える内容は、元小学校教師だった養父が教えてくれた。
この世界独特の思想に基づいた事柄以外は、大体が復習のような感覚だった。皇子が身につけていた知識は、こちらでは大学で学習するモノも含まれていたので。
中学校への入学手続きをしてくれた亘は、ちょっと苦笑気味に言ったものだ。
『琇那には、物足りないかもしれない』
その通りだった。
もはや、各教科書の内容はほぼ把握している。多くの授業は、教師が特に取り上げる点を、頭に入っている内容と比較して整頓する、そんな時間の反復だ。面白いと感じられるのは理科の実験や技術実習ぐらいだった。
そんなこんなで、手持ち無沙汰に大学入試の問題をやってみたりしている……
司書嬢は、興味ありげに問うた。
「答合わせした? どうだった?」
「……語学と歴史がどうも、難しい」
悔しさと恥ずかしさに、栩麗琇那は額を指先で掻いた。「似ているようでいて違ったりするから、ごっちゃになって……」
「あぁ、何か解る解る」
司書は理解を示したが、本当の意味では伝わっていない。栩麗琇那は、故郷とこの世界がまぜこぜになると言ったのだが、訂正するわけにもいくまい。
〝資料室〟と札が見え、司書は歩調を緩めつつ問を重ねた。
「数学とかは、できてたりしたの?」
「あぁ、はい。理系は割と」
「はー、中学の時点でその調子だと、国立の有名ドコに行けそうねー」
司書は微笑んで、じゃあね、と手を振ると資料室へ去って行く。
俺はこの世界で、大学にまで行かなくてはならないんだろうか……
不意に寒気を感じ、栩麗琇那は身を縮めた。
温かな家族が恋しくなり、少年は足早に図書館を出ると、帰路についた。
「――以上です。残りの夏休み、みんな、有意義に過ごしてね」
教壇に両手をつき、担任教諭は言った。「じゃ、次は九月に会いましょうっ。今日は終わり」
日直が号令をかける。さよーなら、と一年D組の教室に挨拶が響いた。
八月四日、夏休みの中間、真夏のいち日だ。
一斉に騒がしくなった教室で、栩麗琇那は学生鞄を手に席を立つ。近くの席の男子も立ち上がりながら、誰にともなく言った。
「だー、あっちー」
「クーラーとまでは言わねーから、扇風機入れて欲しーよなー」
前の席の生徒が応じると、ホントホント、と周りが相槌を打った。
栩麗琇那は学校で、自分から話しかけることが滅多にない。
まだ時々体調が崩れる。そんな時は結界を張るしかないので、そもそも人が大勢居る所に入って行けない。又、明日にも石が見つかって帰郷できるかもしれないから、事情を知らない誰かとやたらに親しくなる気も起きなかった。
男子のぼやきに、女子の高い声が割り込んだ。
「ねぇねぇ、アイス食べに行かない?」
そうだな――行こっかな、と応える少年が居る。
やり取りを耳にしながら、栩麗琇那は教室の戸に向かった。
「あっ、加賀君もどう?」
慌てたような高音に、栩麗琇那は教室と廊下の境目で振り返った。入学から四ヵ月、空気のように振る舞っているが、話しかけられれば無視はできない。ごく普通の、平凡な存在で居たかった。
「悪いけど、用事があるから」
本日、遂に養父母は二人の孫と対面できる。
馬安の小学校は昨日が登校日で、今日から八月三十一日まで琴巳と公士の姉弟が泊まりに来ることになっていた。
そんな用事の中身は口にせず、それじゃ、と栩麗琇那はD組を後にする。
加賀少年が居なくなると、女子の一人が溜め息まじりに言った。
「だーめかぁ」
ざーんねん、とトーンの落ちた声音で少女達が同調する。集まっていた男子達は、口許を引きつらせた。
