オルガ・リピンスキー
月明かりが、ひのきヶ丘の静寂を深く塗りつぶしていた。
かつては風雨に晒されるままの廃屋だった場所には今、周囲の景観から浮き上がるほどに真新しい、洗練された現代建築が佇んでいる。
法務局や市役所に光学迷彩を用いて音もなく侵入し、ホストコンピューターを操作して登記簿から納税記録に至るまでを「完璧に」書き換えたオルガにとって、この家を合法的に所有することは、彼女たちの高度な演算能力と超能力をもってすれば朝飯前の遊戯に過ぎなかった。
リビングのソファに深く腰掛けたオルガは、大型テレビから流れる無意味な深夜番組を眺めつつ、手元のスマートフォンで世界の動向をチェックしていた。液晶の青白い光が、彼女のどこか超然とした横顔を鋭く縁取っている。
その時…空気の密度がわずかに変わった。
気配すらなかった。ただ、そこにあるはずのない「質量」が、オルガの背後の空間に唐突に定義されたのだ。
オルガは視線を画面に落としたまま、振り返ることもなく唇を小さく動かした。
「……ずいぶんと早かったデスネ」
背後に立つ少女——その瞳は、意志の介在しない精密機器のような光を宿していた。その容姿は小学六年生の幼さを保ちながらも、放つオーラは生命体のそれとは決定的に異なっている。
「肯。推定到着時刻を432秒短縮。大気圏突入時の摩擦熱による外装の損耗、許容範囲内。目標『オルガ』の個体識別信号を最短距離で捕捉しました」
彼女の口から漏れる声には、感情の抑揚が一切存在しなかった。それは音声合成ソフトが生成した平坦なパルスに近く、ただ純粋な事実と数値のみを伝達するための記号として響く。
「お姉様という呼称は、現在の秘匿任務遂行において論理的妥当性を欠くと判断。これより通信プロトコルを『個体名:オルガ』へ移行。……第四艦隊、10万隻は太陽系外縁の重力静止ポイントにて待機。フラッグシップ『ペラン・ウラ・サガジス』を含む全戦力、フェーズ1の完了を待機中です」
オルガはスマートフォンの画面を消すと、ようやくゆっくりと背後の妹へ首を向けた。その口元には、冷徹な軍事報告とは対極にある、どこか愉悦に満ちた笑みが浮かんでいる。
「御苦労サマ。予定より少し慌ただしくなりそうデスガ……それでこそワタシの妹、そして『死の先駆者』デス」
夜の静寂の中に、異星の冷たい風が吹き込んだ。それは、地球という惑星の安穏な日常が、不可逆的なカウントダウンを開始した瞬間でもあった……。
ひのきヶ丘の朝は、昨夜の緊迫した空気など露ほども感じさせない、穏やかな陽光に包まれていた。澄んだ空気が、登校路を歩く生徒たちの笑い声と共に揺れている。
鷺ノ宮満里奈は、いつものように指定の制服に身を包み、少し重いスクールバッグを肩にかけながら坂道を登っていた。隣には、もはや日常の風景となった金髪の美少女――オルガが、軽やかな足取りで並んでいる。
「……でさ、昨日テレビでやってたんだけど、最近のコンビニスイーツってレベル高すぎじゃない?」
満里奈は、昨晩地球が直面していた「宇宙規模の脅威」など知る由もなく、実に中学生らしい話題を口にしていた。しかし、隣のオルガはどこか心ここにあらずといった様子で、時折手元のスマートフォンを満足げに眺めては、薄く微笑んでいる。
「聞いてる、オルガ?」
「あ、ハイハイ。聞いてマスヨ、満里奈サン。スイーツデスネ。……ソレヨリ、コレを見てクダサイ。ワタシの昨晩の自信作デス」
オルガはそう言って、歩きながらスマートフォンの画面を満里奈の目の前に突き出した。
そこに映し出されていたのは、一見すると洗練されたアパレルブランドのロゴか、あるいは高度な軍事組織の部隊章のようにも見える、鋭利なデザイン画だった。
暗い背景に浮かび上がるその紋章は、見る者に本能的な畏怖と、美的な陶酔を同時に抱かせる完成度を誇っていた。
「わ……何これ、かっこいい。オルガが描いたの?」
「ハイ。モチーフは『クレマチス』。和名で鉄線花とも言いマスネ。花言葉は『精神の美』、そして『策略』……。美しくも冷徹な、我がノースライビア帝国の軍事的精神を幾何学的なラインへと昇華させ、旗艦の証たる『デルタ』を配しマシタ。ナゼこんなものを作ったか、デスか? ふふフ、記念デスヨ。記念。昨夜、我が第四艦隊・10万隻が、予定通り太陽系外縁の重力静止ポイントに無事入域しマシテ。そのフラッグシップ、旗艦『ペラン・ウラ・サガジス』の名称を変更した、旗艦『ペルセフォネ・デルタ』の制式エンブレムとして、ワタシが直々にアップデートしてあげたのデス。すでに旗艦のAIに送信済みデス。どうデス? この圧倒的な機能美。人類の拙い美的センスを300年は先取りした、歴史的傑作だと思いまセンカ?」
