四十四話:凍てつく再会・前編
詰め所の投書箱に、届けられた一通の手紙。
丁寧な文字だった。けれど行間には、隠しきれない焦りが滲んでいる。
差出人の名は、最後に小さく添えられていた。マレア。
それだけで、ノアには十分だった。手紙の中ほどに記されていた竜の名――アルピーヌ。
氷の村で出会った、優しい竜。自分がいるだけで迷惑になるのではないかと怯えながら、それでも人の傍に立とうとしていた姿が、脳裏に浮かぶ。
ノアは手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
心の底で、嫌な予感が静かに形を作っていく。こういうとき、当たってほしくない予感ほど外れないことを、彼女はもう知っていた。
「行こう」
声にすると、少しだけ息が通った。そしてその言葉に、レクサスが迷いなく頷いたのも、ノアにはありがたかった。
* * *
チェリア村に着いたとき、マレアは家の前で待っていた。
松葉杖をつく姿は痛々しく、無理をして外に出てきたのだと、ひと目で知れた。
「ごめんなさい。来てもらって……」
「謝らないでください」
ノアは静かに首を振った。
「お手紙、拝見しました。アルピーヌのことを聞かせていただけますか」
マレアは小さく頷いた。その頷きは弱く、けれど迷いはなかった。
「中で話しますか。立ったままでは、おつらいでしょう」
「……少しだけなら、大丈夫です」
そう答えた声は、もう十分につらそうだった。けれど、今は座って話すより、すぐ伝えたいことがあるのだとノアにも分かった。
「怪我をしてから、ときどき来てくれていたんです。ほんの少しだけですけど。顔を見て、すぐ帰ることも多くて……それでも、気にしてくれているのが分かったから」
そこで、言葉が細く途切れた。
「来なくなったのは、いつからですか」
「五日前です」
短い答えだった。けれど、その五日を何度も数えたのだと分かる響きがあった。
「最初は、無理をして来てくれていたから、疲れたのかもしれないと思っていたんです。私の怪我のことも、あの子、すごく気にしていたから……だから、休んでるだけならいいって、自分に言い聞かせて」
マレアは松葉杖を握る手に、少しだけ力を込めた。
「でも、昨日から、空気が変なんです。寒いんです。季節の冷え方じゃなくて……あの村のときみたいな」
その言葉の終わりに、ノアはふと息を止めた。
空気が、ひと息ぶん落ちた。
風ではない冷たさが、頬をかすめていく。レクサスが表情を変えずに視線を上げる。ノアも同じ方を見た。家並みの向こう、荷車の止まる裏手のあたり。日差しはあるのに、そこだけ色が薄い。
「……今の?」
マレアの声がかすかに揺れる。
ノアは頷いた。胸の内側が、嫌なふうに冷えていく。
「レックス」
「ああ」
それだけで通じた。二人は同時に歩き出す。
* * *
「……ここだ」
荷車の列が途切れるあたり。倉へ続く狭い通路。そこだけ空気が澄みすぎていた。音が遠い。まるで、世界の膜が一枚厚い。
ノアが視線を滑らせた先に、人影があった。
青年だった。背は高すぎず、体つきも細身で、遠目にはどこにでもいる旅の若者に見える。外套の色も目立たない。
ただ、目元だけが違った。
黒曜石のような光沢を持つ仮面が、顔の上半分を覆っていた。竜の顔を模した線。滑らかで、無駄のない形。その表面で、血を思わせる赤が規則正しく明滅している。
ノアは、呼吸を止めそうになるのを堪えた。あれはただの装飾じゃない。そう思わせるだけの、嫌な存在感があった。
青年は、こちらを見ていた。仮面の下の目は見えない。それでも視線だけは確かに感じる。
ノアの鼓動が、ひとつ強く打った。
気配が、同じだった。
冷たくて、優しくて、怯えたまま立っていた――あの竜の気配。
「……アルピーヌ……?」
青年の肩が、ほんの僅かに揺れた。首がわずかに傾く。迷うような動き。
