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愛に魔法はいらない  作者: 農民ヤズー


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9/12

閑話『命を知った朝』

 土というものを、澪はそれまでよく知らなかった。

 実家の庭には手入れの行き届いた芝生があったが、それは業者が管理するものであって澪が触れるべきものではなかった。土とは庭の縁にあって、雨が降ると靴を汚すものだという程度の認識でしかない。

 誠の仕事場に来るようになって、澪は初めて土に触った。

 最初に素手で土を触った日のことを澪はよく覚えていた。きゅうりの収穫のために茎の根元に手を伸ばした時、指の間に土が入り込んできた。冷たくて、湿っていて、予想していたよりもずっと重い感触だった。

 手を引っ込めようとしたが、引っ込めなかった。その感触の中に何かがあった気がしたから。うまく言葉にはならなかったが、この冷たくて重いものが、今目の前で伸びている蔓や葉っぱや実を作り出しているのだということが、指先を通じて少しだけ分かったような気がしたのだ。

 それから澪は土を気にしなくなった。作業をすれば手が汚れた。爪の間に土が入った。きゅうりの棘で手のこうが赤くなった。それが当たり前のことになっていった。

 七月の終わり頃、誠に言われてミニトマトの脇芽を摘んだ。葉の付け根から伸びてくる小さな芽を、指で摘み取る作業だった。

「なんで取るんですか」

「そのままにしておくと栄養が分散する。実に栄養を集めるために取るんだ」

 澪は言われた通り、脇芽を一つずつ取っていった。小さな芽は柔らかく、指で触れると青い匂いがした。

 この作業をすれば実が大きくなる。

 その単純な因果が澪には新鮮だった。自分がした行為が結果となって返ってくる。すぐにではなく少し時間を置いてからだが、その時間の間に水をやり、観察し、また手をかける。それが繰り返されていくうちに、ある日突然青かった実が赤くなっている。

 最初に赤くなったミニトマトを見た時、澪は誠を呼んだ。

「赤いのがあります」

「そうみたいだな」

「赤くなるまで、どのくらいかかりましたか」

「澪が来た頃にはもう花がついてたから、一か月くらいじゃないか」

 一か月。澪がここに来るようになってからの時間と、ほぼ重なっていた。

 その一致が、澪の中で何かと繋がった気がした。


 ――◆◇◆◇――


 八月の半ば、澪は一人で作業場にいた。

 誠は収穫した野菜の出荷に出ており、あと二時間は戻ってこないのがいつもの流れだった。そういった空き時間があることは誠から聞いていたが、それでも澪は一人で作業をしていた。誠から頼まれたわけではない。ただ、もう少し自分の手で何かをしていたかったから。

 蛇口を捻ると設置してあるスプリンクラーから一斉に水がまかれる。

 もう少し遅い時間になると陽の光で葉に着いた水滴が熱くなり、葉が焼けてしまうので早朝か夕方にしか水を与えることはできないということを、澪はここに来て初めて知った。

 水が土に吸い込まれていく。乾いていた土の色が変わっていく。

 スプリンクラーから撒かれる水と、それによって変化していく土を見て、澪の心の中に少しだけ自分の手で直接水をかけたかったという不満が湧いてきた。だが、朝の陽ざしによって小さな虹ができた光景を見て澪は自然と笑みを浮かべていた。

 誰にも見られていなかった。誠もいない。ただ澪一人が、畑にいた。

 その静けさの中で近くの葉の状態を見ていると、ふと澪の頭の中にとある考えが浮かんできた。――子供のことだった。

 考えたくて考えたわけではない。ただ、水が土に染み込んでいくのを見ていたら自然に浮かんできたのだ。七か月間、腹の中にいた子供のことが。

 後悔しているはずだ。悲しかったはずだ。だからあれほど落ち込んだのだ。少し前の自分の状態を思いながら、そう考えた。

 けれど――本当に生まれてほしかったのか?

