七章『変わる朝』
誠は澪の家に訪れたあの日から、何もしなかった。
いや、何もしないというのは正確ではない。澪の家に通う、ということをしていたのだから。
誠は毎夜アパートを訪ね、部屋に上がり、澪と共に過ごした。特別なことなど何もない。ただ、会う場所が公園から澪の家に変わったのと、会うのは相変わらず夜だったがその時間が少し早まったという変化があったが、逆に言えばそれだけ。何を話せばいいのかも分からなかったし、何かを教えようとも思わなかった。ただそこにいた。それだけだ。
澪も何かを求めるわけではなく、誠が来るとただ部屋に入れただけ。二人はそうして、薄暗い部屋の中で時間を潰すように過ごした。
けれど、澪はまだ動けなかった。体の傷自体ははもう治っていた。打撲も捻挫も、退院から数週間で痛みは引いていた。だが体が治ったからといって動けるわけではない。布団から起き上がること。立ち上がること。部屋の中を移動すること。その一つ一つに、澪は途方もない労力を必要としていた。
誠にはそれが肉体の傷によるものではないことは分かっていた。体ではなくもっと別の、深いところが壊れたままなのだ。
誠はその状態を見ても澪を急かすことはなかった。急かす権利すら自分にはないと思っていた。早く元気になれとは言わない。外に出てみろとも言わない。ただ来て、座って、必要があれば話して、以前公園で話していた時と同じくらいの時間になったら帰る。それを繰り返した。
だが、このままではいけないとも感じていた。このまま部屋にこもりきりで人形のように一連の流れを繰り返しているだけでは、いつか澪自身に限界が来る。肉体の限界か心の限界のどっちが先かはわからないが、どちらだとしても大した違いはない。
だからこそ、誠は今までとは違い一歩踏み出すことにした。
「今日、外に出てみるか」
誠が澪と再会してから二週間がたったある日、誠は澪にそう問いかけた。
命令ではなく、あくまでもただの問いかけ。それも、嫌ならいいという程度の、様子を伺いながらの言葉だった。
「……はい」
澪はそんな誠の問いかけに、しばらくぼうっと誠のことを見てからしずかに頷いた。
頷きを返した澪を見て誠は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに口元を緩めて立ち上がろうとした。だが、この二週間で松葉づえをつかなくても良くなったとはいえ、元通りとなったわけではない。立ち上がる際にうまく力が入らず、松葉杖の代わりに使うようになった杖に力を込めて立ち上がる。
無事に立ち上がれたことでほっと一息ついた誠は、のろのろと立ち上がった澪をみて手を差し出した。
誠が差し出した手を無言でとった澪を見て、誠は安堵したように優し気な笑みを浮かべて玄関へと向かった。
玄関で靴を履こうとしたが、杖を突いている状況のせいでいつものようにうまく履くことができずもどかしさを感じた誠だったが、靴を履き終えて振り返るとちゃんと澪が待っていた。たったそれだけのことが、誠にはなぜだか嬉しいと感じられた。
そうしてドアを開けて二人で外に出ると、五月の空気が二人を撫でていく。
澪は廊下に出て、そこで一度立ち止まった。外の空気を吸い込むような、あるいは外の空気に圧倒されているような、そんな様子で。
誠は横に並んで立ちながら、黙って澪を待った。
「階段は下りられるか?」
澪は階段で転んでお腹の中の子供を亡くした。なら会談というものにトラウマを持っていてもおかしくない。もしそうなら無理をして階段を下りる必要はないんだから部屋に戻ろう。そう思いながら誠は澪に問いかけ、些細な変化も見逃さないとばかりに注意深く澪の様子を観察した。
「はい」
だが誠の不安とは裏腹に、澪は誠の問いかけに頷くとすぐに歩き出し、手すりを掴みながらゆっくりと降りていった。