「もしもしぃ? ボクらって、ひょっとして囮ですかぁ?」
「せいかーい」
少女達は肩をすくめる。少年達は、呆れたように両手を掲げた。
「なぁんで、あんな根暗で軟弱なオタク君がいいかなぁ」
「ちょっとぉ、何それ、感じワルー」
口を尖らせる女子達に、男子の一人が指折り言い出す。
「体力無くて小学校にも行けてないし、中学入ってもタイクは見学ばっかだし?」
歌うような口振りで、隣の少年が続ける。
「休み時間はぼーっと外ばっか見てるか、何かカタそうな本読んでるしぃ?」
立派なもやしオタクじゃんなぁ、と男子達は声を揃える。女子が猛然と反発に出た。
「ひがんでんじゃないわよ、あんた達ーっ」
「そうよそうよ、加賀君みたいなのは、繊細で物静かって言うのよっ」
少年達は、モノは言いようだよなぁ、とげんなりした顔を見合わせる。
「あぁあ、このクソ暑い中で馬鹿らしーぜ。ワーゲンダッツに行くべ行くべ」
「あっ、ちょっと、あたしらが行くんだからー」
少女達は相次いで鞄を引っ掴む。
「男子はウエノに行きなよっ」
「冗談じゃねーよ。あんな田舎臭いトコに行くかっての」
「ダッツが出来るまでは足しげく通ってたくせにー」
「うるせーよ」
少年は足蹴りの真似をする。
D組の生徒達は、ふざけた悲鳴と歓声をあげながら教室を出て行った。
商店街の一部らしいが立地的には外れた所に、店が並んでいる。九十五里第一小学校と南中学校の通学路に接していて、店種も合った四軒だ。
栩麗琇那は学生鞄を片手に、洋品店、文房具店を兼ねた書店、弁当屋の前を通り過ぎた。そうして最後の一店、雑貨屋に差しかかって歩調を緩める。
店の脇には分厚い看板があり、隷書体で〝植野商店〟と書かれている。それは、ウイスキー樽型のどっしりした鉢に、植木のように突っ立てられている。
梅雨明けの頃から、鉢には他にも植えられた。竿が一本。先には〝氷〟と書かれた布が一枚。
風に揺れている文字の横で、日陰に出されたベンチに座り、アイスクリームを食べている子供達が居た。小学生くらいの二人連れだ。
ここは安い駄菓子を豊富に揃えていて、少し前は南中の生徒もよく見かけた。が、このところは年齢層が低くなっているようだ。中学校の在る方面に、開発で新しい店が登場した所為かもしれない。
栩麗琇那は、店内に入った。
「こんにちは」
「あー、琇那君、いらっしゃい」
奥に座っていた店の夫人が、立ち上がりながら言った。「登校日だったの?」
「はい」
「あ、でも丁度良かった。昨日ね、トウモロコシ収穫したのよ。光乃さんに、おすそ分けで持ってこうと思ってたの」
彼女は、養母と仲がいい。隣の弁当屋の夫人と三人で、月に一度〝お料理会〟なるパーティーを楽しんでいる。料理好きが手料理を出し合い、切磋琢磨しているらしい。
植野夫人は、店の奥に続いている自宅に向かって息子を呼んだ。
「テルオー、昨日分けといたトウモロコシ持って来てー」
栩麗琇那は、それほど広くはない店内に視線を巡らせ、目的の物を見留める。
夫人が、こちらに向き直ると言った。
「でも、琇那君が学校帰りに寄ってくれるなんて珍しいね」
「養母さんの使いです」
「あら、なんだ。光乃さんは何が御入用?」
「そこの、ラムネをひと箱ください」
預かっていた金を鞄から出しつつ、栩麗琇那は言う。はいはい、と応じた夫人の背後に、東京から帰省していたらしい大学生の息子が白いレジ袋を提げてやって来た。夫人は気づいていないのか、昔ながらのレジを打ちながら、独り言のように言った。
「ワンボックスも……光乃さん、夏のデザートでも試作するつもりかしら」
