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ムーン・ブレイク

自衛隊統合幕僚監部地下指揮所――通称「市ヶ谷の深淵」。


地上から数十メートルの岩盤と、数層に及ぶ電磁シールド、核攻撃にも耐えうる強化コンクリートに守られたその空間は、人類の英知と恐怖が凝縮された閉鎖世界であった。


青白いLEDの光が、機能美を極めたコンソールの表面に鋭い反射を描き、無数の光ファイバーが神経系のように壁面を這っている。室内を支配するのは、超高性能サーバーが発する微かな排熱の唸りと、数百度の高温に達するであろうオペレーターたちの緊張が混じり合った、独特の「焦げた」空気だった。


中央に据えられた幅十五メートルに及ぶ大型高精細ディスプレイ(DLPマルチプロジェクション・システム)には、今、静止軌道上の監視衛星およびJAXAの月周回探査機が捉えた、極めて精緻な月面図が映し出されていた。


だが、その平穏なクレーターの影から、人類の既存の物理学を蹂躙する「現象」が溢れ出そうとしていた。


左翼のVIP席には、統合幕僚長・山田陸将を筆頭に、防衛省の背広組トップ、そして内閣府から派遣された危機管理参事官たちが、彫像のように固まって座っている。


右翼には、在日米軍司令部(USFJ)および米宇宙軍(USSF)から緊急派遣された連絡官たちが、ノートPCを広げ、本国アメリカのペンタゴン、そしてコロラド州シャイアン・マウンテンのNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)とリアルタイムでデータを同期させていた。



「……静かすぎるな」



統合幕僚長・山田陸将が、嗄れた声で呟いた。その瞳には、幾千ものシミュレーション結果が絶望的な火花となって散っている。


彼の隣で腕を組むジェームズ・ハリス中将――米太平洋艦隊副司令官――は、かつての中東戦線で培った野性の嗅覚で、宇宙空間に漂う「巨大な質量」の存在を嗅ぎ取っていた。



「山田将軍。データは嘘をつかない。……来るぞ」



その言葉が終わるか終わらないかのうちに、作戦室の静寂は電子の咆哮によって引き裂かれた。



「――JAXA、美笹深宇宙探査用地上局より緊急信号! 月軌道L1ポイント付近において、空間歪曲を伴う高エネルギー反応を確認! 移動物体、秒速二十八キロメートルを超過! ホーマン軌道を完全に無視した直線加速です!」



最前列のコンソールで、航空自衛隊の若き曹長が、まるで断末魔のような声を張り上げた。


メインスクリーンの月面図が、瞬時に赤黒い重力異常マップへと切り替わる。



「重力センサー出力、レッドゾーンを突破! 質量推定……計算不可能です! 複数の超巨大構造物が、月の影から出現します!」


「光学観測、映像来ます! フィルタリング、ノイズ除去……スクリーンに固定フィックス!」



次の瞬間、巨大スクリーンに映し出されたのは、悪夢を具現化したような光景だった。


月のなだらかな稜線を、漆黒の刃のようなシルエットが塗りつぶしていく。一つ、また一つ。それは星の瞬きを奪い、漆黒の真空を鋼鉄の色へと塗り替えていく。



「……なんてことだ」



米軍将校の誰かが、祈るように十字を切った。



「規模を報告せよ! 直ちにだ!」



山田陸将の怒号が響く。だが、報告に立った国立天文台の観測責任者の声は、すでに正気を保つのが精一杯という惨状だった。



「……『規模』などという言葉は無意味です! 陸将、メインモニターをご覧ください! 艦隊の密度が、星間物質の密度を超えています! 観測視野内の七分が艦隊、宇宙そらは残り三分しかありません! まさに、艦隊が七分に宇宙が三分……! 全天を埋め尽くす艦隊の雪崩です!!」



スクリーンが拡大される。


光学望遠鏡が捉えたその姿は、人類の想像力を遥かに凌駕していた。


前衛部隊だけで数千隻。それらが一糸乱れぬ幾何学的な陣形を組み、月の重力圏をまるで存在しないかのように滑り降りてくる。


追跡レーダーのロックオン・ビープ音が、もはや一つの連続した不協和音となって指揮所内に鳴り響いた。



「イージス・システム、演算オーバーフロー! 目標数が多すぎて、火器管制コンピュータが処理を放棄し始めました!」


「在日米軍横田基地、AN/TPY-2レーダー、全出力でスキャン中! しかし、電磁的な干渉ジャミングではなく、単なる『質量の壁』によって電波が遮断されています!」


「ハワイ、深宇宙監視ネットワークより緊急連絡! 月背面にさらに数万の反応! 予備の予備まで含め、総計十万隻を突破……! これは艦隊ではない、移動する『惑星』です!」



最小で1000m級の艦艇が十万……。


その絶望的な数字が、指揮所内の空気を液体のような重苦しさに変えた。


ハリス中将の顔面は蒼白となり、握りしめた拳が小刻みに震えている。世界最強の軍隊を自負する彼らでさえ、この絶対的な「物量」の前では、弓矢で戦車に挑む原始人のような無力感に苛まれていた。