その様子を見ながらホッと息を吐いた誠だったが、躊躇わずに進めた事にも不安を覚えてしまった。普通、子供を亡くした場所を何もなかったかのように素通りできるはずがないのだから。
それでも階段を下りていった澪の後を追って、誠も手すりを掴みながら杖を突いて慎重に階段を下りていく。
階段を下りる。たったそれだけの動作だというのに、誠は普段よりもずっと緊張しながら一歩ずつ足を動かす。
ここでもし失敗して階段から落ちてしまえば澪を巻き込むことになるし、それによって今度こそトラウマを植え付けることになってしまうかもしれない。それは認めることができなかったかったから。
通常よりも遅い進み。二人は時間をかけながら階段を降りたのだが、一階に着いた時には澪の呼吸が少し乱れていた。
階段を下りる。ただそれだけの動作だったが、しばらくの間まともに動いていなかった澪にとってはそれだけでも大した労力だったのだろう。
「大丈夫か」
「はい」
心配している誠の問いに澪ははっきりと答えたが、その声はわずかだがさっきまでのものとは何か違っているように感じられた。
何がどう、と具体的にいうことはできなかったが、それでも誠には確かに別物になっているように感じられ、それだけで誠の胸の奥が少し軽くなった気がした。
それから二人は少しだけ歩き、アパートの外を軽く回ることにした。
夜風が体を撫でる中、誠は澪を見た。澪は歩きながらも空を見ていた。相変わらず虚ろな目だったが、それでも部屋に閉じこもりだった時よりは
その目に色を取り戻していたような気がした。
誠の思い込みかもしれない。こうであってほしいという願望からの勘違いかもしれない。それでも誠には澪の変化が喜ばしく感じ、その変化は何かの始まりに見えた。
同時に、こんな些細なことに安心している自分が、つい数週間前まで澪を一人にしていた人間だという事実が、誠の中で重く存在していた。
――◆◇◆◇――
それから少しずつ、澪の行動範囲が広がっていった。
最初はアパートの前の道を少し歩いて戻るだけだった。それが一週間で公園の入り口まで行くようになった。また一週間経つと、公園の中を一周できるようになった。歩くペースはゆっくりで、途中で立ち止まることも多かったが、毎日少しずつ、けれど確実に澪の足は遠くまで届くようになっていった。
誠はその変化を感じるたびに、自分の中にある暗い思いに気づかされた。
澪が良くなっていくのを見て嬉しいと思う一方で、澪がここまで壊れる前に自分は何をしていたのかという自責の念が顔を出してきたのだ。
六月になった。
昼は暑く、湿気を孕んだ空気は人を不快にさせるが、夜は程よい涼しさのおかげで散歩をするには丁度いい気温だともいえる。
公園の桜は既に散り切っていて、代わりに茂っている青々とした葉がしっかりと地面に影を落としていた。その木陰のベンチに二人で座ると、桜が咲いていた時とは違った風情を醸し出していた。
同じ場所、同じ角度から見た景色のはずなのに、見えているものが違う。
「……葉っぱが、多いですね」
そんな季節の変化に今更ながら気が付いたようで、ある日公園のベンチに座っていた澪は突然呟いた。
今までも見ていたはずだが、そんなことにも気づけないくらい心が壊れていたのだから仕方ない。
だがこうして気づき、口にしたということは、多少なりとも周りを見る余裕が生まれたということだろう。
「そうだな。もうすぐ夏になるからな」
澪の自発的な呟きに驚いた誠はわずかに目を見開いたが、すぐに頬を緩ませながら、けれどいつものような態度を崩すことなく答えた。
「夏……そう、ですね。夏に、なるんですね」
そのやり取りを最後に二人はまた黙ったが、その沈黙は前のものとは違っていた。あの公園のベンチで並んで座っていた頃の沈黙に、少しだけ近づいていた。
澪の目に少しずつ焦点が戻っていた。