 その問いが頭に浮かんだ瞬間、澪の体がこわばり、動きを止めた。だがすぐに動き出し、次の葉の様子を見ながらその問いと向き合った。

 本当に子供に生まれてほしかったのか。

 その答えを探した。探しながら、澪は自分が何を求めていたのかを思い出そうとした。

 葛木が去ったと本当は気づいながらも、澪がその子供を手放さなかった理由。アパートで内職をしながら、お腹の子供のためにと自分に言い聞かせ続けた理由。

 それは、子供が欲しかったからではなかった。

 その認識が、静かに澪の中に降りてきた。

 葛木との子供だった。葛木との繋がりを証明できる、唯一残っていた証だった。葛木が去っても、その子供がいる限り、自分は捨てられたのではなくただ一時的に離れているだけだと言い聞かせることができた。子供がいる限り、葛木はいつか戻ってくると信じることができた。

 つまりあの子供は、澪が現実から目を逸らし続けるための理由だった。

 その事実に、澪はようやく気付くことができた。いや、気づいてはいたのだ。ただそれを受け入れられなかっただけで。だって、その理由を認めてしまえば、自分はろくでもない人間に成り下がってしまうから。

 だがそんな思いを……自分はそういう人間だったのだという事実を、ようやく澪は受け止めることができた。

 あの子供を本当の意味で愛していたかといえば、澪には分からなかったが、愛そうとしていたのは本当だった。

 でも愛することと、愛そうとすることは、違う。

 水やりが終わり、澪はスプリンクラーの蛇口を閉じた。そして、畑の縁に立ったまま空を見上げた。八月の空は青く、雲が少しだけあった。

 あの子供がいなくなった。

 その事実を改めて頭に置いた時、澪の中に生まれたのは悲しみではなかった。悲しみがないわけではなかった。だがそれよりも大きく存在していたのは、別の感情だった。

 ――ようやくいなくなってくれた。

 その思いを認識した瞬間、澪は自分を責めた。子供を失ったことで軽くなったと感じるのは仕方ないかもしれない。けれど、いなくなってくれたなんて思いは、間違っているということくらい愚かな自分でもわかることだ。

 だが責めながらも、その感覚は消えなかった。ただそこにあり続けた。

 重くのしかかっていたものが、なくなった。それだけのことだった。

 澪はしばらく空を見上げていたが、やがて視線を畑に戻した。今日水をやった株たちが、朝の日差しの中で葉を広げていた。昨日よりも少しだけ実が大きくなっているものがあった。きゅうりの蔓が、昨日まで届いていなかった支柱の横木に巻きつき始めていた。

 毎日少しずつ変わっている。自分が水をやるから、変わっている。

 その事実の中に、澪は静かな充足感を見つけた。誰かに褒められるわけでもなく、すぐに結果が出るわけでもない。ただ、自分がやったことが、時間をかけて形になっていく。その遅さが、今の澪には心地よかった。急かされない。比べられない。ただ、今日やるべきことをやれば、それでいい。

 ――◆◇◆◇――


 九月になった。

 誠と並んで種を畑に撒きながら、澪はある考えが頭に浮かんでいることに気づいた。

 ――人間とは違いますね。

 自分で口にした言葉が、しばらく頭の中に残っていた。誠が一瞬手を止めたのを、澪は横目で見ていた。気づかれていたかもしれない。何を思って手を止めたのか、澪には分からなかった。けれど誠は何も聞かなかったし、澪も何も言わなかった。

 その日の夜、アパートに戻ってから、澪はもう一度その言葉を思い出した。

 人間とは違う。それは何を指していたのか。何を思って自分はそんなことを口にしたのか。

 種をまけば、決まった時間で芽が出る。水をやれば、決まったように育つ。澪はそう思っていた。今年の夏、誠の作業場で見てきたものは全てそういう手応えのあるものだった。

 脇芽を摘めば実が大きくなった。水をやれば土の色が変わった。手をかければかけただけ、応えてくれた。

 その確実さに、澪は知らないうちに縋っていたのかもしれない。

 けれど横になって天井を見ているうちに、澪はふと違和感に気づいた。

 自分が見ていたのは、本当に〝植物の全て〟だったのだろうか。

 誠がすべての種が作物となるわけではないといっていたことを澪は思い出した。

 全ての種が発芽するわけではなく、発芽したとしてもいくつかは間引くことになると語っていた誠。あの時澪は、手の中にあった種を見て意識をそちらに向けていたから深く考えなかった。