 


「……総員!」



山田陸将が、低い、しかし全細胞に届くような声で呟いた。



「宇宙危機最終防衛第一種決戦態勢……発令!!」



その瞬間、指揮所は機能的な戦場へと変貌した。



決戦態勢デシシブ・バトル・ステータス」のコードが入力されると同時に、壁面の警告灯が鮮烈な深紅に切り替わり、日本全土の自衛隊基地、そして在日米軍基地へと、超光速の緊急回線が走った。



「全自衛隊、および在日米軍! 直ちに戦闘配置! これは演習ではない、繰り返す、これは演習ではない!!」


「航空自衛隊、F-35A、F-15J、全機スクランブル! 領空境界線および大気圏境界までの迎撃高度を維持せよ!」


「海上自衛隊、全護衛艦、潜水艦、即時出港! 各艦、IAMD(統合防空ミサイル防衛)モードへ移行、PAC-3、SM-3の全弾発射準備!」


「陸上自衛隊、ミサイル部隊、高射特科、全国の沿岸部に緊急展開! 各レーダーサイトは目標情報を共有、飽和攻撃に備えよ!」


米軍側からも、怒号のような命令が飛ぶ。



「All units, Condition One! Battle stations! This is it!」


「NORAD、シャイアン・マウンテンへ直通! 核の認証コードをスタンバイさせろ!」



指揮所内は、怒号とキーボードを叩く音、そして凄まじい熱気で満たされた。誰もが、これが人生の最後の一戦になるかもしれないという予感に突き動かされていた。


そんな中、メインスクリーンの中心に、一つの「巨影」がクローズアップされた。


月の光を背負い、神々しいまでの威容を持って現れた、その艦隊の頂点。



「旗艦級を確認……! 直径、五千二百メートル……! デス・スターか何かか……!?」


「天文衛星の映像、メインモニターに回せっ!」


「モニター切り替えます!」


「…これは…なんだ?」



オペレーターが震える指で指示したモニターには、漆黒の円盤型巨艦――『ペルセフォネ・デルタ』が映し出されていた。


その船体表面には、既存のどの文明とも異なる、青緑色の光ファイバーのような繊細な幾何学模様が走っている。そして、艦中央部の装甲には、巨大な紋章と英語表記の文字が刻まれていた。



「ペルセフォネ…デルタ?……あの模様は……花……?」



山田陸将が眼を細める。


それは、地球の植物で言えば「クレマチス」に似た、気高くも美しい花の意匠だった。冷たく硬質な鋼鉄の艦体に刻まれた、あまりにも場違いな芸術的意匠。


だが、その「美しさ」こそが、人類にとっては理解不能な恐怖を増幅させた。



「なぜ英語表記なのだ?…クレマチス…これは一体?…美しき死神か。あるいは……」



山田はマイクを握りしめた。


その時、JAXAの高度解析班から新たな報告が入る。


「報告! 旗艦より、指向性の極めて高い電磁波放射を確認! 通信試行か……いえ、違います! これは、地球の電波放送波を……広帯域で『受信・解析』している形跡があります!」


「解析だと? 奴ら、何を調べている?」


「判別中……データ、来ます! 受信対象は……地上デジタル放送、衛星放送、インターネット動画配信サイト……。特に、特定の音楽コンテンツへのアクセスが集中しています!」


「音楽……?」



山田陸将とハリス中将が顔を見合わせた。


十万隻の艦隊が月軌道を突破し、地球滅亡のカウントダウンが始まっているこの瞬間に、奴らは「音楽」を聴いているというのか。



「……奴ら、戦う前に歌でも歌って我々の文化を嘲笑おうというのか?」



ハリス中将が苦々しく吐き捨てた。


だが、山田の脳裏には、全く別の、あまりにも馬鹿げた、しかし否定しきれない予感が過った。



「……いや、ハリス司令。もし……もし彼らが、音楽を『武器』ではなく、別の目的で求めているとしたら?」


「山田将軍、冗談はよせ! 相手は十万隻の軍勢だぞ!」



メインスクリーンでは、さらなる後続部隊が月軌道を突破し、地球と月の間の空間を完全に埋め尽くそうとしていた。


漆黒の宇宙が、もはや見えない。


視界を支配するのは、数光年を旅してきた異星の金属。そして、それらが放つ、冷たく、しかし何らかの「情熱」を孕んだ光。



総員、宇宙危機最終防衛第一種決戦態勢。



地球人類が、その全歴史を懸けて挑む「最後にして最大の戦い」になるかもしれない幕が、今、静かに、そして暴力的な速度で上がろうとしていたのだ。


地下指揮所の奥深く、山田陸将の額から一滴の汗が落ち、コンソールの上で弾けた。


その振動さえもが、これからの地球の運命を左右するかのような、極限の緊張感。



「全砲門、待機。……まだ撃つな。総理の最終決断が下るまで、絶対に先制攻撃を許可しない」



山田の声が、地下の静寂に沈んでいく。


外の空では、すでにF-35のエンジン音が、迫り来る「巨影」を迎え撃つために咆哮を上げていた。


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