一度に戻ったわけではない。まだ誠を見ている目の奥には暗闇が残っていたし、感情のない人形のような表情も、目は虚ろなのに口元だけ笑っているのも同じだ。
だが、目も口も表情も、全てに微かな変化が表れていた。
いつも笑っているわけではなく、たまに暗闇に沈み切ってしまったような表情に戻ってしまったこともあり、直線的な回復ではなかった。
だがまるで引き潮と満ち潮のように繰り返しながら、しかし少しずつ確実に変わっていった。
誠はその変化を見ながら、急ぐことをしなかった。今度こそ間違えないように、と自分に何度も言い聞かせながら。
仕事である農作業には少しずつ復帰していた。リハビリの経過は順調で、六月の終わり頃には大体の作業は以前より時間がかかったものの問題なくできるようになっていた。
時間がかかる分だけ作業が遅れたが、それでも澪に会いに行かない日は作らなかった。来ると言ったのだから来た。それだけのことだったが、誠にはそれを守ることが自分の後悔を否定する唯一の手段のように思えていた。
――◆◇◆◇――
「うちに来てみるか?」
誠が澪をそう誘ったのは七月のことだった。
前々から思っていたことだ。公園で話すのも悪くない。一緒に散歩をするのも悪くない。けれど、それだけでは澪の心は治らない。
心とは本来もっと時間をかけて癒すべきものだ。心の傷は肉体の傷よりよほど治りづらいものなのだから。
だが自責の念に駆られ、澪にもっと笑っていてほしいと思った誠にとってはそんな常識は無意味なものだった。
だから、変化を求めた。その結果が自分の家に誘うこと。もっと言えば、仕事場に誘うことだった。誠以外に誰もいない仕事場。いるのは畑に植わった野菜とたまに近くを散歩している近所の人くらいなもの。状態が良くなったとはいえまだ人の多いところは不安が残るが、誰もいない畑なら問題ないだろう。欠点といったら仕事場とはいえただの畑なので見るものが何もないことだが、それでも変化は変化だと考えて誠は割り切ることにした。
だが突然の誘いに澪は一瞬何を言われているのかわからないといった表情を見せてから、少し驚いたような顔をした。
「誠さんのおうち、ですか」
「ああ。まあうちって言っても農地……畑だけどな。作業をしろとは言わないけど、たまには違う場所に行くのも、まあ悪くないだろ」
澪はしばらく考えてから、頷いた。その頷きが思っていたよりも早かったことに誠は内心驚きを感じた。これまでの澪なら、何かを決めるまでにもっと時間をかけていたはずだったから。だがたったそれだけのことが、誠には小さな進歩に見えた。
翌日の朝、誠は車に乗って澪をアパートまで迎えに行った。朝の空気はまだ涼しく、日差しも日中ほど強くない。天気予報では一日中晴れを告げており、これから作業をするには丁度いい気候だった。
澪を車に乗せた誠はいつもより丁寧に運転をし、二十分ほどかけて自分が継いだ農地へと向かう。
誠は隣に座っている澪を時々横目で見ていたが、澪はまるで初めて世界を見たかのように窓の外をきょろきょろと見まわしていた。そんな様子がどこか微笑ましさを感じさせ、誠も知らずのうちに小さなほほえみを浮かべていた。
澪が階段から落ちたと知ったあの日から、誠はどうしても澪のことを観察してしまっていた。何かあったらすぐに気づけるように。それが誠の罪悪感が形を変えたものだということに、誠自身うすうす気づいていたが、だからといってどうすることができるわけでもない。ただ罪悪感を抱えながら生きていくしかなかった。
しばらくして目的地にたどり着いた誠たち。車から降りた澪は普段とは違い、心なしか明るい表情で目の前に広がっている畑を眺めている。
目の前には広い畑が存在しており、大量の緑が育っていた。きゅうり、なす、トマト。支柱に蔓を這わせているものもあれば、地面に近いところで実をつけているものもある。
叩けだけではない。周囲を見回せば田んぼが広がっており、六月に田植えを終えたばかりの稲が整然と並んで青く伸びている。
