生存の条件
ペンシルベニア州レイブン・ロック山複合体――通称「サイトR」。
花崗岩の山をくり抜いて作られたこの巨大な地下要塞は、ホワイトハウスやペンタゴンが機能を停止した際、合衆国政府を継続させるための「最後の審判の日」の揺りかごである。
厚さ数メートルの防爆扉の向こう側、数千人のスタッフが慌ただしく行き交う地下都市の深部、大統領緊急作戦センター(PEOC)の分室では、合衆国大統領が凍りついたような表情でメインスクリーンを凝視していた。
「……ありえない。物理学的に、説明がつかない」
大統領の傍らに立つ大統領科学顧問が、震える声で呟いた…。
モニターには、北米大陸上空、高度一千キロメートルの外気圏に突如として「出現」した一万隻の影が、光学迷彩を解いていく様子が映し出されていた。レーダーの反射波は消失したままだが、光学観測班は確かにその存在を捉えている。
「ワープ……超空間跳躍というやつか」
大統領の声は低く、枯れていた。
「奴らは、月軌道から一瞬で我々の頭上を包囲した。迎撃する暇さえ与えず、チェックメイトを突きつけてきたというわけか…」
その時、通信士官が絶叫した。
「大統領! 全周波数帯域、および衛星通信回線に強制介入! デジタル署名は……判別不能! 全地球に向けて、音声および映像信号が配信されています!…unknown旗艦を名乗る者からコンタクトを求める通信が入っています!」
「なんだとっ!?」
「大統領…いかがなさいますか?」
「…分かった、出よう。繋ぎ給え。」
スクリーンのノイズが晴れ、一つの映像が映し出された。
それは、地球のいかなるスタジオでも再現不可能な、荘厳で重厚な空間――超弩級旗艦『ペルセフォネ・デルタ』の艦橋であった。
中央の指揮座に座するのは、漆黒の礼装に身を包んだ一人の男。
深い刻まれた皺と、鋼のような眼差し。高潔さと厳格さを兼ね備えた武人――ゼノ提督である。
『始めまして。アメリカ合衆国大統領殿――そして、地球人類の指導者たちへ、ノースライビア帝国宇宙軍・第四艦隊提督ゼノが告ぐ』
その日本語、英語、ロシア語、中国語が完璧な同時通訳となって、世界中のスピーカーから流れ出した。
『我々の到来は、侵略を目的としたものではない。我々は、偉大なる皇帝陛下の勅命により、この星が育んだ豊かな旋律――「文化」を調査・享受するために、数万光年の彼方より巡礼に訪れたものである』
サイトRの指揮所内に、困惑と猜疑心が渦巻いた。
「奴等は絶対君主制か…『文化を享受する』だと……? 十万隻の宇宙戦艦を引き連れてか!?」
大統領の隣で、統合参謀本部議長が吐き捨てるように言った。
「これは陽動だ。我々の戦意を削ぎ、無防備な状態で降伏を迫るための、悪質な心理戦に過ぎん」
だが、画面の中のゼノ提督は、その疑念を見透かしたかのように、静かに言葉を続けた。
『我々の要求は唯一。我が第四艦隊の代表者らに対し、この星の旋律を拝聴するに相応しき『典礼の場』を提供せよ。交渉の窓口は合衆国政府、および国連安全保障理事会に一本化する。……我々は無益な殺生を望まぬ。だが、我が将兵らの『期待』を裏切る振る舞いは、帝国への明白な敵対行為と見なし、全艦隊をもって断固たる処置を執る。――尚、諸君らが現在目にしている陣容は、我がノースライビア帝国宇宙軍における一個艦隊に過ぎぬことを、慈悲として付け加えておこう』
「……あれで一個艦隊!? 冗談だろう!? …地球上の全核弾頭を一度に叩き込んだとしても、前衛の数パーセントを削れるかどうか……。あの絶望的な規模の軍勢が、彼らにとっての『最小単位』だと言うのか?」
