四十三話:技術の体温、悪意の純度
大聖堂からの呼び出しは、昼を少し過ぎた頃だった。
伝言は簡素で、要件だけを告げる。神官長が会いたい、と。
詰め所を出たノアが城の回廊へ出ると、ちょうど角からレクサスが現れた。呼び出しは彼にも届いていたらしい。外套の襟を整えながら近づき、自然に歩幅を合わせる。穏やかな目が、ノアの表情をすくい取った。
「一緒に行こう。……嫌な予感がする顔だ」
「隠せてない?」
「うん。君は、顔に出る」
からかう調子ではない。そう言って、彼は並ぶ位置を少しだけ近づけた。それが彼の気遣いだった。
少し遅れて、モコの気配が二人の後ろに添う。
ノアがふと振り返ると、モコは鼻先を寄せてきた。柔らかな体毛の奥から漏れる息が、手袋越しにあたたかい。
――大丈夫、と言うみたいに。
大聖堂の門をくぐると、空気が変わった。冷えではない。静けさが少し硬い。石壁の匂いが澄み、足音が遠くなる。
案内も祈りの声もない回廊を抜け、イスズの部屋の前で立ち止まる。扉は閉じているのに、向こうに人の気配があった。
ノアが控えめに声をかけるより早く、内側から錠が外れる音がして、扉がわずかに開いた。
「来たね」
イスズの軽い声に促され、ノアとレクサスは中へ入る。
室内は整理されていた。机の上だけが例外で、紙の束が積まれ、角を揃え、折れを伸ばし、順番を確かめる手つきがやけに丁寧で――それをしているのはルフレだった。
机の端には書き取り用の紙。短い単語がいくつか並び、書き直しの跡が以前より減っている。
ノアはそこで、息をひとつ緩めた。元気そうだ。ここにいる。それだけでよかった。
遅れて入ってきたモコが、迷いなく机のそばへ寄った。ルフレの手元を邪魔しない距離で鼻先を寄せ、じっと様子をうかがう。
ルフレは一瞬だけ目を上げ、それから小さく眉をほどいた。指先が、無意識にモコの額を撫でる。
モコは満足そうに喉を鳴らし、また二人の後ろへ下がった。
「ルフレ。ここにいたんだね」
「……うん。神官長の手伝い、してた」
ルフレが答えるより早く、横から声が飛んだ。
「手伝いはついで。主は勉強」
イスズは悪びれずに言い、指で書き取りの紙を叩いた。ルフレが眉を寄せる前に、レクサスがふっと笑う。
「いいことだね。続けて。……焦らなくていい」
ルフレの肩が、ほんの少しだけ落ちる。ノアには、その変化が分かった。
イスズは二人に向き直り、いつもの軽い調子のまま言った。
「急に呼び出して悪いねぇ。……この前の回収物、覚えてる?」
ノアはすぐに頷いた。回収物は二つ。ルクラ村では鐘を壊すための火薬。チェリア村では、倒壊した倉庫の床下から引きずり出した小さな円筒形の器具。
ルフレは書き取りを続けたまま、木箱をちらりと見た。視線だけが、何度も戻ってくる。
ノアは思わず目を細めた。――興味はあるのに、今はちゃんと我慢している。
「城の保管庫に入れたやつ、ですよね」
「そうそれ。……気になったからさ、アタシの方でも先に少し調べてみた」
チェリア村で感じた冷えが、言葉を持って戻ってきた気がした。
「鐘を壊した方は火薬。成分は普通。問題はこっち」
イスズは小さな木箱の留め具を外し、蓋をわずかに持ち上げた。中には布で固定された円筒が一本。
「……技術としては、素晴らしいよ」
ノアの脳裏に、梁が折れ、木材の内部まで凍り割れていた倉庫の光景が浮かぶ。
「魔法が当たり前になる前の、古い時代のやり方。……でも、当時のままじゃない。ここまで小型で高出力は無かった」
イスズは円筒を布ごと押さえ、指先で継ぎ目をなぞった。
留め具をほんの少し外すと、内側の影が覗く。
「……ほら。外からは見えにくい位置に、石が仕込まれてる。……魔晶石だね。これで出力を底上げしてる」
イスズは目だけを細めた。