畑と田んぼ。どちらも華やかで美しいものではないが、生き物が育っているという気配がその場所には満ちていた。
「広いですね」
思わず、といった様子で澪の口から言葉が零れた。実際、土地の広さだけで言ったら普通の一般家庭よりもはるかに面積があるだろう。澪の実家が裕福だったとしても、土地の広さだけなら田舎には及ばない。澪がこれだけの広さの土地を見たことがなくてもおかしくはなかった。
「田舎の農家なんてこんなもんだ」
ただ、誠にとっては見慣れた光景でしかない。都会とは言わずとも、街中に比べれば何もないつまらない場所。ただ、誠自身この光景は嫌いではなかった。誠にとって街中の喧騒は忙しなさ過ぎたから。
誠はそう答えながら、澪の様子を観察していた。敷地に入った時から、澪の目が変わっていたことに気づいていたからだ。ここではないどこか遠くを見ているのでも、虚ろなのでもない。目の前にあるものをしっかり見ていた。
その変化を見て、誠は胸の奥に居座り続けていた罪悪感が少し緩むのを感じた。同時に、こんな当たり前の景色一つで澪が変わっていく様子に安堵しているにもかかわらず、勝手な思い込みと決めつけから澪を一人にしていた人間だという事実が、重くのしかかる。安堵する権利が自分にあるのかと、誠は何度も自分に問いかけていた。
誠が過去の自分を見つめ直していると、澪はまるで誘われるように畑の縁に近づいていき、伸びているきゅうりの蔓を見た。触れるか触れないかの距離で、蔓の先端を目で追っていた。
そして、思わずといった様子で澪は手を伸ばしたのだが、キュウリの棘に触れたことで慌てて手を引っ込めた。そして、まるで自分の行動が想定外だったとでも言うかのように不思議そうな顔で自身の手を見つめ、少ししてから誠へと振り返った。
「これ、まだ育ちますか」
「ああ。まだ時期が始まったばかりだからな」
澪に問われたことで思考に没頭してしまっていた誠は意識を現実に戻して澪の問いに答えたが、慌てた様子の誠よりも目の前の野菜の方が気になったようで、澪は一瞬の間を置くこともなく問いを続けた。
「どこまで伸びるんですか」
「伸びるだけならどこまでも。ただ、支柱の高さまでいったら摘心するけどな」
「摘心?」
「先端を切るんだ。そうしないと上ばかり伸びて実がつかなくなるから」
誠がそう教えると、澪は蔓の先端を見たまま、そう、と小さく言った。
その相槌の仕方が誠にはなんだか新鮮だった。かつて公園のベンチで澪が日常の話をしていた頃の、あの感じに近かったからだ。
誠は思わず口元を緩めたが、それを澪に見られないように視線を畑の方へ逸らした。
――◆◇◆◇――
野菜を見ているのが好きなのか自然を見ているのが好きなのか、あるいは誠が作業しているのを見るのが好きなのか、最初に誠の仕事場に行った日から、澪はこの場所にもっと来たいと願った。
そのことに驚きはしたものの、誠は澪の変化をはっきり感じとることができてうれしくなって快諾し、その日から二人は夜に会うのではなく、朝に会ってともに誠の仕事場まで訪れていた。
澪が農作業を手伝い始めたのは、その翌週からだった。
最初は誠の作業を眺めているだけだった。誠が雑草を抜いていると、その様子を少し離れたところから見ていた。誠が水をやっていると、ホースの先から出る水が土に吸い込まれていくのを目で追っていた。何も言わず、ただ見ていた。
誠はその様子を気にかけながらも、無理に手伝わせることはしなかった。澪が見ているだけで満足しているのならそれでいい。そう思っていたが、内心では澪が何もしないままでいることを少し心配していた。場所が変わったとはいえ、眺めているだけで何もしない状態では余計なことを考えてしまうのではないかと不安に思ったからだ。
一週間ほど見ているだけの時間が過ぎてから澪が言った。
「私も、やっていいですか」
