四十二話:名目は、様子見
思いがけず休みを告げられた朝だった。
昨夕、事務的な声で「明日は外せ。以上」と言われ、紙が一枚、机に置かれた。理由は簡潔で、反論の余地がない。――しかも、最後まで眼鏡の向こうの視線がこちらを見なかった。
予定はない。修練場へ顔を出すか、戦術書を読み直すか――そう考えて、ふと手が止まる。
火竜イグニスのいる村。ここ数日の出来事もあって、顔を見ておきたい気持ちが、胸の端に小さく残っていた。
――様子見だけ。そう決めかけたところで、控えめだが迷いのないノックが響いた。
「はい」
扉を開けたノアは、一瞬、自分の目が間違っているのかと思った。
そこにいたのは、王族の装いではない。上質なウールの外套に、落ち着いた色の服――街の青年の格好をしたレクサスだった。
「……レックス? どうしてここに。それに、その格好は……」
「おはよう、ノア。驚かせてごめん」
レクサスは悪戯っぽく微笑むと、声を落とした。
「君を誘いに来た。今日は――“殿下”じゃなくていい日だから」
その装いで、城の外へ出るのだと分かる。
胸が跳ねるより先に、頭の中で手順が並んだ。移動手段と、隠し方。――いつもの癖だ。
「イグニスがいる村。様子を見に行かない? 君も、気になってたでしょ」
見透かされたようで、言い訳が出てこない。
ノアは一拍置いてから、観念したように小さく息を吐いた。
「……分かりました。準備をします。……その、少しだけ待っていてください」
「もちろん。急がなくていいよ」
レクサスは廊下へ半歩退き、扉の脇に寄りながら、目だけはどこか楽しげだった。
ノアは慌てて髪をまとめ、外套を手に取る。手袋を確認して――そこでようやく、彼の装いにもう一度視線が戻った。
「……本当に、今日は“殿下”じゃないんですね」
「うん。だから、君も肩の力を抜いて」
そんなことを言われると、余計に意識してしまうのに。
ノアは咳払いをひとつして、扉を閉めた。
「行こう」
歩き出しながら、レクサスはさらりと言う。
「定期馬車で。目立たないし、村もいつも通りでいられる」
「……護衛は?」
確認は、ほとんど反射だった。
レクサスは悪びれもせず、穏やかに笑う。
「つけない。許可はもう取ったよ?」
ノアは返事をせずに、じと、と彼を見た。
視線だけで、問いが成立する。
「……休みも?」
「さあ、どうだろう」
くす、と笑って、レクサスは先に歩き出す。
ノアは――隊長が無言のまま眼鏡を押し上げ、眉間に皺を寄せる場面を思い浮かべずにはいられなかった。
* * *
馬車は村の外れで止まった。畑の匂いと、遠くの屋根――以前と変わらない景色がそこにあった。
畑の間の道を進むと、土を返していた男が顔を上げる。
「あれ、ノアさん。……そっちも、ゆっくりしていきな」
視線がレクサスへ移り、男の口元がふっと緩む。驚きより先に、受け入れる方の笑いだ。
ノアは胸の奥で、小さく息をほどいた。――よかった。ここは、変わらない。
村の外れへ向かう途中で、ノアの足が止まる。
柵の一本が黒く焦げ、木桶の縁も黒ずんでいた。
呼吸が、一瞬だけ浅くなる。
「……この柵ですが」
ノアがそう切り出すと、作業をしていた男が焦げ跡を見て、苦笑した。
「ああ、それは――」
どすん、と土が沈む音がした。
「それ、俺だ!」
真っ赤な髪の大男――イグニスが丸太を下ろし、片手を上げた。
「……おう、ノア! 久しぶりだな!」
「……ええ。お久しぶりです」
言ってから、言葉が堅すぎた気がして、ノアは小さく笑って付け足した。
「お元気そうで……よかったです」
イグニスの視線が、ノアの隣へ滑る。
「……レクサ――」
名前は、途中で途切れた。
咳払いが、やけに大きい。
ノアは隣を盗み見た。
レクサスは何も言わない。ただ、困ったように笑って――それでもどこか嬉しそうだった。
「くしゃみしたんだ。昼寝してて、竜の姿でうっかり」