「……確かアストラ大陸西部に、大きな鉱脈があったはずだ。けど、こっちじゃ流通しない。周囲の影響を受けやすくて、不安定だから」
イスズはそこで、ほんの一拍だけ黙った。
次の言葉だけが冷たかった。
「……全く。ろくでもない使い方を考えるもんだよ」
目が細まる。楽しげにも見えて、同時に冷たい。
指先が、箱の角を軽く叩いた。
「温度を管理できるってことは……保管庫や、病室にも役に立つだろうに」
言い終えてから、息を吐くみたいに笑みが消える。
ノアの胸の奥の冷えが、言葉になっていく。――目的が悪い。だからこそ、被害は確実になる。
レクサスが静かに問う。
「……誰が、そんなことを」
「まだ分からない。……でも、竜に罪を着せたい奴がいる」
ノアは小さく喉を鳴らした。人の手の悪意――それが、静かにノアの芯を撫でた。
「……アストラの石の流通を辿りましょう。港や精錬所――魔晶石の出どころを追えば、犯人に近づけるはずです。私が――」
「待って」
レクサスの声は穏やかだったのに、否の形が崩れなかった。
「君には、ひとりで行ってほしくない。ただ、国として動くなら、どうしてもすぐには動けないんだ」
イスズが淡く息を吐く。
「竜が狙われてるかもしれないのに、神竜の姿で飛んでいくなんて――もってのほかだからね」
ノアが言い返そうとした瞬間、レクサスは静かに言い添えた。
「飛行艇団は三日もすれば戻る予定だ。それから動こう。……その間に、痕跡を集めよう」
レクサスは短く息を吐いてから、言った。
「……聖騎士の行動を止める権利は、僕にはない。分かってる。でも……もし何かあったらと思うと」
言葉が、そこで途切れた。
ノアは短く息を吐き、頷いた。
止められているのではない。大切に想われているのだと、分かってしまう。
「……分かりました。ひとりでは行きません」
* * *
大聖堂を後にするころ、空は澄んでいた。
その後ろで、モコが妙に機嫌よさそうに歩いている。
ノアが気づいて目を向けると、モコは何でもないふりをする。けれど、隠しきれない。
「……モコ、ご機嫌だね」
レクサスが小さく笑った。
「さっき、撫でられたのが嬉しかったのかな」
モコは返事の代わりに、鼻先をほんの少し上げてみせる。
歩調を合わせるレクサスが、ちらりとノアを見る。
「……ルフレ、少し変わったね」
ノアは前を向いたまま、小さく頷いた。
その変化が嬉しくて、心が少しだけ温かくなる。
城へ戻る途中で、ノアはふと思い出したように足を止める。
「ねえ。詰め所、寄ってもいいですか?」
「もちろん」
レクサスは肩をすくめるみたいに笑った。
「投書箱、見ておきたくて。……それと、少しだけ」
少しだけ、と続けた声が小さくなる。レクサスは微笑んだ。
「じゃあ、ついでにお茶でも。……ノアが淹れてくれるなら、嬉しい」
「……っ、もう。レックス、からかわないでください」
そう返しながらも、ノアの肩の力がほんの少し抜けた。
歩幅が揃うだけで、戻ってこられる場所があると思えた。
詰め所は市民も立ち寄れるようにと用意された場所だ。昼下がりの光が窓から差し込み、木の机と椅子が整然と並ぶ。角の丸い家具は手触りがよく、飾りは控えめなのに、落ち着く。
入口の脇に置かれた投書箱の蓋を、ノアは何気なく開けた。
束の中に混じった一通に、指が止まる。封は丁寧で、紙も良い。けれど触れた瞬間に分かる。――急いで書かれたものだ。
ノアは封を切り、目を走らせた。
——あの子が、姿を見せません。
——村の外れで見たきり、もう数日。
——何かあったのでは、と……心配で。
差出人の名は、最後に小さく添えられていた。
マレア。
そして手紙の中ほど。竜の名が、ひとつ。
アルピーヌ。
ノアは、息を止めた。




