五十話:竜と消えた洗濯物・前編
天脈樹の搬出が終わった翌日、王都の整備庫では、朝から木を削る音が響いていた。
森から運び出された芯材は、一本ずつ包みを解かれ、床に組まれた台の上へ並べられている。淡い木目の内側には、風が流れる道のような筋が幾重にも走っていた。
「こっちは翼骨の補強。細い方は制御軸へ回す。先に切らないで。全部、測ってから決めるから」
傷ついたホークの周囲には足場が組まれ、裂けた船腹の一部はすでに取り外されていた。艇体の奥まで露わになった姿は痛々しかったが、昨日までとは違う。
「何か、手伝えることはありませんか?」
「今はない」
「天脈樹をここまで運んでくれた。それで十分。ここから先は、私たちの仕事」
森へ入る者の名と役割を揃え、決められた道だけを通り、風竜たちと共に倒木を切り分けた。運び出した跡には新しい土を戻し、シルフィとの約束どおり、最後まで森を荒らさずに帰ってきた。
「だから、ノアはノアの仕事に戻って」
「相談、溜まってるんじゃないの?」
留守の間にも届いているはずの手紙。正門の受付へ預けられた伝言。王国騎士団が部隊を動かすほどではないと判断され、聖騎士の詰所へ回された相談の数々。
けれど、困っている者にとっては、放っておけないことだった。
「戻ります」
「うん。こっちは任せて」
ノアは整備庫を出る前に、一度だけホークを振り返った。
それでも、修理はもう始まっていた。
* * *
王城西棟の一角にある聖騎士詰所へ戻ると、机の上には留守中に届いた相談記録が積まれていた。
一方は王城西棟の廊下へ通じ、もう一方は中庭へ面している。相談に訪れる者は正門で用向きを告げ、許可を得たあと、中庭を抜けてこちらの扉を訪ねることができた。
今日はレクサスが王城を離れられないため、ノアが外へ出ることになればついていくつもりらしい。日なたぼっこをしながら、ときおり詰所の扉へ顔を向け、静かに翼を畳んでいた。
ガラスのリンゴの文鎮が、差し込む光を淡く透かしている。
干していた布が、何度もなくなるという訴え。
けれど、相談を届けた者にとっては、日々の暮らしを脅かす切実な問題だった。
ノアが四通目の記録を開いたとき、中庭側の扉が控えめに叩かれた。
「はい。どうぞ」
洗濯籠を抱えた中年の女性が、戸口からおそるおそる室内を覗いた。
「あの……こちらが、聖騎士様の詰所でしょうか」
「はい。ノア・ライトエースです」
「どうぞ、中へ。急がなくて大丈夫です」
王城へ来ること自体に緊張しているのか、その足取りは固い。抱えた籠の中には、端を引き裂かれた布が一枚だけ残されていた。
「聖騎士様。竜に、盗まれたんです」
「うちの毛布も、隣の家の敷布も。夜になると、翼のある影が持っていくんです」
「順番にお聞きします」
「最初になくなったのは、いつですか?」
「三日前の朝です」
「裏庭に干していた毛布が一枚、なくなっていました。最初は風に飛ばされたのかと思って、近所を探したんです。けれど、どこにもなくて」
「その日は、風が強かったのですか?」
「いえ。穏やかな夜でした」
「翌日は?」
「隣の家の敷布が二枚。それから昨夜は、向かいの家の古い上掛けがなくなりました」
「なくなったものに、共通点はありますか? 色や大きさ、素材など」
「どれも厚手です。冬に使うものを、日が出ていたので干していました」
「衣服や薄い布は?」
「残っていました」
「翼のある影を見た方について、詳しく教えていただけますか?」
「向かいに住んでいるパン屋の息子です。夜中に物音がして、窓を開けたら、屋根から屋根へ飛び移る影を見たと」
「大きさは分かりますか?」
「そこまでは……。暗かったそうです。ただ、翼があって、長い尾も見えたと言っていました」
「現場を見せていただけますか?」
「来てくださるんですか?」
「はい。残っている痕跡を確認したいです」
「ありがとうございます。私はアミと申します。仕立屋通りの外れで、染め物の手伝いをしています」
「分かりました、アミさん。少しだけ準備をしますので、お待ちください」