誠は少し考えてから頷いた。仕事として働いてもらうつもりはなかったが、澪が自分からやりたいと言ったのは初めてのことだった。断る理由がない。
それどころか、誠はその一言に内心安堵していた。澪の方から何かをしたいと言えるようになったということが、誠にはそれだけで意味のあることに思えた。
「なら収穫をしてくれ。きゅうりは成長が早くてな。一日に二回収穫しないといけないんだ」
「はい」
澪は誠の隣に移動し、誠が指をさした場所を見ると手を伸ばしてキュウリを掴んだ。だが掴んだままどうすればいいのかわからず、隣にいた誠を見上げてしまう。
そんな澪の様子を見て、誠はちょっと待ってろと言ってから歩き出し、少ししてからはさみと籠を持って戻ってきた。
それからどんなものを収穫するのかを教えていき、澪はその教えの通りに収穫をしていった。
最初は少し手間取っていた。きゅうりは茎も葉もうっすらと棘がついているため、むやみに手を突っ込めば棘が刺さって痛い思いをすることとなる。その棘を恐れ、澪はおずおずと躊躇いがちに動いていたのだから作業が早いわけがない。それでも誠はことあるごとに澪の様子を見て心配しつつも優しく教えていった。
澪は黙って聞いて、教えられたとおりに収穫を続けた。
手が土や植物の汁で汚れた。爪の間にも土や葉の残骸が入った。きゅうりの棘が肌を摺り、赤く跡がついてしまった。白魚のような、と表現することのできた綺麗な手がどんどん汚れていったが、澪はそれを気にしなかった。むしろ傷つき汚れた手を見て、何かを確認するように少しの間眺めていた。
「どうした」
「いえ」
澪は首を振ってまたきゅうりの収穫へと戻っていく。誠はその様子をしばらく見てから、自分の作業に戻った。聞いたところで答えが返ってくるとは思えなかったし、無理に聞き出すべきことでもないと思ったから。
それから二人の日課が変わった。夜に会っていた二人は朝に時間が変わり、車で共に作業場に来てともに時間を過ごしていた。そんな生活が一週間も続くと、誠は澪用に作業着を用意し、澪は申し訳なさそうにしながらもどこか嬉しそうに作業着に着替えていた。そうして誠の指示に従いながら、できることを一つずつやっていく日々。
時間はどんどん過ぎていき、気づけば七月に入っていた。七月の日差しは強く、ろくに動いていなくとも汗が出てくる。そんな中で作業をしているとだらだらと止まることなく汗があふれてくる。澪は時々手の甲で額を拭いながら、それでも手を止めなかった。体が弱っていたから最初の頃は少し作業をすれば疲れたが、それでも誠が休憩をするまでは自分も座らなかった。
「無理するなよ」
「はい」
「日差しがきつかったら陰に移動するんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
そんなやり取りが繰り返された。誠は澪の頑固さに呆れながらも、その頑固さが悪いものではないと感じていた。むしろ、頑固に何かを続けようとする澪の姿に、誠は密かに安心していた。何もしないまま生きる理由がないと言っていた澪が、今は意地を張ってまで作業を続けている。その変化が、誠には何よりの証拠に思えた。
かつてのアパートの部屋で布団に横たわったまま天井を見ていた澪と、今畑で作業をしている澪は、同じ人間だとは思えなかった。
だが同じ人間なのだと誠は何度も自分に言い聞かせた。あの虚ろな目をした澪も、今額に汗を浮かべている澪も、どちらも自分が傷つけた澪なのだという事実から、誠は目を逸らさないようにしていた。
――◆◇◆◇――
八月になった。
夏の盛りに差しかかったこの頃になると、農作業の忙しさはまた一段と増した。稲は順調に育っているように見えるが、それで気を抜くわけにはいかない。水管理を間違えれば根が傷む。雑草を放っておけば養分を取られる。畑の方は畑の方で、夏野菜の収穫が最盛期に入りつつあった。きゅうりは一日見ないだけで太くなりすぎる。トマトは熟しすぎれば落ちてしまう。なすは地面についてしまえば傷になってしまう。