「我々は今まで、何を根拠にこの星の覇権を争っていたんだ……。十万隻がたった一個艦隊なら、本国には数百万の戦艦が控えている計算になる。……大統領、これはもはや外交ですらない。我々はただ、神の気まぐれに付き合わされているだけだ」
「計算が……どうしても合いません。それほどの艦隊を維持し、銀河を横断させる資源量とエネルギー……。彼らの帝国にとって、地球という一惑星の質量など、艦一隻の燃料にすら満たない可能性がある。我々はアリの巣ですらなく、ただの『微生物』として認識されているに過ぎないのではないか……」
「……もはや、迎撃ミサイルの射程がどうとか、迎撃率が何パーセントかなどという次元の話ではない。……大統領、我々に残された唯一の国防手段は、彼らの望む『音楽』とやらを、死ぬ気で用意すること。それだけです」
閣僚達が厳しい表情で大統領に注目する。大統領は大きく息を吸い込み、口を開いた。
「一個艦隊、か……。奴らがもし『観光』ではなく『征服』を選んでいたら、この通信が終わる前に人類の歴史は完結していただろうな……」
大統領はマイクを握りしめた。
「……提督。貴公の言っていることが真実だとしても、十万隻の戦艦を頭上に展開したまま、平和的な『音楽会』が開催できると本気で思っているのか?」
ゼノ提督は、冷徹なまでに落ち着いた表情で答えた。
『これこそが、我々の礼儀である。我々軍人にとって、最高礼装を纏い、全火力を背景にして臨むことこそが、相手への最大の敬意なのだ。――時に、合衆国大統領。貴殿らの首都ワシントンD.C.上空において、我が帝国の小型艇に対し、貴軍の防空システムが火器を用いた事例があったな。諸君らが『ワシントンUFO撃墜事件』と呼称している一件だ』
大統領の背筋に、嫌な汗が伝う。あの時、正体不明の飛行物体に対し、空軍は最新鋭の空対空ミサイルを惜しみなく叩き込み、「撃墜」を公表していた。
「……その件が、どうしたというのだ。我々は領空侵犯に対する正当な防衛権を行使したまでだ」
「防衛、か。……よろしい。だが、これだけは伝えておかねばならん。あの日、諸君らが『撃墜した』と信じ、その残骸を必死に捜索していたあの艇に乗られていたのは……我がノースライビア帝国の第三皇女殿下であらせられたのだ」
その瞬間、大統領の顔から、みるみるうちに血の気が引いていき、隣に立つ閣僚たちも石像のように硬直する…。
「……皇女? 偵察機に乗っていたのが、帝国の、王族だと……?」
「嘘だ……。そんな……我々は、偵察機を撃ったつもりだった。まさか、銀河を統べる帝国の皇女を、直接……殺そうとしたというのか……?」
「……待て、もし殿下がその時……もし万が一のことがあれば、我々は……」
『左様。もし殿下の御身に万一のことがあれば、この通信が交わされるより前に、貴殿らの母星は銀河の塵へと帰していたであろう。幸いにして殿下は無事であらせられ、現在は貴殿らの文明を慈悲深き眼差しで観察しておられる。私がこうして言葉を選び、貴殿らに『音楽』という平和的な解決の端緒を提示しているのは、すべて殿下の広大無辺なる慈悲によるものだ。殿下はこの一件に関し、米国政府の責を一切問わぬと仰せである。それどころか、迎撃任務に就いた兵士たちの献身的な行動を、軍人としての本分を全うしたものであると称賛しておられた。……その寛大なる御心に、跪いて感謝するがよい』
ゼノ提督の最後の一言が、冷たく、重く、サイトRの隔壁を震わせた。
大統領は掠れた喉を震わせ、マイクを握りしめる…。
「……提督。……まずは、皇女殿下の御無事を、心より、安堵……感謝申し上げる。我が国、いや全人類を代表し、殿下の寛大なる御心に深く礼を言いたい。……我々は、貴公らの提示した『解決案』を全面受諾する」
ゼノ提督は、表情一つ変えず、ただ僅かに顎を引いた。
