四十五話:凍てつく再会・後編
氷の竜が身を捻り、息を吐く。
白い帯となった冷気が伸び、空気そのものの質を変えていく。
毛並みが風をはらみ、冷気が肩口をかすめて流れていく。
ノアは深く息を吸い、霜を振り払うように翼をひとつ揺らす。
市の方角へ、氷の筋が伸びかけ、ノアはすぐにその間へ割り込んだ。爪で地面を掻き、走る先を外へ逸らす。
守る。
まず守る。
そのあいだに、止める方法を探す。
氷の竜は、止められたことに反応しない。
怒りも、苛立ちもない。
ただ次の命令へ移るように、角度だけを変える。
ノアは背筋が冷えた。
目元の仮面は、彼の目を覆っているだけではない。
仮面の奥に、別の視線がいる。
「アルピーヌ……!」
名を呼んだ。
ノアの声は市の上を渡り、白い靄を震わせる。
ほんの一瞬だけ。
氷の竜の動きが止まりかけた。
霜の舞が鈍り、吐息の流れが乱れる。
仮面の赤い光も、微かに揺らいだ。
――戻りかけた。
けれど次の瞬間、氷の竜は再び動き出す。迷いのない軌道で、冷気を放つ。
ノアは歯を食いしばった。
市の方で、人の流れが生まれていくのが見えた。
露店の布が畳まれ、荷車が引かれ、子どもが抱き上げられる。
護衛たちが道を作り、レクサスが声を張る。
「こちらへ! 裏手へ回ってください! 走らないで、押さないで!」
言葉は落ち着いていた。
混乱が混乱を呼ぶ前に、流れを作る声だ。
誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。けれど、流れは崩れない。
その列の端で、ひとりだけ足を止めている影があった。
外套の裾を震わせ、松葉杖をついた女が、白い靄の向こうを見つめている。
顔色は青ざめていた。けれど、その目だけは逸れていなかった。
護衛が肩へ手を伸ばす。
「危険です、下がってください」
それでも、マレアは首を振った。
一歩。
松葉杖の先が石畳を打つ。
もう一歩。
避難の流れに逆らうように、彼女は前へ出る。
速くはない。
けれど、止められても止まらない歩き方だった。
レクサスの表情が変わる。
すぐに護衛へ合図を飛ばしたが、そのときにはもう、マレアは列の前へ出ていた。
「アルピーヌ……!」
大きな声ではなかった。
泣きそうに掠れながら、それでもはっきり届く声だった。
ただ、失いたくないものの名を呼ぶ声。
氷の竜が、止まった。
吐きかけた冷気が乱れる。
霜の流れが鈍り、前脚がわずかに地を踏み損ねる。
黒曜石の仮面が赤く脈動した。
一度。二度。
けれど今度は、その規則が揺らぐ。
氷の竜の視線が、マレアへ向いた。
「アルピーヌ……帰ってきて……」
マレアの声は震えていた。
松葉杖を握る手にも力が入り、指先が白くなる。
それでも、呼ぶことをやめない。
「お願い……あなたでしょう……?」
その瞬間、氷の竜の喉が震えた。
吐息が止まり、白い冷気が空中でほどける。
――戻りかけた。
ノアは息を呑んだ。
今度の揺らぎは、さっきより深い。
名前が届いたのではない。彼の中に残っているものが、確かに応えた。
けれど、仮面の赤が強く明滅する。
氷の竜の身体が大きくぶれた。
苦しむように首が揺れ、爪が地面を深く掻く。
冷気が制御を失いかけ、白い筋が無秩序に走りそうになる。
危ない、とノアは反射で動きマレアとの間へ割り込む。
翼を広げ、身体で庇う。
流れかけた冷気が毛並みをかすめ、霜が銀に絡みついた。
「下がって!」
ノアの声に、ようやくマレアが足を止める。
けれど視線だけは、氷の竜から外せないでいる。
氷の竜はなおも揺れていた。
進むべきか、退くべきか、それさえ定まらないように。
仮面の赤い脈動が、苛立つように明滅を繰り返す。
そして次の瞬間、動きが変わった。
氷の竜はノアとマレアを見たまま、ゆっくりと身を引く。
背を向けない。隙も見せない。
それでも、その軌道はさっきまでと違い、どこか迷いを帯びていた。
ノアは追おうとした。
だがその瞬間、市の方角で叫び声が上がった。
倒れた荷車。
転んだ子ども。
護衛のひとりが受け止め、レクサスがすぐに身をかがめる。
翼の内側では、マレアがよろめいていた。
松葉杖をつく音が、危うく石畳を打つ。
ノアは足を止めた。
悔しさで喉が詰まる。
それでも、守ると決めた。
氷の竜は白い靄の濃い方へ滑るように退き、そのまま霧の奥へ消えていく。
最後に、黒曜石の仮面の赤だけがひとつ強く脈打った。
けれど、その直前。
わずかに揺れた視線だけは、確かにマレアを見ていた。
ノアは、追わなかった。
代わりに翼を閉じ、冷えが市へ伸びないように身体を回す。
残った霜を払い、息を整える。
――追えば届く距離ではない。
今は、追うべきではない。
ノアは胸の奥へ息を落とした。声は立てない。けれど空気が、静かに応える。
白く貼りついた靄がほどけ、道に筋が通っていく。
――そこには、もう何もない。空だけが、薄く冷えた余韻を引きずっていた。
空気が戻り、音が戻り、人の声が戻ってくる。
ゆっくりと人の形へ戻り、膝をついたノアの肩に支えるようなレクサスの手が触れる。
「……大丈夫?」
ノアは頷こうとして、すぐに言葉が出なかった。
「……逃げられました」
「……仕方ないよ。あの場では、あれしかなかった」
責める響きはない。
慰めで軽く流すでもない。
ただ、あの場で守ることを選んだ重さごと受け止める声だった。
ノアは唇を噛み、頷いた。
* * *
――厚い金属に囲まれた区画に、黒い表示板が並んでいた。
その画面には赤い筋が走り、白い靄の中の戦場を映し出している。
ここには風の音が届かない。
揺れもほとんどない。船であるはずなのに、床は冷えた石のように落ち着いていた。
どこかで低い振動だけが続き、呼吸の間に、機械の鼓動が紛れ込む。
部屋の中央では、白衣の男が淡々と画面を見つめている。
その背後に、もう一人。
少し高い位置で腕を組み、満足そうに見下ろす男がいた。
「閣下。第一次運用、所期の範囲で成功。強制竜化、維持。帰投も問題ありません……ただ、呼称に対し微かな干渉ノイズが確認されました」
閣下と呼ばれた男は、画面に映る竜の姿を眺めたまま笑う。
「あれがストーリアの切り札だ。神竜が、人の顔で歩いている。……愚かで、都合がいい」
白衣の男は感情を挟まない。
「識別は完了しました。聖騎士ノア・ライトエース。神竜個体と同一です。挙動、出力、反応……解析に回せます」
閣下は静かに頷いた。
「次は、あれを獲る」
低く、しかし迷いのない声だった。
「竜は武力だ。武力は——国のものだ」




