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鉄線の花(クレマチス)

自衛隊統合幕僚監部地下指揮所――「市ヶ谷の深淵」。



「……月軌道通過のUnknown前衛艦隊、依然として秒速二十八キロメートルを維持! 地球到達まで残り約三時間四十分……!」



オペレーターの絶叫が響く中、メインスクリーンには絶望的なまでの光の粒が、雪崩のように地球へと押し寄せるシミュレーションが投影されていた。


統合幕僚長・山田陸将は、コンソールの縁を白くなるほど握りしめていた。



「……全ミサイル防衛システム(BMD)、火器管制をイージス艦および陸上ベースに一任。迎撃開始ラインは、奴らが高度一千キロメートルを切った瞬間だ。一発でもいい、人類の意思を示せ」



だが、山田のその決意は、物理学という名の絶対的な壁によって嘲笑されることになる……。



「――っ!? 異常発生! 前衛部隊、および後続艦隊全数、光源の発生と共にレーダーロスト!!」


「馬鹿な、ジャミングか!?」



ハリス中将が身を乗り出す。



「いえ、電磁干渉ではありません! 光学観測、重力波センサー、全システムから……奴らの反応が消えました! 物理的に、そこに『存在』していません!!」


「ロストだと!? 十万隻もの質量が、宇宙から一瞬で消えたというのか!」



指揮所内に、これまでとは質の違う、冷たく鋭い恐怖が走った。


最新鋭のフェーズドアレイレーダーも、米軍の深宇宙監視ネットワークも、広大な宇宙空間のどこにもUnknownの影を捉えられない。



「……隠れステルスか? いや、そんな規模ではない……」



その時、JAXAから派遣された科学担当官が、震える声でマイクを奪った。



「……これは……非連続的な空間移動なのかもしれません。フィクションの世界でしか語られなかった概念……『超空間跳躍ワープ』が行われた可能性があります!!」


「ワープ……だと?」


「緊急入電! 北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)より! 北米大陸上空、高度一千キロメートルに、突如として約一万の未確認反応が出現! ――っ、ロンドン上空、パリ上空、モスクワ上空にも同様の反応! これは………まさか………間違いないっ!……各地点に、正確に一万隻ずつの部隊が『ワープアウト』していますッ!!」


「なんだと……っ!!」



指揮所の壁一面を埋め尽くすサブモニター群に、世界各地からの絶望が映し出された。


衛星画像が捉えたのは、真空から「光の粒子」が溢れ出し、そこから鋼鉄の巨躯が暴力的に押し出されてくる異様な光景だった。


ワープインの際には、各艦艇が超高エネルギーの光の繭に包まれ、星が爆発したかのような閃光を放つ。そしてワープアウトの瞬間、空間そのものが産声を上げるかのように歪み、光の霧の中から漆黒の戦艦群が姿を現したのだ。



「アフリカ上空に一万! 東南アジア上空に一万! ……奴ら、地球を完全に『包囲』するつもりかっ……!」



人類の軍事ドクトリンにおいて、これほどの規模での同時・多点・瞬時展開など、想定すらされていなかった。


世界中の軍隊が、自分たちの頭上に突如として現れた「死神」を前にして、銃口を向けることさえ忘れて硬直していた。


そして。



「――市ヶ谷周辺、および極東全域の重力波センサー、最大出力を検知!!」



その瞬間、司令所の空気が重くねじれ、床全体が内側から押し上げられるような低周波の圧迫波が一斉に伝播した。骨の髄まで響く鈍い震動が、まるで巨大な心臓の鼓動が地下深くで直接鳴り響いているかのように、全員の体を内側から締め付けた。


壁面の金属パネルが微かに軋み、コンソールのディスプレイに一瞬、虹色の干渉縞が走る。


指揮所の照明が激しく点滅し、電子機器が悲鳴のようなノイズを発した。アラートがけたたましく鳴り響く。



「……来るぞ!!」



山田の叫びと共に、メインスクリーンが真っ白な閃光に包まれた。


日本の真上、高度一千キロメートル――外気圏の境界線。


漆黒の空が、同心円状の幾何学的な光の紋章によって切り裂かれた。


そこから、空間を押し広げるようにして、一隻の「巨大な影」が滑り出してきた。



「旗艦……ワープアウト確認!!」



光の霧が晴れると同時に、その姿が顕になった……。



直径五キロメートル。



都市一つをまるごと飲み込むほどの質量が、慣性を完全に無視し、出現と同時にピタリと静止していた。


それに続くように、周囲にはさらに一万隻の護衛艦隊が、ボンッボンッ…と、まるで星系を形成するように整然と並び、光の中から飛び出してきた。



「…高度一千キロメートル……外気圏境界に定着。速度ゼロ。……信じられません、マッハ二十八から、ミリ単位の誤差もなく静止機動を行いました」



オペレーターの声は、もはや恐怖を通り越し、虚脱感に満ちていた。



メインスクリーンには、旗艦『ペルセフォネ・デルタ』の表面が、驚異的な解像度で映し出されている。


漆黒の装甲を走る青緑色の発光ライン。


そして、その中央に誇らしげに刻まれた、あの紋章。



「……紋章を拡大しろ」



山田陸将の指示で、画面がズームされる。


それは、地球の「クレマチス」、あるいは日本の家紋である「鉄線てっせん」に酷似した、繊細で美しい花の意匠だった。



「鉄線の花……。花言葉は『高潔』、そして『旅人の喜び』。……皮肉なものだ。これほどの軍勢を率いておきながら、高潔さを謳うというのか」



その時、サイバー防衛隊のセクションが悲鳴を上げた。



「侵入検知! 防衛省、JAXA、さらには民間のインターネット・バックボーン全体に、旗艦からの超広帯域アクセスを確認! セキュリティ・レイヤーが……一秒間に数万層の速度で突破されています!」


「ついに攻撃が始まったか!」



ハリス中将が叫ぶ。だが、解析を担当する三等海佐は首を振った。



「違います! 破壊活動ではありません! 奴ら、ありとあらゆるデータを『複製コピー』しています! ――っ、これは!? 国立国会図書館の蔵書データ、テレビ局のアーカイブ、YouTubeの全動画、SNSの全投稿、そして……膨大な量の『音楽サブスクリプションの全楽曲』データです!」


「……情報の略奪、だと?」



山田が呆然とする。



「奴ら、我々の文明を、その根底から喰らい尽くそうとしているのか……?」



人類の英知の全てを数分で吸い上げるという、圧倒的なまでの文明格差……。









……彼らがその情報を「観光ガイドブック」や「プレイリスト」として楽しんでいるなどという可能性は、市ヶ谷の誰一人として脳裏にも浮かばなかった……。

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