ペルセフォネ・デルタの静かなる熱狂
太陽系外縁部を遥かに離れ、木星軌道と土星軌道の中間付近。冥王星を遥か後方に置き、地球までの行程をすでに三分の一ほど消化した重力静止ポイント…。
漆黒の真空を背景に、十万隻という天文学的な数の巨艦群が、寸分の乱れもなく整然と陣形を保っていた。
ノースライビア帝国宇宙軍・第四艦隊。
その圧倒的な武力は、一惑星の文明など数秒で塵に変えるに等しい。だが、今この瞬間、彼らから放たれているのは、殺伐とした戦意ではなかった。
艦内各所に流れるのは、地球の古典音楽をアレンジした穏やかなBGM。兵士たちの表情には、厳格な軍規の中で抑えきれない、静かな高揚が浮かんでいた。
超弩級旗艦『ペルセフォネ・デルタ』の艦橋は、広大で荘厳だった。
直径数百メートルの半球状空間の中央に、半透明のホログラム戦略テーブルが浮かび、無数の光点がリアルタイムで艦隊の位置と地球までの残距離を示している。壁面一面の大型スクリーンには、青く輝く地球の姿が映し出され、艦橋要員たちは静かに任務に集中していた。
指揮官席に腰を下ろすのは、ノースライビア帝国でも一二を争う武功を誇る名将、ゼノ提督である。
灰色の短髪に、深く刻まれた皺、鉄のような意志を宿した瞳——叩き上げの軍人らしい厳格な佇まいは、映画の名将を彷彿とさせる高潔な威厳に満ちていた。
帝国軍人としての誇りを胸に刻み、次期総司令候補の筆頭と目される男だ。
彼の右側には、副提督ベル・カイゼルが立っていた。長身で銀色の髪を厳しく後ろにまとめ、制服の胸元に帝国の勲章を整然と並べた女性士官。冷静沈着で分析力に優れ、ゼノ提督の右腕として艦隊の運用を支える実務家である。
彼女の表情はいつも通り、感情をほとんど表に出さない。
その時、艦橋中央の大型ホログラム通信装置が淡い光を放った。
「提督、第三皇女オルガ殿下の代理、第四皇女エレナ殿下より緊急連絡です」
ベル・カイゼルが低い声で告げた。
ゼノ提督はゆっくりと目を細め、頷いた。
「繋げろ」
ホログラムが展開され、オルガ皇女の代理であるエレナの姿が浮かび上がった。幼い外見ながら、機械的な無表情と金緑のオッドアイが、彼女が「死の先駆者」と呼ばれる特別な存在であることを物語っていた。エレナは淡々と、しかし正確に用件を伝えた。
「提督。殿下より直々のご指示です。地球到着後の『おもてなし』計画についてです。ひのきヶ丘中学吹奏楽部による親善コンサートを、艦隊全体で鑑賞するよう手配願います。内容はクラシックで格調高く始め、アニソンで情熱を灯し、Jポップで現代の地球を感じさせ、最後は『般若心経』をポップにアレンジした吹奏楽版で締めくくります。……殿下は、これが銀河の提督たちに響く『生きた音』になると確信しておられます」
ゼノ提督は、微動だにせずエレナの言葉を聞いた。
表情は一切変わらない。鉄仮面のような冷静さで、ただ「了解した」と短く答えた。
「殿下のご意向に沿うよう、全軍に徹底せよ。コンサートは公式行事として扱い、礼装を乱す者は即刻処分する。……以上だ」
通信が切れると、艦橋に一瞬の静寂が落ちた。
ベル・カイゼルがわずかに眉を寄せた。
「提督……吹奏楽部のコンサート、ですか? 般若心経とは宗教歌でしょうか?人類の子供の演奏で、十万隻の将兵を満足させると?」
ゼノ提督はゆっくりと立ち上がり、巨大スクリーンに映る地球を正面から見据えた。
その背中は、相変わらず軍人らしい威厳に満ちていた。声も低く、落ち着いている。
「ベル。殿下のご判断に異を唱えるつもりはない。我々の任務は占領ではない。第三皇女オルガ様が滞在されるこの星を、その文化ごと敬意を持って見学することにある。……音楽は宇宙共通の言語だ」
彼はそこで一瞬、言葉を切り、スクリーンに映る青い惑星をじっと見つめた。
内心では——
心臓が、かつてないほど激しく高鳴っていた。
(……般若心経のポップアレンジだと? 中学生の吹奏楽部が……?)
ゼノ提督の脳裏に、帝国でも秘蔵のコレクションである「地球古典音源集」が蘇る。
オルガから地球文化の情報がもたらされた頃から集め続けた、数万曲に及ぶ地球の音楽データ。クラシック、ジャズ、ロック、アニソン、Jポップ……。彼は帝国軍人でありながら、誰も知らない「地球音楽の狂信者」だった。艦隊にまでその音源を配布し、士気を高めていたのは他でもない彼自身だ。
(中学生とやらが奏でる生の音……しかもあの般若心経をポップに…思いもつかなかったぞ…!)
想像しただけで、背筋が震えるほどの興奮が込み上げてきた。
鉄の仮面の下で、ゼノ提督の唇が、わずかに——ほんのわずかに——緩んだ。
「ベル」
彼は副提督に向き直り、声だけは完璧に冷静に続けた。
「全艦に通達せよ。コンサートまでの間、通常航行を厳守。ワープは一切禁止。人類に対応する時間的猶予をあたえると同時に、地球の文化に敬意を払い、ゆっくりと接近する。……兵士たちの期待を、無駄に煽る必要はないが、失望させることも許さん」
ベル・カイゼルは一礼し、即座に指示を飛ばした。
艦橋の要員たちが、静かに、しかし迅速に動き出す。
ゼノ提督は再びスクリーンに向き直った。表情は一切崩さない。
だが、その瞳の奥で、鉄の軍人が初めて見せる、純粋な「歓喜」の炎が、静かに、激しく燃え上がっていた。
(……待っていたぞ、地球よ。
お前たちの生きた音を、この耳で、直接、聞ける日を……)
十万隻の巨艦群は、変わらぬ速度で、青い惑星へと近づき続けていた。
艦橋に、地球の古典音楽が、ほんのわずかに、音量を上げて流れ始めた。
……誰も、それを止める者はなかった。