言いながら鼻先をこすり、視線を逸らす。
「事故だ事故。燃やすつもりなんか無かったって」
ノアは静かに息を吐いた。
「……怪我人は、いないんですね」
「いない」
即答だった。
「よかった……」
「だろ? 直せば済むさ」
誰かが笑い混じりに言うと、周りの手が一斉に動き出す。板が外され、釘が打たれ、イグニスも当然のように手を貸した。
ほどなく「よし」と声が落ちて、空気がほどける。
イグニスは腕を組み、どこか誇らしげに頷いた。
「……ほらな。俺、役に立つ」
「その役は、力仕事限定な」
即座に突っ込みが入って、笑いが起きる。イグニスはむっとした顔を作るが、反論はしない。口元だけが少し緩んだ。
「ノアさん、せっかく来たんだ。茶でも飲んでいきな」
外に小さな卓が出され、湯気の立つ茶が配られる。
「連れの人も、遠慮すんなよ」
「ありがとうございます」
レクサスが受け取ると、村人は満足げに頷いた。
“ノアの連れ”として扱われる距離感が、心地よかった。
イグニスは茶碗を持ったまま卓の端へ寄って――そこで一拍、周りの顔色をうかがう。
「……ほら、そこ。お前の場所だろ」
「ん」
腰を下ろし、ひと口すすって、眉がきゅっと寄る。
「……熱い」
「火吐くくせに猫舌かよ」
誰かが即座に笑い混じりに言い、周りもつられて声を弾ませた。
「最初の頃は大変だったよなぁ。井戸の水を一瞬で沸かしちまって、婆ちゃんが腰抜かしたっけ」
「俺が悪いんじゃねぇ! 手伝おうとしただけだ」
イグニスが即座に反論し、また笑いが起きる。
ノアは菓子をひとかけ口に運んだ。素朴な甘さが、ゆっくり喉へ落ちていく。
「こういうの、好き?」
レクサスが小声で尋ねる。
「……好きです。落ち着きます」
「僕も」
それだけの返事なのに、胸の奥が静かに温まった。
名目は“様子見”だったけれど、二人で歩いた時間が、静かに胸に沈んだ。
――影が少し長くなったころ、ノアは立ち上がった。
「そろそろ戻ります。……ありがとうございました」
「気をつけてな」
イグニスが咳払いをひとつする。
「……次は、寝る場所を選ぶ」
「選べ」
「絶対選べ」
村の声が揃って、また笑いが起きた。イグニスは「うるせぇ」と言いながら、耳の先を赤くする。
「また来いよ。今度は“何もない日”に」
「……はい」
踵を返しかけたところで、年配の女が呼び止めた。
「城でお留守番してる飛竜にも、持ってっておやり」
果実の入った紙袋が差し出され、レクサスは両手で受け取り、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます。きっと喜びます」
ノアが、ほとんど息だけで呟く。
「……分かってたんですね」
「うん。……たぶん、最初から」
困ったように笑って、それでもどこか嬉しそうだった。
* * *
王城へ戻るころには、回廊の石はすっかり夕の温度を失っていた。外套の裾から抜けていく冷えに、ノアは小さく息を吐く。
扉が開く音がするより早く、軽い爪音が走ってきた。
「……モコ」
モコは迷いなくレクサスへ突っ込み、胸元へ顔を押しつけるように甘え倒した。頬に舌が触れ、外套がぐいぐい引かれる。容赦のない「さみしかった」の形だ。
「おっと……うんうん。今日は留守番、偉かったね」
レクサスは笑いながら受け止め、首筋をわしゃわしゃ撫でる。モコは満足げに鼻を鳴らし、さらに押しつけてきた。
ノアは思わず口元を押さえる。
「……甘え方がすごいです」
「すごいね。怒ってるというより、拗ねてる」
レクサスはモコの額を軽く押し返しつつ、ノアへ目を向けた。
「今度、どこかに連れ出してやらないとなぁ。――君も、いっしょに」
言い方は軽いのに、目だけが真面目で、ノアは返事を一拍遅らせた。
「……はい」
モコが満足げに喉を鳴らすような息を落とし、レクサスの袖に鼻先を押しつける。
その重みが、今日の終わりをやさしく確かめてくれた。