『よろしい。典礼の場は、我が旗艦『ペルセフォネ・デルタ』内に用意する。地球側は会場の準備に奔走する必要はない。諸君らがなすべきは、我が第四艦隊五千万人の魂を震わせる、この星の最高の『旋律』を選定し、磨き上げることだ』
「ご、五千万人だとっ!?」
「そんなに乗組員がいるのか…もはや『国』だ…」
閣僚達のざわめき…大統領が口を開く。
「……わかった。準備には一定の時間を要するだろう」
『構わん。準備が整い次第、我々に連絡せよ。我々の輸送艇が迎えに上がる。……これより、我が旗艦は必要な数の護衛艦と共に、貴殿らが『日本』と呼ぶ島国の、太平洋側公海上に降下し、待機する。着水はせぬ。高度一千メートルを維持し、貴殿らの出方を静かに見守らせてもらう。尚、他の艦艇は全て月まで後退させよう。地上が騒がしいのでな…』
「了解した。……ご配慮に感謝する。平和への端緒にならんことを」
『――期待しているぞ、地球人類よ』
ゼノ提督の冷徹な映像がノイズと共に消失し、メインスクリーンには再び、外気圏を覆い尽くす十万隻の赤い警告点が映し出された。
数秒の沈黙の後、サイトRの指揮所は爆発したような喧騒に包まれました。
「総理に繋げ! 日本の総理大臣だ!」
大統領が、椅子を蹴るように立ち上がり、叫びました。
「国務長官、直ちに国連安保理を招集。全加盟国に、これは『戦争』ではなく『国賓の招致』であると通達せよ。国防長官! 日本の太平洋沖、ペルセフォネ・デルタが降下する海域の半径三百マイルを完全封鎖。だが、絶対に武器を向けるな。自衛隊にも、米軍にもだ。空母一隻、イージス艦一隻近づけるな! 奴らの視界に入るのは、青い海と空だけでいい!」
「大統領、しかし世界最高の楽団をかき集めるとしても、時間が……」
「時間は奴らが『構わん』と言った! だが、質は妥協できん。ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、世界中のマエストロに大統領命令で召集をかけろ。軍の輸送機を回せ。これは外交でも芸術でもない、地球の『生存』を賭けた典礼だ!」
「科学顧問! 奴らの旗艦内部の環境データを予測しろ。我々の楽器が正しく鳴る気圧か、温度か、酸素濃度か。奴らにこちらの生命維持の基準を伝えろ。一人でも奏者が倒れたら、それが宣戦布告の合図になりかねん!」
嵐のような指示が飛び交う中、サイトRのスタッフたちは、死の淵から生還した生存者のような熱量で動き始めた。
一通りの指示を終え、大統領は独り、重い防爆扉のそばにある小さな窓のない小部屋へ入り、ネクタイを緩めて椅子に深く腰掛ける。
「……皇女、か」
彼は、震える手で顔を覆った。
「我々が『撃墜した』と自慢していたものは、銀河帝国の逆鱗そのものだったわけだ。……もし、あの皇女が我々を『称賛』していなかったら。もし彼女がほんの少しでも報復を望んでいたら……今頃、私はこの椅子に座って後悔する暇さえなかっただろう」
壁に貼られた、ワシントン上空の「UFO」の不鮮明な写真を見上げた。
「一発のミサイルで、人類の何百万年もの進化の歴史を終わらせる。……そんなことが可能な存在が、現実に空を埋めている。……そして奴らは、核でも金でもなく、音楽を求めているという。……あまりにも、馬鹿げた救済だ」
大統領は、天井の向こう、岩盤層よりも更に数千キロの先にある「鋼鉄の影」を思いだす。
「……さあ、最高の調べを用意してくれ。……世界中の音楽家諸君。人類がこの宇宙で生きる価値があることを、奴らの耳に……いや、あの慈悲深き皇女殿下の心に、証明してくれ」
大統領の独り言は、換気扇の低い唸りにかき消され、サイトRの深淵へと沈んでいった…。




