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十の月初旬、大陸は残暑が薄らいでいた。
私室で医術書を読んでいた蒼杜は、頁をめくりながら、つと目を上げた。
窓の外はいい天気だ。青空に、鱗雲が横たわっている。十二の月の医事者試験に向けて慌ただしくしている間に、季節は着実に変わろうとしていた。
ふた月前となる八の月一日、日暮れ後も数時間、蒼杜はヴィンラ・サリルの泉でルウの皇帝の後継者を待っていた。しかし皇子は突然に消えたまま、戻って来なかった。
どうしたものかと思っていたら、五年前からアリク邸に居座っている氷の精霊女王が、家人が心配しておるぞ、と告げに来た。
蒼杜が事情を話すと、精霊は柳眉を寄せた。
《就任式とやらでバタバタして、うっかりしているのやもな。吾がメイフェスまで行って来てやろう。ともかく、そなたは戻れ》
他にどうしようもなく、蒼杜は彼女に従うことにした。
結果的には、それが最短で最良の道だった。
メイフェス・コートのラル宮殿では、跡継ぎの皇子が就任式の刻限になっても戻らない為、狼狽していたのだ。
精霊女王のもたらした一報で、翌日、ルウの民がアリク邸に駆けつけて来た。
ラル家をまとめている六老の長でバイリンという女性と、皇子の側役だというタイサなる男性。
蒼杜は養父の侶杜と共に二人を問題の泉まで案内し、再び状況を伝えた。
クリシュウナ様は他人の物を断りも無く持ち去る御方ではない、と真っ先にタイサが力説した。蒼杜も、短い会話しか交わさなかったが、そんな気がしていた。
しかし、そんなことを論じていても始まらなかった。大君にお話ししてくるとバイリンが言い、残りの三人はその場で待った。
待ちながら、養父の守護精霊が辺りを飛んでいるのを見ていたら、蒼杜はある〝昔話〟の情景が重なった。
『養父様、この泉は、母様が故郷の世界に帰って行った泉では』
侶杜は、はっとしたように目線を投げた。
『そうだ! フローラが消えたのはここだ』
畔を示し、侶杜は言った。『そなたの母様も、わたしに言われるままに子の清めをしようとして、出し抜けに消えてしまった』
タイサが、青ざめた。
『まさか、まさか、クリシュウナ様……』
蒼杜も、自分の思いつきに血の気が引いてきた。養父の傍に控えた風の精霊王を見やる。
『カリス、あの首飾り、母様が初めて来た時の丘に落ちていたって言いましたよね』
《うむ。どうやらフローラが元の世界に戻ったらしいということに落ち着いて、すぐじゃ。覚えがあったので、拾ってきた。フローラも居ないかと捜したが、あれだけだったな》
蒼杜は黙然と頷く。養父はそれを、母が蒼杜の為に贈ってくれたのだろうと言った。どうして本人が会いに来てくれないのかと蒼杜は淋しい思いに駆られたが、首飾りを粗末にすることもできなかった。むしろ、大事に大事にしていたのだ。
『あの首飾りに、何かからくりがあったと言うのか』
侶杜が豊かな顎鬚を撫でて問うた。蒼杜は、小首を傾げた。
『仕掛があったとは思いません。ですが、あれは瞬間移動の時に言霊と術力で闇空間を開くのに似た、鍵だったとは考えられないでしょうか』
『ふぅむ。確かに、フローラは何も解らずに来てしまったようだった……偶然、鍵になる物を身に着けていたから来てしまったわけか……?』
『皇子も、何も知らずに異界へ!?』
タイサが震える声で言う。蒼杜は罪悪感をいだいた。自分がうっかり首飾りを落としたのが、そもそもの発端である。
侶杜が、タイサを見た。
『貴殿は、異界の民がこの世界に来たことがあるのを御存知か?』
『恐らく、わたしの年代以上の眷属は、皆知っている』
『されば細かなことは申し上げぬが、かの民は、部屋に風が吹き込み、隅に落ちてしまった栞を拾おうとしたらここに来てしまったと言っていた。皇子も同じように、かの民の住まう部屋の隅に行けば、戻って来られるのではなかろうか』
蒼杜もそう思った。が、懸念がある。
母は戻って行った時、何処へ現れただろう。
行きと帰りに出るのが同じ場所とは限らない。母が現れたという丘とこの泉とは、直線距離にしてもかなり離れている。向こうの世界でもそうだとしたら、何も知らないクリシュウナが、母の部屋にどうやって辿り着けるだろうか……
やがて老長が戻って来た。浮上した仮説をタイサが話すと、バイリンも真っ青になった。そして、委細あい解りました、と蒼杜達に告げると、今一度大君に御説明する、とルウの民二人はその場から消えた。
翌日もクリシュウナ少年は帰って来ず、失踪から三日目、驚愕の事実が発覚した。
異界が、とてつもなく過酷な環境だという事。皇子はその環境下で生存し、帰還を試みているらしい事。
