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Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ その傍に在る者と共に  作者: 篁 玖月
亡国の残響

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四十九話:風が選ぶ森

 風竜の棲家の森は、人の営みから遠かった。


 街道は途中で途切れ、草の細い道が岩場へ変わり、やがて山の斜面に吸い込まれていく。遠くに見える峰は白く霞み、谷間を流れる風は、音もなく衣の裾を引いた。


 モコは鞍具に工具箱と測定器を固定し、しっかりとした足取りで斜面を進んだ。強い横風が吹くたび、前脚を踏み締め、首を少し低くして仲間の歩調を待つ。


「くるる……」


 振り返るように鳴いたモコに、ノアは頷いた。


「大丈夫。ありがとう、モコ」


 セラは周囲の木々を見上げていた。山の上へ行くほど、木の姿が変わっていく。枝は低く横へ流れ、葉は細く、風の向きを示すように一方向へ伏せている。


 その時、森の音が消えた。


 葉擦れも、鳥の声も、遠い谷の唸りも。


 ノアは足を止める。レクサスも剣に手をかけた。ただし、抜かない。


 梢の奥から、淡い若葉色の影が降りてきた。


 風竜だった。


 柔らかな体毛が風に伏せ、背から尾へ流れる鬣が霧のように揺れる。畳んだ翼の羽先だけが、森の気流を読むように微かに震えていた。


 梢の奥には、ほかにも淡い影があった。


 姿を現しきらない風竜たちが、枝葉の向こうからこちらを見ている。敵意はない。けれど、この森に踏み込んだ者を、風そのものが見定めているようだった。


 その中で、ひときわ近くに降り立った竜がノアたちを見下ろした。


 威圧ではない。


 けれど、浅い嘘ならすぐに風へほどかれてしまう。そんな眼差しだった。


「人の子らよ。ここは、風が選ぶ森だ」


 声は静かで、よく通った。


 ノアは一歩進み、胸に手を当てて頭を下げる。


「突然の訪問をお許しください。私はストーリア王国のノア・ライトエースです。こちらはレクサス殿下、セラさん、そしてモコです」


 風竜の目が、ノアの上で止まった。


「ノア・ライトエース。神竜の気配を持つ者よ。その名は、風にも届いている」


 セラが息を呑む。レクサスは表情を変えなかったが、視線だけをノアへ向けた。


 ノアは逃げずに頷いた。


「はい。今日は、お願いがあって参りました」


 風竜はしばらく黙っていた。


 やがて、首をわずかに上げる。


「私はシルフィ。この森の風と、天脈樹を預かる者」


 そして、シルフィの視線がセラの手元へ移る。


「天脈樹を求めて来たのだな」


 セラは一歩前に出た。


 図面を握る手に、少しだけ力が入っている。


「はい。ホークを直すために必要です。竜の異常行動を追う時、落ちないようにするためでもあります」


 そこで一度、息を吸う。


「必要な量は、私が計算します。余分には持ち出しません。森を荒らすつもりもありません」


 シルフィはセラを見た。


「氷を抱く同胞の噂は、こちらにも届いている」


 森の奥で、風が低く鳴った。


「あれは、己の風で飛んでいなかった。命じられた矢のようだった」


 ノアの胸の奥に、冷たいものが落ちる。


「私たちは、確かめに行きます」


 ノアは言った。


「あの氷竜は、自分の意思で飛んでいませんでした。なら、誰が、何のために、彼の空を奪ったのか。それを見つけなければなりません」


 ノアは、シルフィをまっすぐに見た。


「竜が竜として、自分の空を取り戻せるように」


 シルフィは瞼を伏せた。


「レガリアと相対し、なお祈りを手放さなかった神竜よ」


 ノアの指が、胸元で小さく強張った。

 すぐには、言葉を返せなかった。


 シルフィは深い森の奥へ視線を向けた。


「あの戦いの時、我らはこの森から離れられなかった。天脈樹と、まもなく孵る仔らを守るために」


 その声に、わずかな翳りが混じった。


「風は、遠くの叫びも運ぶ。聞こえていても、動けぬ時がある」


 ノアは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


「……私ひとりで出来たことではありません」


 やがて、静かに言う。


「たくさんの人が、支えてくれました」


「知っている」


 シルフィの声は、少しだけ柔らかくなった。


「風は、勝利の知らせだけを運ぶわけではない。そこにいた者たちの声も運ぶ。恐れも、祈りも、痛みも」


 沈黙のあと、風が道を開くように梢を揺らした。


「……ついて来るがよい」


 *  *  *


 天脈樹の森は、音が柔らかかった。


 高地の風は本来なら鋭いはずなのに、その場所だけは違っていた。幾本もの巨木が根を絡めるように立ち、幹の内側から淡い光が透けている。枝葉は空を遮らず、むしろ風の通り道を作るように伸びていた。


