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【来月から学校に行く事になった】
絵葉書の裏面、便りを書く欄の中央に、栩麗琇那はそれだけ書いた。ペンにキャップをすると、席を立つ。
自室を出て、階段を降りる。居間を覗いたが誰も居ない。台所に行くと、光乃が夕飯の支度を始めていた。
「養母さん、ポストまで行ってきます」
光乃は包丁を動かしていた手を止め、顔を上げた。ほんのちょっと微笑む。
「シェリフ君にね?」
栩麗琇那が頷くと、養母は常套句を口にした。「道々、気をつけるんですよ」
再び頷き、栩麗琇那は家を出た。
空模様が怪しかった。遠くの方が暗い。春雷を孕んだ雲かもしれない。傘を取りに戻ろうか寸時迷ったが、そのまま田舎の道を歩き出す。
ポストまでは、歩いて十五分ほどだった。
カナダに居るたった一人の友人から、昨日、葉書が届いた。
【実験中。石はまだだ。】
二人共、いつも短文である。意図的にそうしている。他人に文面を知られても、構わないように。
葉書は年二回、やり取りしている。春分と、秋分の日の頃に。
昨日来た葉書で四通目だった。それは暗に一年半の経過を伝えてくる。プラス一ヵ月という日数が、ルウの皇子がこの世界で過ごした日々だった。
鎖だけでは、故郷に帰れなかった。
蒼杜の首飾りを除外した帰還方法は、見つけ出せなかった。
首飾りの先端に付いていた石は、フランスの蚤の市に出され、最悪なことに、外国から来た観光客風の女性に買われたらしい。
栩麗琇那がフランスに居る間に判明したのはそこまでで、後は報告を受けていない。
その後の捜索状況は、知らせても詮無いとシェリフは判断しているようだ。栩麗琇那も、説明されたところで全部理解できるか怪しい。肝心な朗報だけを伝えてくれれば充分だった。が、それがなかなか、来ない……
ポストは少しだけ賑やかな界隈にある。この辺で一店だけの、コンビニエンスストアの脇だった。
葉書を投函したところで、声をかけられた。
「加賀さんの所のボクじゃない」
近所――といっても、かなり離れた所に住んでいる婦人だった。
「こんにちは」
「おつかい?」
栩麗琇那は一礼で誤魔化すと、帰路につく。
皇子は現在、加賀亘と加賀光乃の養子になっている。戸籍上の名前は、加賀琇那という。全て、シェリフが取り計らったことだった。
一昨年の八月五日から六日のことは、今でもよく覚えている。
鎖を持って小部屋をうろついたが、栩麗琇那は帰れなかった。
夜半になってエドモンから連絡が入り、首飾りの先は何処の国から来たのかさえも判らない人物が買って行ったと知らされた。
栩麗琇那はすっかり虚無感に包まれてしまい、ぼうっと外の夜景を目に映していた。
そんな皇子の横で、シェリフが言い出したのだ。
『栩麗琇那、腹を据えて日本で待ってな。見つかったら、すぐ連絡するから』
『……日本で待ってな?』
頭が動き出すのを拒んでいて、栩麗琇那は何となく、そこだけ繰り返した。
シェリフは、顔を傾けて斜めに見据えてきた。些少の怒気を感じ、栩麗琇那は慌てて彼の台詞を反芻した。ようやく、まともと思われる返事をする。
『あの老夫妻の所に?』
『さっき言っただろ。僕は来月にはこの家に居ない。遊びに行くんじゃないから、君を連れて行くわけにもいかないんだ』
『あぁ、うん。連れて行けなんて、言わないよ』
『となると、君は我が家の客として、一人で滞在しなければならない。でも、日本語の会話ができるのは、君に殺気を向けてた父さんとエドモンだけだ』
『う……』
『ここで緊張しながら過ごすより、言葉も通じて両親代わりになる夫婦の所に居た方がいい』
シェリフは断言した。『幸いって言うのもナンだけど、彼等、孫と会えずに苦労してる。察するに、つい最近まで、彼等はマサシ氏の結婚相手チヅコ氏を認めずにいて、親子関係が断絶していたんだな』
関係図を脳裏に描き、栩麗琇那は小首を傾げた。
『亘小父さん達は断絶が間違いだったと気づいたんだ。気づいた時には御子息は亡くなってしまったんだから、正直言って悲しい結末だ。何が幸いなんだ』
『あの口喧嘩を思い出してみな。亘氏はさ、好意からだったろうけど、孫を引き取るような言い方をしちゃったんだよ。チヅコ氏は、連れ合いを亡くしたばかりで、忘れ形見になった子供まで失っちゃたまらないと考える人だったようだ。断ったんだな』
『うん。そう、きっと、そんなトコロだと思う』
思い返しつつ、栩麗琇那は言う。『それで、小父さんはもう一回、頼んでみるって言ってたな』
『まぁ、交渉は長引くだろう』
冷徹に、シェリフは見解を述べた。『年単位で交信を断たれていたところへ、いきなり、子供を寄越せと言われてしまったチヅコ氏が簡単に折れるとは思えない。下手に関わって子供を盗られるくらいなら、今後も関わらない方がいいとチヅコ氏は結論づけるだろう』
『俺は、ただ会いたいんだって頼めば、済むと思うんだけど』
『栩麗琇那、聞き漏らしてるか、聞いたけど忘れてる』