 傷んだ実を取り除く作業も、澪自身が何度もやっていた。色の悪いきゅうり。形の歪んだトマト。虫に食われたなす。それらは収穫物として数えられることなく、誠の指示で取り除かれ、土に還された。澪はそれを「当然のこと」として、特に疑問も持たずに作業をこなしていた。これは土に返って肥料になるから、と言われればそういうものかと思っていた。

 けれど、ちゃんと子を成し、育てることができたかと考えると、そうではない。

 つまり、澪が〝育った〟と思って見ていたものは、最初から選ばれたものだけだったということになる。育たなかったもの、間引かれたもの、傷んで取り除かれたものは、澪の目には最初からほとんど映っていなかった。

 誠が、見えるところに〝育ったもの〟だけを残してくれていたからだ。

 その事実に気づいた時、澪は布団の中で動けなくなった。

 では、自分は何と何を比べて、人間とは違うと言ったのだろう。

 頭に浮かんだのは、間引かれることなく育ったミニトマトの実だった。そしてもう一つ、澪の腹の中で育つことのなかった子供だった。

 澪はその二つを、無意識に並べていたのだと気づいた。片方は実った。片方は実らなかった。その対比だけを見て、澪は〝植物は確実で、人間は不確実だ〟と感じてしまっていたのだ。

 だがそれは、正しい比較ではない。

 澪が見ていたミニトマトは、無数の中から選ばれて生き残った一つだった。間引かれた芽や、虫に食われて捨てられた実のことを、澪は数えていなかった。澪自身の手で取り除いていたはずなのに、それを〝失われたもの〟として認識していなかった。

 ――ならば、自分の子供は何だったのだろう。

 その問いに、澪はすぐには答えを出せなかった。出せないまま、ただ天井を見ていた。

 唯一の子供だった。誰かと比べられるものでも、何かの中から選ばれたものでもなかった。澪にとってそれは、間引かれる側にも、選ばれる側にもなりえない、ただ一つだけの命だった。だからこそ、それを失ったということが、澪の中でどうしても〝植物が育たなかった〟という出来事とは違う重さを持っていた。

 その重さの違いを、言葉で説明することは難しかった。ただ、植物と人間の違いを口にした時、自分が本当に比べていたのはそこだったのかもしれないと、澪はぼんやり思った。

 誠が見せてくれていたのは、育ったものだけの世界だった。

 澪が一人で抱えていたのは、育たなかった、たった一つのものだった。

 その違いに気づいたところで、何かが変わるわけではない。子供は戻ってこない。けれど、自分が口にした〝人間とは違う〟という言葉の中に、まだ自分でも整理しきれていない何かがあったということだけは、はっきりと分かった。

 澪はその夜、それ以上深く考えるのをやめた。考えても、答えがすぐに出るものではないと分かっていたから。ただ、その違和感だけを、心の隅に静かに置いておくことにした。


 ――◆◇◆◇――

 九月の半ば、誠と並んで作業をしながら、澪は別の考えが頭に浮かんでいることに気づいた。

 気づいたのは、誠が少し離れた場所で支柱を打ち直している後ろ姿を見ていた時だった。日焼けした腕と、慣れた手つきで作業をしている様子。その光景の中に澪はいつのまにか、いつもとは違う何かを感じていた。

 誠と共に作業をしている。

 当たり前のことだった。この夏からずっとそうだったのだから。だがその時ふと、当たり前ではない形で、その事実が澪の頭に入ってきた。

 ――この人と、これから先もこうしているのだろうか。

 その考えが浮かんだ瞬間、澪は手を止めかけた。来年も、再来年も、こうして並んで土を触っているのだろうか。

 これから先の自分の人生を想像してみると、そこには自然と誠の存在があった。誠がいて、自分がいて、季節が巡って、また同じように笑い合っている。

 そう考えた時、ふとその想像の中に一つの光景が紛れ込んだ。

 自分と誠と――その子供。そして三人で作業をしている幸せな光景。

 その考えが浮かんだ瞬間、澪は今度こそ手を止めてしまった。

 考えた澪自身、自分でも驚いた光景だ。考えたくて考えたわけではない。ただ、誠との先の暮らしを思い描いた延長で自然にそこに行き着いただけだった。

 そんな光景を振り払おうと頭を振ろうとして、また動きが止まってしまった。澪はその幸せな光景を追い出すことができなかったのだ。けれどそれは仕方ないことだろう。澪にとっては、かつて一度考えた事のある幸せな世界だったのだから。