オルガは誇らしげに胸を張り、言葉を継いだ。
「へぇー、入域記念ねぇ。相変わらず凝ってるわね。記念スタンプみたいなもん?」
満里奈は感心したように画面を覗き込み、細部まで描き込まれた線の美しさを指でなぞった。
「そういえば、今日の小テストの範囲、どこだっけ? また数学の因数分解かな。私、あのカッコがいっぱい出てくるやつ、見るだけで頭が痛くなるのよね……」
「満里奈サンなら、第13式まで展開すれば余裕デスヨ。あ、ちなみに第四艦隊の提督はワタシの直属の部下デスガ、彼らは非常に規律に厳しいノデ、コンタクトの際は少し緊張感を持ったほうが良いカモしれマセンネ」
「ふーん、厳しいんだ。体育の先生みたい。……あ、あそこのベーカリーの新作、もう食べた? チョコクロワッサンが絶品だって噂なんだけど」
二人はそのまま、数歩、十数歩と坂道を歩みを進める。道端の草花が風に揺れ、遠くで鳥の声が聞こえる。ごくありふれた、平和な朝の登校風景。
会話が途切れ、ふっと静寂が訪れたその瞬間――。
……満里奈の足が、凍りついたように止まった。
「…………え?」
「……ドウシマシタ?」
オルガが不思議そうに首を傾げ、隣で立ち尽くすタ…満里奈を見上げた。
満里奈の顔からは、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女の脳内で、数秒前までの会話のログが、凄まじい速度で再構成されていた。
「………………ちょっと待って。今、なんて言った?」
「ベーカリーの新作の話デスか?」
「違う! その前! 第四艦隊がどうとか、10万……10万隻!? しかも太陽系のすぐ外に来てるって言った!? 旗艦のなんとかが、もうそこにいるの!?」
満里奈の叫びが、閑静な住宅街に響き渡った。彼女の瞳は、これ以上ないほど見開かれ、まるで目玉が眼窩から飛び出さんばかりの勢いだ。指差す手は小刻みに震え、心拍数は一気に跳ね上がっている。
「……反応が、鈍すぎマセンか?」
オルガは呆れたように肩をすくめ、やれやれと首を振った。
「ワタシ、かなりハッキリと言ったハズデスヨ。第四艦隊・10万隻が、すでにチェックポイントを通過して待機中だと…。満里奈サン、いくら野生動物デモ脳内のバッファが少なすぎるんじゃありマセンカ?」
「野…くっ…そんなことより、バッファの問題じゃないわよ! 10万隻ってアンタ……! 宇宙人が10万隻もすぐそこに来てて、なんでチョコクロワッサンの話とかしてたのよ、私は!!」
「そりゃー、食いしん坊万歳デスからネ」
「やかましいわ!」
満里奈は自分の頭を抱え、その場にうずくまりそうになった。目の前の自称・宇宙人(もはや自称ではないことは、これまでの数々の怪現象が証明している)の少女が、あまりにも淡々と「世界の終わり」にも等しい事象を口にするため、脳が防衛本能として理解を拒絶していたのだ。
「もうダメだ……私の人生、これからどうなっちゃうの……」
「…ナニを弱気になってるんですかっ、エイッ!」
ポカッ!
「あたっ…叩いたねっ!お父さんにだって叩かれたことないのにっ!」
「ああ、叩いたさっ!ソレは貴女のお父さんが甘やかしたからデス! そんな甘えた根性デ、10万隻の艦隊を迎え撃てるとでも思ってるんデスカっ!」
「なんで私が迎え撃つ話になるよのっ!? 10万よ!? 10万! 私はただの中学生なの! もういい、私帰る! 学校なんて行かずに、部屋に引きこもって地球の最期を待つわよ!」
「勝手にしなさい! デモ、今の満里奈サンがムジナの穴に戻ったトコロで、ノースライビア帝国の圧倒的な『おもてなし』から逃げられると思わないコトデスネ!」
「タヌキじゃねーッ!おもてなし!? 侵略の間違いじゃないの!? そもそも、叩かなくたっていいじゃない! 暴力反対! 宇宙条約違反よ!」
「コレは教育デス! ワタシの師匠なら、銀河級のドッキリに動じない鋼のメンタルを持ちなさいと言ってるのデス! 悔しかったら、今の衝撃をバネに因数分解の100問でも解いてみせなさいッ!」
「……もうやだ、この宇宙人……。論理が飛躍しすぎてて、叩かれた痛みより頭の痛さの方が勝ってきたわよ……」
「ソレでいいのデス。さあ、シャキっとして歩きマショウ。ほら、前を見てクダサイ。あそこに立っているのが……」
「あそこに……? ……え、待って、あの子……オルガにそっくりじゃない?」