「余ったらそうするかもしれませんけど、孫が泊まりに来るので、懐かしいのをみんなで飲もうってことになったんです」
「あっ、やっと会えるって言ってたお孫さん? なるほどなるほど。都会の子には珍しいかもね」
レシートを切りながら、夫人は頷く。
テルオが、袋を重そうにして言った。
「そんなことより、とーもろこしなんか追加していける? これ結構あるよ。チャリか何かで来てんならいーけどさ」
「そうねぇ。あのラムネは瓶だけど……」
言葉を切って、夫人はラムネの箱を見る。見てから、こちらに目を移した。「どうかしら」
栩麗琇那は鞄につり銭とレシートをしまい、ほんの少し口の端を上げる。
「大丈夫です」
けどさー、とテルオ青年が苦笑気味に口を開きかけると、夫人が言った。
「あんたはあの箱を積んだだけでひーひー言ってたけど、琇那君は表の看板を持ち上げられるから」
「――あぁ!?」
「去年、おっきな台風で倒れたのを戻してくれたのよねー」
夫人はふっくらした顔をにこにこさせ、言う。「軽々と小母さんの置きたい所に持ってってくれて。ねー?」
「今年は倒れないといいですね」
無難な返答をしつつ、栩麗琇那はボックスに足を向ける。
「えぇ!? だって、あれ、そんな簡単に倒れねーだろ――母さんぐらいあるじゃん!?」
「まっ、やーね、この子は。なんて例えを持ち出すんだか」
重い物だったのか。まずかったかな。
思いながら、皇子はプラスチックの箱に並立する瓶に鞄を乗せる。箱の縁を両手で持ち、掛声を入れてみることにした。
「よいしょ」
青緑色の瓶が僅かに触れ合い、カコンと音がする。正直言って、全く重くない。ルウの民は術力が作用して、膂力が常人よりも多めだ。本当なら片手で持てる。そうしないのは、この世界では尋常じゃないと、暮らすうちに解ったからだ。
平気? と夫人がにこやかに訊いてきて、栩麗琇那は無言で頷いた。
「どうする?」
目をぱちぱちさせ、テルオが袋を掲げる。
「いただいていいですか」
足元に気をつけろよ? と言いながら、青年は鞄の上に袋包みを乗せる。栩麗琇那は軽く頭を下げた。「御馳走様です」
少年はすたすたと商店を後にする。
「見かけによらないもんでしょ」
植野夫人は自慢するように言った。息子は、まったくだ、と半ば呆気に取られた様子で応じた。
熱気に、灰色の道が揺らめいている。
一本道の、左手は雑木林、右手は畑が続く。
林からは、数種の蝉が鳴きたてる声が響いていた。
栩麗琇那は、荷物を抱えて黙々と歩を進めていた。一歩毎、蝉の喧騒に、カタ、カタ、と瓶の触れ合う音を紛れさせる。
延々と、この状態が絶えない錯覚がある。
変わり映えのない景色、虫の声、枷の摩擦音。
荷物に重さは感じなかったが、足に重苦しさがあった。
孫に会えずにいる境遇につけ込んで、迷子の少年は養子として老夫妻の家に潜り込んだ。
孫と過ごす時間が現実のものとなる今、養子の必要性は無い。それどころか、邪魔かもしれない。栩麗琇那の役目は終わっている。電力の抜けた電池のように、あっても始末に困るだけになってしまった。
元々、皇子の居場所はこの世界に無い。
仮初めの家に帰り、自分は何処に居ればいいのだろう。家に集う他の人々が互いを家族と確かめ合うのを、片隅で見ていてもいいのだろうか。
加賀家の養子は、架空の人物だ。
戸籍は偽物――出生地も生年月日も名前も。
ここでは誰も、栩麗琇那が生まれた時のことを知らない。誰も、栩麗琇那が生きてきた十年余を知らない。
自分が確かに存在しているのか、少年は判らなくなってきていた。
俺ハ、ココニ居ルノニ――