 澪はかつて、以前夜の公園で似たようなことを考えたことがあった。お腹の中にいた子供と自分と誠。まるで家族のようだ、と。

 もしかしたら、その時はちゃんとお腹の子供を愛することができていたのかもしれない。消えた恋人を繋ぎとめるための装置としてではなく、純粋に好きな人との結晶として。

 葛木との子供を思う時には、いつも何かに縋っているような切迫感があった気がする。だが誠が相手だと、その想いは違っている気がする。。もっと静かで、温かくて、ただひたすらに優しい気持ち。

 けれど澪は、その違いに少しだけ怖さを感じた。

 怖いと思ったのは、感情そのものの変化に対してではない。これほどあっさり次を望んでしまえる、自分自身の薄情さに対してだった。

 澪はまだ、自分の子供を失ったことを完全に消化できていなかった。そのはずだ。そうでなくてはいけないはずだ。

 だから今まで、まともにものを考えられるようになってからは死んだ赤ん坊のことを誠の前で口にしたことがほとんどなかった。

 それなのに、もう別の子供を望むような考えが浮かんだことに、澪は自分自身に失望する感情が湧いてきた。自分はこれほどいい加減で、情の薄い人間だったのかと。

 まだ早いのではないか。まだ、あの子のことを悼みきれていないのではないか。こんなにすぐ〝次〟を望んでは不謹慎ではないか。死んだ子供の次を……いなくなった者の代わりを誠に求めているだけではないだろうか。

 その問いに、澪はしばらく手を止めたまま向き合った。

 けれど、考えを進めるうちに澪はその考えは少し違うのではないかと思えてきた。

 澪が望んでいるのは、誠の代わりに何かを埋めることでも、失ったものを別のもので置き換えることでもないのだ。

 ただ、これから生きていく人生は誠と共にいるものであってほしいと願い、その先にあるかもしれないものが浮かんできただけ。ただそれだけのことだ。

 誠の畑で育つ作物だって、間引かれず、虫に食われず、台風にも遭わず、たまたま今のところ無事だっただけかもしれない。誠とのこれからを望んだとしても、それが必ず実るという保証はどこにもない。それでも人は、確実でないと知りながら、先のことを願うものなのかもしれなかった。

 澪はそのことに、少しだけ安心した。願うこと自体は、悪いことではないはずだ、と。

 そう考えて心を落ち着かせた澪だったが、動きを止めた澪が心配になったのか誠が振り返った。

「大丈夫か? きつかったら休んでろ」

「いいえ、大丈夫です」

 澪は手元に視線を戻した。顔が少し熱くなっているような気がしたが、それは九月の日差しのせいだと思うことにした。

 その日から、その考えがふとした瞬間に頭をよぎるようになった。よぎるたびに、澪は慌てて打ち消すこともあれば、そのままそっと胸の中に留めておくこともあった。

 確かな想い。けれど澪自身言葉にすることのできない感情。わけのわからない初めての気持ちに、澪は胸の奥に焦燥感にも似た何かを感じていた。

 それでも、秋が深まるにつれて、その考えは少しずつ形を持ち始めた。形を持ちながら、同時に変化していった。もし今後も一緒にいたら、という漠然とした想像から、この人とこれから先もずっと一緒にいたい、という願いへと。

 それが何を意味するのかを、澪はまだ言葉にしていなかった。言葉にする前に、もう少し、自分の中で確かめる時間が必要だと思っていた。

 秋の終わりに、誠と並んで未来を語りながら作業している中で、澪は静かに決めた。

 来年の春、また種を植える頃に自分はここで、この人の隣にいたい。それがどういうことなのかを、ちゃんと言葉にして伝えたいのだ、と。

 その決意が何をもたらすのかを、この時の澪はまだ知らなかった。



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