シェリフは指摘した。『彼女は職を持っている。連絡も取りづらい。仮にカンゴシ辺りとすれば、夜勤も多いだろう。自由な時間は少ないな』
その職業はよく解らず、栩麗琇那は黙って耳を傾ける。シェリフの弁は続いた。
『チヅコ氏の住まいは、そこそこ離れた所にあるんだろう。だから余計、子供と義父母が会うことになっても、彼女は終始立ち会えない可能性がある。例のつたない申し出を聞いて子供を盗られる恐れが生まれてるから、自分の目が届かないところで、会いたい、会うだけだって言われても、おいそれと諒承できないよ』
『……全然、幸いじゃないじゃないか』
栩麗琇那がぼやくように言うと、シェリフは肩をすくめた。
『あのね、幸いなのは、君にとってだよ。君が亘氏の養子になれば、チヅコ氏の疑心暗鬼は薄れる可能性があるんだ。養子をとって更に孫まで盗るとは、流石に思わないだろう?』
シェリフは、人差指を立てた。『亘氏達は孫の一件が無くても、海外かもしれない君の帰宅先探しをさぽーとすると言ってくれてたんだ。しばらく養ってくれ、って言っても引き受けてくれただろう。でも今や向こうから、養子になってくれって言ってくる状況だ。君にとっては、願ったり叶ったりさ。めでたく孫との交流が実現すれば、君も同い年くらいの話し相手が出来るかもしれないし。ね、栩麗琇那、石が見つかるまで、日本に居るのが最良だと思わないかい?』
やっと少年の言わんとすることが呑み込めて、栩麗琇那はぽかんとしてしまった。たまたま聞いた言い争いから、これだけの発想と道筋を得てしまったのだから。
又、後になって気づいたが、養子に入るという考えは日本に行った時点で彼の頭にあったらしい。夫妻と住所氏名を交換したのは、事実その状況となった時の為の、布石だった。
翌日、栩麗琇那と日本に赴いたシェリフは、加賀の老夫妻に考えを提出した。
提案者の身元は、僅かでも事前に明らかになっている。加えて、どう話をつけたのか、シェリフは父親に某かの保証書類を作成させていて、それも提示した。そして、巧みな弁舌をぶったものだ。
どうサバ読んでも十代に入ったばかりの少年の話に、初めは子供に対する風情で耳を貸していた夫妻も、終いには二つ返事で承諾の意を表した。
同日の内に今後の連絡方法などを決め、異世界の皇子はかの天才児と別れ、日本に来た。
数ヵ月後、日本の加賀家で栩麗琇那は十一度目の誕生日を迎え、翌年、十二になり、今年、十月末まで石が見つからなければ、十三歳の祝いもこの世界ですることになる……
つむじに、水滴がかかった。
ポストから大して戻らないうちに、雨が降り出してしまった。
このまま諦めて濡れて行くか、浜まで瞬間移動するか。考えたが、第三の選択をした。走り出す。
雨雲は、一気に蓄えを吐き出した。加賀家に帰り着いた栩麗琇那は、息も切れた上にずぶ濡れにもなっていて、散々だった。
玄関を開けると、今しも傘を二本持って出ようとしていた光乃が居た。養子がぜいぜい云っている様に、悲鳴のような声で言う。
「シュウ君っ、まぁヤだ、走って来たの!? 大丈夫なの!?」
栩麗琇那は膝に手をついて肩で息をしながら、はい、と何とか答える。
「苦し、けど、だい、じょ、ぶ」
もう、と言いながら、老婦人は栩麗琇那の顔をタオルで拭った。
「いけません、無理しちゃ。これ以上、お養母さんの寿命を縮ませないでちょうだい」
「すみま、せん」
亘が、階段を降りて来た。降られてしまったのか、と苦笑まじりに言う。光乃は顔を向け、あなたからも言ってちょうだい、と言った。
「無茶して走って来たのよ、シュウ君たら」
「ほう。走れるようになったんだなぁ」
老人は、褒めてきた。「大したもんだ」
もう、と養母は口を曲げる。お風呂を沸かしてきますっ、と光乃は浴室へ行ってしまった。栩麗琇那は濡れた足を拭ってから、家に上がる。
結界が無ければ呼吸もできなかった皇子も、今では汚れた大気に慣れてきていた。
生まれ持ったルウの民の強靭な肉体で、今年に入った頃から、全く結界を張らず生活できるまでになった。慣れた弾みで多少活発な運動をすると、体がついて来れず、たちまち息が乱れたが。
「学校では、体育っていう運動の授業がある」
栩麗琇那と並んで洗面所へ足を向けながら、亘は言った。「その時間には、自分の体調をよく考えておきなさい。周りにつられて同じペースで動いたら、今のお前ではきっともたない」
「気をつけます」
素直に栩麗琇那は頷く。養父は、養子が転がり込んできた年に、小学校の教師を退職していた。四月から行くのは中学校だが、言に従っておいて損はない。
洗面所を出ると、浴室の方から光乃がやって来た。十五分もすれば入れますからね、と言ったが、付け足す。
「十五分してもドキドキが速かったら、入るのは待ってね? ちゃんといつも通りになってからお入りなさい。それまでに風邪ひいちゃうといけないから、あったかい物でも飲みましょう」
光乃は、結婚するまで看護師をしていたのだそうだ。この手合いの話も、従うべきだった。
栩麗琇那は、養母にも頷いた。