四十六話:動き出す王国
王城の会議室は、ひどく静かだった。
石の壁に囲まれた空間には、まだ村から持ち帰った冷えの気配が残っている。
長机の上には簡略地図、報告書、封じの布に包まれた回収物。
集まった面々の視線は、自然とノア・ライトエースへ向いていた。
ノアは背筋を伸ばしたまま、短く息を整えた。
「……氷の竜――アルピーヌは、明らかに外部から制御されていました」
喉の奥がわずかに硬くなる。
あの赤い脈動を思い出すたび、胸のどこかが冷えた。
「怒りや混乱で暴れていたわけではありません。標的の切り替えも、退き際も……誰かの判断が入っていたように見えます」
ノアは続けた。
「仮面の赤い光が強まるたび、動きが整っていきました。それに……私の呼びかけと、マレアさんの声には、反応がありました」
会議卓の向こうで、息を呑む気配が広がる。
レクサス・アルファードが静かに言葉を継いだ。
「村ひとつの異変として処理していい話ではありません」
その声は穏やかだったが、判断は揺らがない。
「敵は竜を兵器として運用し、こちらを観測していた可能性が高い。ノアひとりで抱える段階は、もう過ぎています」
感情を切り捨てるのではなく、抱えきれないものを王国全体へひらくような言い方だった。
「ですが同時に、ノアを外して進められる話でもありません」
レクサスはそう続け、隣のノアを見た。
「あの場を見て、アルピーヌの揺らぎをいちばん近くで確かめたのは、彼女です」
重い沈黙が落ちた。
そのときだった。
会議室の扉が、控えめな礼を置く余裕もなく開かれた。
伝令がひとり、肩で息をしながら飛び込んでくる。
「失礼します! 北西航路上より急報!」
部屋の空気が一変した。
「申せ」
低く落ちた声に、伝令は膝をついた。
「アストラでの復興支援を終え、帰還中だった飛行艇団が、白い冷気をまとう竜の襲撃を受け、旗艦が損傷。海上への不時着を余儀なくされたとのことです」
ノアの脳裏に、白い靄と黒曜石の仮面がよみがえった。
迷いのない攻撃。狙いを裂くための角度。
アルピーヌの姿をした、誰かの意思。
「ラクティス団長が識別不明の飛行艇を発見し、停止信号を送ったものの応答なく、不審と判断して追跡に移行したその直後だったということです」
会議卓のあちこちで椅子がわずかに鳴る。
誰かが息を呑み、誰かが地図へ視線を落とした。
伝令はさらに報告を継いだ。
「ただし、水竜アクアらの助力により、乗員の救助と収容は完了しています。負傷者は多数ですが、死者はありません」
ノアは顔を上げた。
助かった者がいる。
その事実だけが、張りつめた空気にわずかな余白を作った。
レクサスがノアを見た。
「助かった人はいる。なら、まだ繋げられる」
ノアは小さく頷いた。
頷いたはずなのに、胸の奥の痛みは消えない。
ラクティスは怪しい飛行艇を見逃さなかった。
その結果、アルピーヌに落とされた。
助かったとしても、それで軽くなる話ではなかった。
ノアは会議卓へ視線を戻し、静かに言った。
「村で見たものと同じです。目的はまだ分かりません。ですが、敵は明確にこちらを攻撃する意図を持っています」
会議室の沈黙が、今度は明確な危機として形を持つ。
ユーノス・ライトエースがゆっくりと口を開く。
「王国騎士団も動かそう。これはもう、一個人で追う話ではない」
レクサスがすぐに判断を継いだ。
「現場海域の確保を最優先に。負傷者の処置と聞き取りを進めてください。敵飛行艇の航跡も確認を」
そしてノアへ向き直る。
「ノア、先にラクティス団長から話を聞こう。現場へ向かう前に、見たものを揃えておきたい」
ノアはすぐには答えられなかった。
行けば、またアルピーヌの痕を見ることになる。
守れなかったものの続きを、直視することになる。
それでも。
「……はい」
声に迷いは残っていた。
だが、その迷いごと前へ出すしかない。
会議卓の向こうで、誰かがようやく立ち上がる。
書記官が走り、騎士が命を受け、地図の上に新しい線が引かれていく。
もう聖騎士ひとりの事件ではない。
けれど中心から外れることも、許されない。
ノアは指先を握りしめた。
白い靄の向こうへ消えたあの竜を、今度こそ見失わないために。
* * *
廊下は静かだった。
会議室の喧騒は、扉一枚の向こうに置き去りにされている。
足音だけが、長い廊下に静かに落ちていった。
ノアは少し遅れて、レクサスの隣に並んだ。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
ラクティスが怪我をしている。
アルピーヌがそれを負わせた。
その二つの事実が、胸の中でうまく噛み合わなかった。
「……ラクティス団長が、心配です」
気づけば声に出ていた。
レクサスはすぐには答えない。
少し間を置いてから、静かに言う。
「あの人は、きっと大丈夫だよ。……あの人、しぶといから」
ノアは小さく息をついた。
根拠になっていないはずなのに、不思議と少しだけ楽になった。
医務室の扉が、廊下の奥に見えてくる。
ノアは一度だけ息を整えてから、扉を押した。
奥の寝台に、ラクティス・ジーニアは腰を下ろしていた。
片腕は胸元で固定され、包帯の白が外套の隙間からのぞいている。
ノアたちの姿を見るなり、彼は眉を上げた。
「よう。ひでぇ格好で悪ぃな」
軽口だった。
だが、その顔色は万全から遠い。
「……腕が」
ノアが言いかけると、ラクティスは肩をすくめた。
「腕一本で済んだんだ。運はいい方だろ」
そこで冗談は終わる。
彼の目が、団長のものへ戻った。
「俺が見た飛行艇、全面金属だった。帆も見えねぇ。見たことのない型だ」
レクサスが目を細める。
「全面金属……」
「停止信号を送っても応答なし。識別も曖昧。ありゃ見過ごせねぇ。だから追った。そしたら――」
ラクティスの声が一段低くなる。
「冷気をまとった竜が襲って来た。目元には、黒い何か……仮面みてぇなもんが見えた。あれは制御装置か何かか」
ノアの指先が、かすかに震えた。
「……アルピーヌ」
ラクティスは息を吐いた。
「船体は保たなかった。あのまま叩きつけられてりゃ、何人死んでたか分からねぇ。だが、落ちる寸前にアクアたちが受けた」
低い声だった。
冗談も、強がりもない。団長として被害を数えようとした者の声だった。
ノアが顔を上げる。
守れてよかった、と思ったあの夜が、ノアの胸に返る。
あのとき繋いだ命が、今度はこちらを受け止めた。
レクサスが静かに目を伏せる。
その一瞬だけ、医務室の空気から硬さが抜けた。
けれど、ラクティスはすぐに顔を上げた。
「だが、助かったで終わらせる気はねぇ」
吊られた腕の代わりに、残った手が膝の上で強く握られる。
「正体の分からねぇ飛行艇だったが、船影も進路も、まだ頭に残ってる。今度は逃がさねぇ」
ノアは黙って彼を見つめた。
怪我を負ってなお、その目はもう次の航路を見ていた。
扉の向こうでは、すでに王国騎士団の初動が始まっていた。
伝令が走り、騎士たちが散り、北西航路の情報が次々と運び込まれていく。
王城全体が、張りつめた危機に応え始めていた。