誠が手を動かす時間が増えたのは、当然の流れだった。
そんな中で、澪も少しずつ作業に加わるようになっていた。
最初の頃は、キュウリの収穫だけでも休憩を挟まなければ続かなかった。十分作業をしては座り込み、麦茶を飲んでまた立ち上がる。その繰り返し
でも、澪は嫌な顔をしなかった。誠が休めと言っても意地を張って作業を続けるほどやる気に満ちていた。誠としてはその自分から物事に取り組む姿が見られるようになっただけで、十分な進歩だった。
ただ、夏の日差しの下でずっと作業をさせておくことに不安があったのも確かで、収穫したきゅうりを箱に詰める作業や、傷んだ実を取り除く作業といった座ったままでもできる作業を澪に任せ、誠は重いものを運んだり、高いところの作業を引き受けたりした。役割分担と呼べるほど明確なものではなかった。だが二人で動いていると、自然とそのような形になっていた。
ある日の作業中、誠が小休憩として日陰で麦茶を飲んでいると澪が支柱の根元を見ていた。
「これ、大丈夫ですか?」
指をさしながらの問いかけに、誠は近づいてその指の先を見た。確かに紐が緩んでいて、ナスの茎が支柱から少し離れかけていた。
「ああ。よく気づいたな」
「結び直しますね」
澪はそう言って、結び目を解こうとしたがうまくいかなかった。誠が解き方を見せると、澪は黙ってその手元を見ていた。そして誠が結び終えると今の光景を反芻するかのように目を閉じ、かと思ったら紐を持って近くのナスへと向かっていった。
だが一度見ただけでは覚えきれなかったようで梃子摺りながら試行錯誤をして結んでいる。別にそこまで真剣に結ぶ必要はないんだが、と思った誠だったが、折角澪が自発的にやりだしたのだ。それに、しっかりと止めて悪いことはないんだから好きにやらせておけばいいだろうと、誠は微笑ましく見守ることにした。
そうして誠が見守っていると、梃子摺った甲斐はあったようで澪はしっかりと茎を支柱に止めることができた。
その紐を結び終えた時、澪はわずかに口角を上げた。笑った、というほどでもない動きだった。だが誠はそれを見逃さなかった。見逃さなかったが、何も言わなかった。言葉にすれば、澪が次から表情を出さなくなるかもしれない。そんな気がしたから、誠はただ休憩を切り上げて自分の作業に戻った。
――◆◇◆◇――
八月の半ばを過ぎた頃、誠は澪に簡単な料理を教えるようになった。
最初は澪の方から言い出したことだった。作業場の一角で誠が用意した弁当を食べていた時、澪がぽつりと呟いたのだ。
「私も、作れるようになりたいです」
誠は少し驚いた。澪が何かを「したい」と口にするのは、今までほとんどなかったことだったから。
「料理か」
「はい。今まで料理をしたことがなかったので」
一人暮らしの間は値引きされた弁当や味のない食パンなどで過ごしていた。恋人がいた時はちゃんとした弁当を買っていたが、それだって自分で作っていたわけではない。
ただ、このままではいけないと思ったのと同時に、澪は純粋に自分でも作ってみたい、作ってあげたいと思ったのだ。誰に対して作ってあげたいと思ったのかは澪自身意識していなかったが、そんな思いがあったのは確かだった。
「別に今時は作れなくても気にしなくていいと思うけどな」
「気にしてるんじゃないんです。ただ……作れるようになりたいんです」
澪はそれだけ言って、白米を一口食べた。誠はその横顔を見ながら、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、今度一緒に作ってみるか?」
そしてその〝今度〟が、その週の終わりにやってきた。夕方に農作業を終えた誠は澪を台所に立たせ、味噌汁の作り方を教えた。出汁の取り方なんて教えない。ただ具を切って味噌を溶いて鍋に突っ込む。それだけだ。
