表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ その傍に在る者と共に  作者: 篁 玖月
亡国の残響

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/47

四十五話:凍てつく再会・後編

 氷の竜が身を捻り、息を吐く。

 白い帯となった冷気が伸び、空気そのものの質を変えていく。


 毛並みが風をはらみ、冷気が肩口をかすめて流れていく。


 ノアは深く息を吸い、霜を振り払うように翼をひとつ揺らす。


 市の方角へ、氷の筋が伸びかけ、ノアはすぐにその間へ割り込んだ。爪で地面を掻き、走る先を外へ逸らす。


 守る。

 まず守る。

 そのあいだに、止める方法を探す。


 氷の竜は、止められたことに反応しない。

 怒りも、苛立ちもない。

 ただ次の命令へ移るように、角度だけを変える。


 ノアは背筋が冷えた。

 目元の仮面は、彼の目を覆っているだけではない。

 仮面の奥に、別の視線がいる。


「アルピーヌ……!」


 名を呼んだ。

 ノアの声は市の上を渡り、白い靄を震わせる。


 ほんの一瞬だけ。

 氷の竜の動きが止まりかけた。


 霜の舞が鈍り、吐息の流れが乱れる。

 仮面の赤い光も、微かに揺らいだ。


 ――戻りかけた。


 けれど次の瞬間、氷の竜は再び動き出す。迷いのない軌道で、冷気を放つ。


 ノアは歯を食いしばった。


 市の方で、人の流れが生まれていくのが見えた。

 露店の布が畳まれ、荷車が引かれ、子どもが抱き上げられる。

 護衛たちが道を作り、レクサスが声を張る。


「こちらへ! 裏手へ回ってください! 走らないで、押さないで!」


 言葉は落ち着いていた。

 混乱が混乱を呼ぶ前に、流れを作る声だ。

 誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。けれど、流れは崩れない。


 その列の端で、ひとりだけ足を止めている影があった。


 外套の裾を震わせ、松葉杖をついた女が、白い靄の向こうを見つめている。

 顔色は青ざめていた。けれど、その目だけは逸れていなかった。


 護衛が肩へ手を伸ばす。


「危険です、下がってください」


 それでも、マレアは首を振った。


 一歩。

 松葉杖の先が石畳を打つ。

 もう一歩。

 避難の流れに逆らうように、彼女は前へ出る。


 速くはない。

 けれど、止められても止まらない歩き方だった。


 レクサスの表情が変わる。

 すぐに護衛へ合図を飛ばしたが、そのときにはもう、マレアは列の前へ出ていた。


「アルピーヌ……!」


 大きな声ではなかった。

 泣きそうに掠れながら、それでもはっきり届く声だった。

 ただ、失いたくないものの名を呼ぶ声。


 氷の竜が、止まった。


 吐きかけた冷気が乱れる。

 霜の流れが鈍り、前脚がわずかに地を踏み損ねる。


 黒曜石の仮面が赤く脈動した。

 一度。二度。

 けれど今度は、その規則が揺らぐ。


 氷の竜の視線が、マレアへ向いた。


「アルピーヌ……帰ってきて……」


 マレアの声は震えていた。

 松葉杖を握る手にも力が入り、指先が白くなる。

 それでも、呼ぶことをやめない。


「お願い……あなたでしょう……?」


 その瞬間、氷の竜の喉が震えた。

 吐息が止まり、白い冷気が空中でほどける。


 ――戻りかけた。


 ノアは息を呑んだ。

 今度の揺らぎは、さっきより深い。

 名前が届いたのではない。彼の中に残っているものが、確かに応えた。


 けれど、仮面の赤が強く明滅する。


 氷の竜の身体が大きくぶれた。

 苦しむように首が揺れ、爪が地面を深く掻く。

 冷気が制御を失いかけ、白い筋が無秩序に走りそうになる。


 危ない、とノアは反射で動きマレアとの間へ割り込む。

 翼を広げ、身体で庇う。

 流れかけた冷気が毛並みをかすめ、霜が銀に絡みついた。


「下がって!」


 ノアの声に、ようやくマレアが足を止める。

 けれど視線だけは、氷の竜から外せないでいる。


 氷の竜はなおも揺れていた。

 進むべきか、退くべきか、それさえ定まらないように。

 仮面の赤い脈動が、苛立つように明滅を繰り返す。


 そして次の瞬間、動きが変わった。


 氷の竜はノアとマレアを見たまま、ゆっくりと身を引く。

 背を向けない。隙も見せない。

 それでも、その軌道はさっきまでと違い、どこか迷いを帯びていた。


 ノアは追おうとした。

 だがその瞬間、市の方角で叫び声が上がった。


 倒れた荷車。

 転んだ子ども。

 護衛のひとりが受け止め、レクサスがすぐに身をかがめる。


 翼の内側では、マレアがよろめいていた。

 松葉杖をつく音が、危うく石畳を打つ。


 ノアは足を止めた。

 悔しさで喉が詰まる。

 それでも、守ると決めた。


 氷の竜は白い靄の濃い方へ滑るように退き、そのまま霧の奥へ消えていく。

 最後に、黒曜石の仮面の赤だけがひとつ強く脈打った。


 けれど、その直前。

 わずかに揺れた視線だけは、確かにマレアを見ていた。


 ノアは、追わなかった。

 代わりに翼を閉じ、冷えが市へ伸びないように身体を回す。

 残った霜を払い、息を整える。


 ――追えば届く距離ではない。

 今は、追うべきではない。


 ノアは胸の奥へ息を落とした。声は立てない。けれど空気が、静かに応える。

 白く貼りついた靄がほどけ、道に筋が通っていく。


 ――そこには、もう何もない。空だけが、薄く冷えた余韻を引きずっていた。


 空気が戻り、音が戻り、人の声が戻ってくる。


 ゆっくりと人の形へ戻り、膝をついたノアの肩に支えるようなレクサスの手が触れる。


「……大丈夫?」


 ノアは頷こうとして、すぐに言葉が出なかった。


「……逃げられました」


「……仕方ないよ。あの場では、あれしかなかった」


 責める響きはない。

 慰めで軽く流すでもない。

 ただ、あの場で守ることを選んだ重さごと受け止める声だった。


 ノアは唇を噛み、頷いた。


 * * *


 ――厚い金属に囲まれた区画に、黒い表示板が並んでいた。

 その画面には赤い筋が走り、白い靄の中の戦場を映し出している。


 ここには風の音が届かない。

 揺れもほとんどない。船であるはずなのに、床は冷えた石のように落ち着いていた。

 どこかで低い振動だけが続き、呼吸の間に、機械の鼓動が紛れ込む。


 部屋の中央では、白衣の男が淡々と画面を見つめている。


 その背後に、もう一人。

 少し高い位置で腕を組み、満足そうに見下ろす男がいた。


「閣下。第一次運用、所期の範囲で成功。強制竜化、維持。帰投も問題ありません……ただ、呼称に対し微かな干渉ノイズが確認されました」


 閣下と呼ばれた男は、画面に映る竜の姿を眺めたまま笑う。


「あれがストーリアの切り札だ。神竜が、人の顔で歩いている。……愚かで、都合がいい」


 白衣の男は感情を挟まない。


「識別は完了しました。聖騎士ノア・ライトエース。神竜個体と同一です。挙動、出力、反応……解析に回せます」


 閣下は静かに頷いた。


「次は、あれを獲る」


 低く、しかし迷いのない声だった。


「竜は武力だ。武力は——国のものだ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