けれど次の瞬間、仮面の赤が一拍だけ強く脈を打つ。
揺らいだ気配が、奥へ引きずり込まれた。――アルピーヌが、遠ざかる。
「……聞こえていますか? 私です、ノア――」
言い終える前に、レクサスの手がそっとノアの手を引いた。止めるのではない。踏み込みすぎないよう、引き留めるだけの合図。
ノアは唇を引き結んだ。
人の形をして立っているのに、気配のありようだけが不自然だった。そこにいるのは確かに一人なのに、空気の冷えがその輪郭を曖昧にしている。
そして――仮面の向こうが、ひどく遠く見えた。
視線を向けられているはずなのに、こちらを見ているのが本当にアルピーヌなのか分からない。
彼を通して誰かがこちらを見ている。そんな気配が、そこにあった。
青年の指が、外套の留め具へ滑った。抜く動きではない。
次の瞬間、空気が鳴った。
冷気を帯びた刃が、何もない空間から生まれたように走る。
ノアは反射で剣を抜き、弾いた。角度を変え、逸らし、通りの方へ流さない。白い霜が舞い、視界が薄く曇る。
受けるたび、冷たさが腕へ染み込む。骨の奥を撫でるような、遅れてくる痛み。
それでも――倒したい相手ではない。倒してはいけない相手だ。
「アルピーヌ……!」
名を呼ぶ。返るのは、黒曜石の仮面に灯る赤い明滅だけだった。
規則正しかった脈動が、少しずつ間隔を詰めていく。音がないのに、圧だけが増していく。青年の動きが整い、迷いが削られていく。支配が、深くなっている。
ノアは踏み込んだ。剣で道を作り、距離を詰める。仮面に手が届くなら、今すぐに――
赤い光が強まった瞬間、空気が裂けるように冷えた。
冷気が噴き上がる。息が白くなるどころではない。肺の奥まで差し込む冷たさ。ノアは腕を交差させ、足場を踏みしめた。
次の瞬間、青年の輪郭が揺らいだ。
人の形がほどける。骨格が伸び、影が歪み、白い霧が渦を巻く。霜が弾け、地面が低く鳴った。
そして霧の中心から、巨大な影が立ち上がった。
氷の竜。
柔らかな体毛が波打ち、毛先に絡んだ霜が粉雪のように舞う。吐息は濃い白へと変わり、周囲の空気をひと息ごと削っていく。顔の輪郭に沿って、黒曜石の仮面が残っていた。赤い光は脈動を絶やさず、その奥で命令だけが生きている。
アルピーヌの気配が、遠くなる。手を伸ばしても届かない場所へ、沈められていく。
「レックス、避難を!」
ノアは声を張った。
「分かった」
レクサスの返事は短く、迷いがない。踵を返し、市の方へ走る。
その背に遅れず、少し離れて控えていた護衛たちも動いた。
レクサスは振り向かず、指示だけを落とす。
「中央へ寄せないで散らして。子どもと年寄りを先に」
護衛たちは頷き、音もなく散った。誰かの腕を取り、露店の裏へ誘導していく。混乱が大きくなる前に流れを作る、訓練された動きだった。
ノアは、目の前へ向き直った。
氷の竜が低く唸る。そこに感情はない。獣の威嚇とも違う、冷たい起動音のような響き。
次の瞬間、氷が走った。地面に白い筋が刻まれ、冷えが帯のように伸びる。ノアは跳び、剣で軌道を逸らした。
だが、追いつかない。人の身で止められる限界が見える。
このままでは守り切れない。ノアは唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
誰に向けた謝罪か、彼女自身にも分からないまま。
ノアは胸の奥の扉を開いた。
世界が、静かに沈む。熱がほどけ、白い光へ変わっていく。息が深くなり、輪郭が広がった。人の形が、霧の向こうへ退く。
白い霧の中に、真珠色の竜が現れた。
柔らかな体毛は光を含んで、冷えを跳ね返すように揺れた。吐く息は白く、それでもどこか温度を持っている。
その眼差しが、仮面の赤を捉えた。
赤い脈動が、合図のように強まる。
真珠の白と氷の吐息が、ぶつかる直前で世界を張りつめさせた。