風の丘に、凄まじい邪気が出現したのだ。
目撃した風の精霊王によると、それは、禍々しい黄金の輝きに伴われてわき起こったという。輝きは術力と思われ、真っ直ぐ東へ消えた。後には、邪悪な気が残された。周囲の植物の相当数が、萎れたり根腐れを起こしたようだ。
聞いた蒼杜は、幼馴染みの千歳と丘へ行ってみようとした。だが、養父に止められた。ルウのラル家が、立ち入りを禁じる旨を伝えて来たそうだ。
『清めの前に、皇子についての手がかりが無いか探すと言っていた。多分、皇子は帰り道を探して領結界を放ってみたのだろう。事実はそれだけで、他に何かが判るとも思えないが』
その晩、似た内容を千歳の父が口にした。
『手がかりはアル地区に張られた領結界だろう。見事に張り巡らせたようだから、大気に邪気の多い世界でも、アレは何とか生き延びておるらしい。他の情報が寄越せるなら、当人が帰って来る筈だ。丘をうろついて探すだけ、時間の無駄ではないかな』
千歳はルウのサージ大公を父に、大陸人を母にもって生まれた。サージ家は、生粋でない上、術力が殆ど無い彼を受け入れていない。
母御は、彼を産んですぐに亡くなったという。故に侶杜が養育を引き受け、父御は時間の許す時にメイフェス島から会いに来る。
この日も、たまたま都合がついたらしい。
息子の横に並んで座り、大公、枸紗名は、のほほんとした口調で続けた。
『わたしは、六神にそなたの首飾りと同じ物を創っていただくのが良いと思う。で、結界を念入りに張って、クリシュウナを迎えに行く。わたしは遠慮したいが、ラル家の輩なら誰かが名乗りを挙げよう』
『……六神は、母の首飾りを御存知でしょうか』
蒼杜が尋ねると、枸紗名は己が額を叩いた。
『さて。そうだな、そこまで六神の興味が向いていたかは怪しいな。しかし、六神が御存知なければ、他に方策があるかな』
『わたしが可能性を見いだしたのも、それだけです』
『ほう。ユタ・カーの申し子と同じか。では、かの神も思いつくだろう。使い神より首飾りが贈られて来なければ、我等が案の結果は自ずと知れるな』
蒼杜は目を伏せ気味にして、言った。
『アル地区には夜半に領結界が張られたのでしょう? 半日以上経った今もクリシュウナが戻って来ないのは……どうして……』
『解っておろうに』
枸紗名は、ゆっくりと言った。『あ奴、事もあろうにそなたの首飾りを失くしたのだ。でなければ、あちらの世界が気に入ったか。随分と刺激的なようだからな、あっちは』
『父さん、冗談が過ぎます』
黙って聞いていた千歳がぴしゃりと言った。すまん、と素直に大公は頭を下げる。彼はサージ家の当主なのに、息子の前だと威厳が皆無になる。
大公は、帰り際に言った。
『蒼杜、全ては運命神の謀。そなたが気に病むことではない。母御の首飾りも戻ってくる。ルウの民は、そういう点だけは堅い。クリシュウナも、うやむやにはしまい。どんと構えておれ』
半月後、ルウの大君が床に臥せっていると、氷の精霊女王から伝え聞いた。
彼の初孫は戻らず、その直前には一人息子に先立たれている。精神的に参ってしまったのだろう。臥せってから僅か二週間後、八の月が終わる頃、神に世界を託された民族の長は没した。
跡を継いだのは、分家の当主となった。かのサージ大公である。
事情を淡々と話し、大君となった彼は息子に告げた。
『そなたは大君の皇子となったが、それ以前に父の子だ。父は父の道を、千歳は千歳の道を行くに変わりは無い』
蒼杜よりたった一つ年上なだけだったが、千歳は潔く顎を引いた。例え眷属から顧みられなくとも、彼は立派に、誇り高きルウの民だった。
それは、異世界に行ってしまった、もう一人の皇子も……
蒼杜は医術書を閉じ、席を立った。
窓辺から、空を見る。
あの日のように、クリシュウナはふわりふわりと横切ってはくれない。
領結界を放って異世界の状況をこの世に知らしめた後、ラル家の皇子はどうしているのだろう。
創世を成し得た六神も、異世界細工の複製は創れなかったようだ。
大君の話では、討議した結果、主家であるラル家の強い希望で、ルウの民は皇子の帰還まで新帝を仰がないこととなったそうだ。
大陸の国ならば跡目争いが起きそうなものだが、術力至上主義のルウの民は、その手の争いとは無縁のようだ。ラル家には、領結界を一人で張れる者が、もはや皇子しか居ない所為もあるらしい。
クリシュウナの張った領結界は綻び始めている。アル地区の新たな結界は、皇子が戻るまで、ラル家総出で必死に張っていくつもりらしい。
驚異的な邪気のはびこる世界で、少年がどれだけ生き長らえるものか怪しかったが……