「天脈樹は、我らの棲家であり、記憶でもある」


 シルフィはゆっくりと歩いた。


「仔が初めて羽を広げる時、この樹の下で風を覚える。傷ついた者は根元で眠る。老いた者は、最後にこの枝の音を聞く」


 セラは無言で頷いた。


 案内されたのは、森の奥に横たわる一本の倒木だった。


 根元から自然に折れた古い天脈樹で、幹は大人が数人で囲んでも余るほど太い。表面は乾いているのに、切れた枝の奥には淡い筋が幾重にも走っていた。


 セラは膝をつき、測定器を当てた。


 小さな針が震え、静かに一定の位置で止まる。セラは息を詰めたまま、何度か測り直した。


「……合う」


 その声は、ほとんど囁きだった。


「これなら、ホークの翼骨に使える。制御軸にも。想定よりずっといい」


 レクサスが倒木を見た。


「運び出せる量ではなさそうだね」


「今日の人数じゃ無理。試験片だけなら持ち帰れるけど、本材は切り出しと搬出が要る。技師、運搬役、護衛、飛行艇団の手も借りたい」


 セラはシルフィに向き直った。


「この森に、人を入れる許可が必要です」


 空気が、わずかに張った。


 シルフィの大きな翼がゆっくりと開き、また畳まれる。その動きだけで、森の風向きが変わった。


「人の足は、時に多くを踏み荒らす」


 レクサスが前へ出た。


「森へ入る者は、僕が責任を持って選びます。人数、役割、搬出経路、切り出す量。すべて事前にお伝えします。許された場所以外には踏み込みません」


 ノアも続けた。


「私も約束します」


 シルフィは二人を見つめ、それからセラへ視線を移した。


「お前は、どれほど求める」


 セラは倒木に触れたまま、しばらく黙っていた。


「ホークが次に空へ上がるのに必要な分だけ」


 彼女は、幹の淡い筋を指でなぞった。


「それ以上は要りません。余ったって、意味がないから」


 シルフィの目が、少しだけ和らいだように見えた。


「ならば許そう。だが、条件がある」


 風竜の声に、森が耳を澄ませた。


「生きた天脈樹を傷つけぬこと。森へ入る者の名と役目を知らせること。武器を抜かぬこと。切り出した跡は、我らと共に風へ返すこと」


「守ります」


 レクサスは迷いなく答えた。


 シルフィは最後に、ノアを見た。


「神竜よ。もうひとつ、願いがある」


 *  *  *


 案内されたのは、さらに森の奥だった。


 そこには、ひときわ古い天脈樹が立っていた。根は大地を抱くように広がり、その間に淡い風が溜まっている。光は枝葉に砕かれ、白く、青く、静かに降っていた。


 根の内側に、ひとつの卵があった。


 薄い空色の殻に、風の脈のような模様が走っている。卵の周りには細かな羽が敷かれ、空気が柔らかく温んでいた。


「まもなく孵る仔だ」


 シルフィは卵のそばに身を伏せた。淡い体毛が根元の草に触れ、風が静かに沈む。


「近ごろの風は乱れている。生まれてくる仔に、恐れを最初の風として覚えさせたくはない」


 シルフィは深く頭を下げた。


「この仔が、自ら選ぶ風を掴めるように。祝福を」


 ノアは卵の前に膝をついた。


 レクサスが少し離れた場所で見守っている。セラは試験片を手にしたまま、言葉を失ったように立っていた。


 モコは翼を畳み、前脚を揃えて伏せる。喉の奥で、かすかに「くるる」と鳴いた。


 ノアは両手を重ねた。


「……私にできることなら」


 目を伏せると、森の音が近くなった。


 どうか、この仔が生まれてくる空が、優しいものでありますように。


 誰かに命じられた風ではなく、自分で選ぶ風を知れますように。


 恐れに翼を閉ざされることなく、初めての羽ばたきが祝福でありますように。


 ノアの胸の奥で、淡い光が灯った。


 春の朝、凍っていた水面が音もなくほどけるような、静かな温もりだった。


 その光が卵を包む。


 天脈樹の枝葉が、優しく鳴った。風が卵の周りを巡り、敷かれた羽をふわりと揺らす。草の穂が一斉に伏せ、またゆっくりと起き上がった。


 殻の内側で、こつん、と小さな音がした。


 誰も声を上げなかった。


 シルフィは目を閉じ、深く頭を垂れた。梢の奥で見守っていた風竜たちも、同じように首を下げる。


 ノアはそっと手を下ろした。


「ありがとう、神竜よ」


 シルフィの声は、初めて少しだけ柔らかかった。


「この森は、約束を覚える。お前たちが天脈樹を運び出す日、風は道を閉ざさぬ」


 レクサスが静かに頭を下げた。


「必ず、約束を守ります」


 *  *  *


 帰り道、山の風は穏やかだった。


 モコの鞍具には、天脈樹の試験片が丁寧に包まれて固定されている。本材はまだ森にある。切り出しも、搬出も、修理も、これからだった。


 それでも、セラの歩調は来た時より少し軽かった。


「ホークは、直せる」


 彼女は前を向いたまま言った。


「時間はかかる。人も要る。風竜との約束もある。でも、直せる。前より、ちゃんと帰ってこられるようにする」


 ノアは頷いた。


「お願いします、セラさん」


 レクサスが空を見上げる。雲の切れ間から、薄い光が差していた。


「搬出班を編成しよう。約束を守れる者だけを連れていく」


 モコが「きゅう」と明るく鳴いた。大きな羽を少しだけ広げ、風を確かめるように羽先を震わせる。


 ホークの修理は、まだ終わっていない。


 けれど、空へ戻る道は見えた。


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