五十一話:竜と消えた洗濯物・後編
使われなくなった礼拝所は、住宅地の外れに残されていた。
石造りの壁には蔦が絡み、屋根の一部は崩れている。細長い鐘楼だけが空へ伸び、傾いた鐘を抱えたまま、長い年月を耐えていた。
「ここにいるの?」
「くるる……」
「中へ入ります」
「傷つけるつもりはありません。話を聞きに来ました」
崩れた扉を押し開ける。
内部には夕方の光が細く差し込み、床へ長い影を落としていた。壊れた長椅子や、砕けた石片が散らばっている。
かつて祭壇が置かれていた場所に、毛布や敷布が積み重ねられていた。
その上に、一頭の仔竜が横たわっていた。
淡い灰褐色の柔らかな体毛は泥に汚れ、片方の翼が力なく身体の脇へ垂れている。呼吸は浅く、胸元だけが小さく上下していた。
その前に、もう一頭の若い飛竜が立ちはだかった。
物干し台に残っていたものと同じ色の毛並み。
若い飛竜はノアを見ると、喉の奥から低い声を絞り出した。
それでも、横たわる仔竜から退こうとはしなかった。
「あなたが、布を運んでいたのですね」
ノアが一歩進むと、若い飛竜は翼を広げた。
背後にいる仔竜を隠そうとしている。
モコがノアの隣へ出た。
「くるる……」
モコは近づかず、その場で前脚を折り、身体を低くした。大きな翼も背へ沿わせ、敵意がないことを示している。
「その仔を助けたいのですね」
「怪我を見せてもらえますか?」
ノアは動かず、待った。
窓のない礼拝所へ、崩れた屋根から冷たい風が落ちてくる。積まれた毛布が、その風を防いでいた。
やがて若い飛竜は、半歩だけ横へ退いた。
ノアはゆっくりと仔竜へ近づいた。
垂れた翼に触れないよう、首元と胸の動きを確認する。体温は低い。後ろ脚には乾いた血がこびりつき、毛の奥に、脚を一周する細い傷が走っていた。
細い輪が深く食い込み、暴れるたびに締まったような痕だった。
「罠に……」
翼にも腫れがある。罠から逃れたあと、うまく飛べずに落ちたのかもしれない。
仔竜の傍らには、切れた金属線の端が残っていた。細く撚られた線には、毛と乾いた血が絡んでいる。
積まれた布の陰からは、革紐の切れ端も見つかった。端には、刃物で断ち切った跡がある。
「誰かが、この仔を捕らえようとした……?」
若い飛竜が落ち着かない様子で首を動かし、礼拝所の入口へ視線を向けた。
ここへ追ってくるかもしれない、別の何かを警戒しているようだった。
ノアは腰の小袋から、応急処置用の布を取り出した。
「今すぐ、竜を診られる方へ運ぶ必要があります」
若い飛竜が身を固くする。
「あなたも一緒に来てください。離れなくて大丈夫です」
モコが身体を起こし、仔竜のそばへ歩み寄った。
ノアはモコの鞍具に収めていた予備の布を広げる。仔竜の身体を包み、痛めた翼が動かないよう支えた。
* * *
日が沈む前に、ノアは仕立屋通りへ戻った。
モコの背には、布で包まれた仔竜が横向きに支えられている。鞍具へ身体を固定し、痛めた翼に負担がかからないよう、ノアが隣を歩きながら支えていた。
モコは背筋を沈め、仔竜を揺らさないよう一歩ずつ慎重に進んでいる。
若い飛竜も、少し距離を空けて後ろをついてきた。
ノアは立ち止まった。
「布を持ち去っていたのは、この若い飛竜です」
「やっぱり盗んでいたんじゃないか」
「ですが、理由がありました」
ノアはモコの背に横たわる仔竜へ視線を向けた。
「この仔が、古い礼拝所で怪我をしていました。体温が下がっていたため、若い飛竜は厚い布だけを選び、運んでいたようです」
「それで、毛布を……」
「返してもらえるんでしょうか」
「礼拝所に残っている布は回収します。ただ、血や泥で傷んだものもあります。使用できないものについては、状態を確認したうえで補償の手続きを取ります」
「王国が払うんですか?」
「まず、被害の記録を作ります。私から担当部署へ提出します」
「私の毛布は、もう使えなくても構いません」
「けれど、隣の家には幼い子がいます。あちらの敷布は、できれば早く返してあげてください」
「分かりました」
「……その竜も、誰かを助けようとしてたのか」
若い飛竜は人々から距離をとっている。
誰も近づかなかった。
恐れが消えたわけではない。
それでも、先ほどまで通りに満ちていた張りつめた気配は、少しずつ形を変えていた。若い飛竜を見る目には、警戒とともに、事情を知った者の戸惑いが滲んでいる。
「この仔はストーリア大聖堂へ運びます。傷の処置が終わるまで、若い飛竜もそばにいられるよう頼みます」
「治るんですか」
アミが尋ねた。
「分かりません」
ノアは静かに答えた。
「ただ、助けられる可能性はあります。そのために、今できることをします」
パン屋の少年が家の戸口から顔を出した。
「見つけてくれて、ありがとう」
「教えてくれたおかげです」