それでも、三日続けて生活に必要なものが消えれば、不安は日ごとに大きくなる。相手が竜かもしれないとなれば、恐れは見えない輪郭を勝手に膨らませていく。
「現場を見に行きます。モコも来てくれる?」
「きゅう!」
陽を含んだ柔らかな体毛が揺れ、大きな翼が一度だけ開いてから、通路の邪魔にならないよう背へ畳まれる。
* * *
仕立屋通りは、王都の南寄りにあった。
表通りには布地を扱う店や仕立屋が並び、軒先から色とりどりの布が垂れている。一本裏へ入ると小さな住居が密集し、それぞれの裏庭に物干し台が立てられていた。
モコもノアの隣を歩いていた。成人の肩から胸元ほどに届く身体が狭い道へ入ると、人々は自然と道を空けた。
モコはそれを気にした様子もなく、鼻先を上げて周囲の匂いを確かめている。翼は家々の壁へ当たらないよう、背に沿わせて畳んでいた。
「ここです」
裏庭には木製の物干し台があり、何本かの紐が渡されている。地面には洗濯籠と、水を張った桶が置かれていた。
「この端に、毛布を干していました」
布だけが、留め具から引き抜かれていた。
「留め具は、朝もこのままでしたか?」
「はい。二つとも地面に落ちていました」
土は乾いている。人の靴跡はいくつも重なっていたが、それは毛布がなくなったあと、家人や近隣の者が探し回った際についたものだろう。
物干し台の支柱には、淡い灰褐色の毛が数本引っかかっていた。
「分かる?」
「くるる……」
モコは匂いを確かめるように何度か鼻を動かし、それから庭の塀を見上げた。
「ここを越えたようですね」
「やっぱり、竜なんですか」
「竜の体毛である可能性は高いと思います。ただ、この毛だけでは、布を持ち去った理由までは分かりません」
「理由なんて、あるんでしょうか」
「人の物を持っていったんだ。腹が減ってようが、遊びだろうが、盗んだことに変わりはないでしょう」
「被害が出ていることは、そのとおりです」
「なくなった布を取り戻せるか確認します。難しい場合も、持ち主の方が一方的に損をしないよう、方法を考えます」
「翼の影を見たのは、あなたの息子さんですか?」
「お話を聞かせていただけますか?」
しばらくすると、十歳ほどの少年が窓から顔を出した。ノアを見るなり緊張したように背筋を伸ばす。
「見たものを、そのまま教えてください。分からないところは、分からないままで大丈夫です」
「夜中に、屋根で音がしたんです。窓を開けたら、向こうの家の煙突のところに影がいて」
「翼は開いていましたか?」
「畳んでた。でも、飛ぶときに広げた。あんまり大きくなかった」
「人が乗れるほどでしたか?」
「モコより、ずっと細かった。たぶん、子どもの竜だと思う」
「毛布はどう運んでいましたか?」
「口で端をくわえてた。何度も引っかかって、うまく飛べてなかった」
「どちらへ向かいましたか?」
「古い鐘楼の方」
仕立屋通りの南には、今は使われていない礼拝所がある。王都の区画が広がる以前に建てられたもので、鐘楼も長く鳴らされていないと、ノアは聞いたことがあった。
「ありがとうございます。大事な手掛かりです」
「鐘楼の周辺を調べます。日が暮れる前には、一度戻ってご報告します」
「私たちも行きます」
パン屋の男が言った。
その後ろでは、騒ぎを聞きつけた近隣の者たちが、戸口や路地へ集まり始めている。竜を傷つけようとする者はいなかった。ただ、今夜も布が持ち去られるのではないかという不安が、落ち着かない視線となって鐘楼の方角へ向けられていた。
ノアは彼らを見渡した。
「お気持ちは分かります。ですが、相手が追い詰められた状態なら、人数が増えるほど怯えさせてしまいます」
「逃げられたら、今夜も盗まれる」
「何が起きているのか、私が確かめます。分かったことは、必ず皆さんへお伝えします」
静かな声だった。
男はしばらく鐘楼の方角を見つめ、それから息を吐いた。
「……分かりました。お願いします」
「ありがとうございます」
ノアは頭を下げ、モコとともに古い鐘楼へ向かった。