* * *
仔竜は、王城に隣接するストーリア大聖堂の治療室へ運ばれた。
若い飛竜は治療室の隅に伏せ、最後まで仔竜から目を離さなかった。神官が水を置いてもすぐには口をつけず、仔竜の呼吸が落ち着いてから、ようやく鼻先を器へ寄せた。
「命に関わる状態ではありません」
「衰弱はしていますが、今夜を越えれば回復へ向かうでしょう。翼も、しばらく飛べなくなる程度で済みそうです」
「ありがとうございます」
若い飛竜にも伝わったのか、その身体から力が抜ける。見開かれていた目が細まり、仔竜の寝台へそっと首を寄せた。
神官が、処置に使った盆を示した。
そこには、仔竜の脚から外された細い金具が置かれていた。
輪の形に撚られた金属線で、内側には短い返しがいくつも並んでいる。脚を引けば引くほど輪が狭まり、食い込んだ返しが外れなくなる構造だった。
「傷の奥に、これが残っていました」
「これは……罠ですか?」
「ええ。獣を捕らえるものに似ています。ただ、通常の狩猟罠より軽く、輪も小さい」
「若い飛竜を生きたまま捕らえるために作られたものと考えるのが自然でしょう」
ストーリア王国では、竜を捕らえ、売買し、意に反して使役することは認められていない。
人を襲い、やむを得ず対処する場合でさえ、騎士団への報告と厳格な確認が必要になる。竜を商品として狙う者がいるなら、それは明確な密猟だった。
「密猟者が、この仔を……」
「可能性は高いと思います」
「罠にかかった場所までは分かりません。傷ができてから数日は経っています。王都へ逃げ込むまで、かなりの距離を移動したのでしょう」
けれど、この仔を商品として捕らえようとした者は、まだどこかにいる。
「金具と、礼拝所で回収した革紐を王国騎士団へ渡します。処置の記録も作成していただけますか」
「承知しました」
「密猟者が追ってくる可能性もあります。しばらくの間、この二頭の居場所は、大聖堂と騎士団の限られた方だけで共有してください」
「そのように手配します」
金具と革紐は、大聖堂で作成された処置記録とともに封じ布へ包まれた。今夜は聖騎士詰所の施錠棚で一時保管し、翌朝、王国騎士団の装備管理担当へ引き渡す。材質と製法を調べ、王都近郊で同じ罠が使われた事例がないか照合することになった。
扉の外で待っていたモコが、応えるように「くるる」と声を返した。
「また明日、様子を見に来ます」
ノアはそう告げ、静かに扉を閉めた。
遠く、王都港の方角から、かすかな槌の音が届いている。
ノアの手には、仔竜を捕らえていた罠と、礼拝所で見つけた革紐が残っていた。
失われた布は回収され、傷んだものには補償の手続きが取られる。二頭の飛竜も、今夜は温かな治療室で休むことができる。
* * *
それから七日後。
朝の相談記録に目を通していたノアのもとへ、王国騎士団から一通の報告書が届いた。
仔竜の脚に残されていた罠は、王都北方の林で発見された違法な仕掛けと材質も製法も一致した。騎士団が周辺を捜索したところ、林の外れに隠された荷車と檻が見つかり、見張りに戻ってきた二人の男がその場で拘束されたという。
さらに聞き取りを進め、別の町へ逃れていた一人も捕らえられた。三人は若い飛竜を生け捕りにし、国外へ売り渡そうとしていた密猟者だった。
押収された檻の中に竜はいなかった。ほかに仕掛けられていた罠も、騎士団によってすべて撤去されたと記されていた。
――その日の午後、ノアはストーリア大聖堂の治療室を訪れた。
仔竜は寝台を降りられるまでに回復していた。固定された翼はまだ広げられないものの、四肢でしっかりと立ち、用意された水を自分で飲んでいる。
若い飛竜はその傍らに伏せていた。ノアの姿に気づくと顔を上げ、以前より穏やかな声で喉を鳴らした。
「捕まったそうです」
ノアは二頭の前に膝をついた。
「あなたたちを追っていた人たちは、もう来ません。森に残っていた罠も、全部外されました」
言葉のすべてが伝わったかは分からない。
それでも、若い飛竜はしばらくノアを見つめたあと、仔竜の首へ鼻先を寄せた。仔竜も応えるように目を細め、その柔らかな体毛へ頬を預ける。
治療室の入口で待っていたモコが、「きゅ!」と明るく鳴いた。
仔竜が驚いて顔を上げる。やがて、まだ弱い声ながらも、短く鳴き返した。
張りつめたものの残っていた部屋に、小さな声が重なった。
窓から差し込む午後の光が、二頭の毛並みを静かに温めている。
ノアはその光景を見つめ、ようやく胸の奥の力を抜いた。
失われた布は持ち主へ返され、傷んだものへの補償も決まった。仔竜の傷は癒え始め、密猟者たちも捕らえられた。
ひとつの相談から始まった出来事は、今度こそ終わったのだ。
飛行艇団の整備庫からは、槌の音が届いている。
ホークを空へ戻すための音は、今日も途切れず続いていた。