料理を教えるにしてはいい加減すぎるかもしれないと思うだろうが、本当の初心者が最初に作る料理なんてこんなものでいいだろうと判断した結果だった。
けれどそんな誠の考えは間違っていなかったようで、澪は包丁の使い方すら知らなかった。
正確には、知らないわけではなかったらしい。だが、自分一人で何かを作るために包丁を握ったことはなかった。
誠が手本を見せ、怪我をしないように細心の注意を払いながら澪に野菜の切り方を教えていく。澪の手は白く、細かった。包丁と不釣り合いな手だ、なんて感想が誠の頭の中に浮かんだほどだ。
そんな小さな澪の手で切られた野菜は不揃いだった。だが誠はそれで構わないと思った。むしろ不揃いながらもしっかりと切れている野菜を見て、誠は妙に嬉しかった。
味噌汁を澪が一人で味見をして、足りない味噌を足し、また味見をして、ようやく完成した。
「できました」
「そうか。お疲れさん」
そうして味噌汁を作り終えた二人はそのまま夕食とすることになったのだが、二人が最初に口をつけたのは澪が作った味噌汁だった。
澪は自分が作った味噌汁を、おそるおそる口にした。少し味が薄く、思っていた味とは違っていたようで、わずかに顔をしかめた。
「薄い、ですね」
「次はもう少し入れればいい」
「はい」
その〝はい〟の言い方が、なんだか誠には新鮮に感じられた。失敗を失敗として受け止めて、次があるという前提で答えている。以前の澪なら、失敗そのものに沈んでいただろう。それが今は、失敗の先のことを当たり前のように見ている。
誠は澪の作った味噌汁をすべて飲んだ。野菜がごろついて食べづらかったが、それでも文句は言わなかった。
――◆◇◆◇――
その夜、澪は珍しく自分のことを話した。
夕食を終えて、澪を家に送るべく二人歩いていた時のことだった。八月の夜風は熱気を孕んでいたが、それでも昼間の暑さと比べれば随分と過ごしやすい。
「子供の頃、母に言われてピアノを習っていたんです」
澪はそう切り出した。誠は驚いて澪を見たが、口を挟まなかった。
「特別好きだったというわけではありませんが、母が元ピアニストだったので自然とやっていました」
「そうなのか」
「ただ、やはり好きだったわけではなかったんだと思います」
澪はそう言って、少し笑った。その笑みはどこか悲し気で、申し訳なさを宿しているように感じられた。
「でも、嫌いだったわけでもないんです。譜面通りに弾けた時は、嬉しかったきがするので。ただ、自分から好きでやっていたわけじゃなかったから、どこかでずっと他人事のように弾いていた気がします」
誠は黙って聞いていた。澪が自分の話をするのは、これが初めてのことではなかった。だが、こうして昔のことを順序立てて話すのは初めてだった。
「葛木さんと出会って、あの人と話している時に初めて、自分から何かを選んでいる気がしたんです」
葛木の名前を澪が出したのも、初めてだった。誠は身構えそうになったが、澪の口調が淡々としていたので、そのまま聞き続けた。
「でも、それも、結局は……自分から選んでいたわけじゃなかったのかもしれません」
澪はそこで言葉を止めた。
誠は何と返すべきか迷った。迷った結果、何も言わないことにした。澪が話したいことをすべて言い終えるまで、ただ聞いている。それだけで充分だと思った。
「あの場所で野菜を収穫した時。収穫した野菜を自分で食べた時。私はやっと自分で何かを選んだ気がしたんです。誰に言われたわけでもなくて、自分でやろうと思ってやっている。そんな気がしたんです」
誠はようやく口を開いた。
「そうか」
それだけだった。だが澪はその一言を聞いて、小さく頷いた。
「はい」
そうして二人はいつも通り無言になったり、短く言葉を交わしたりしながら夜道を歩いていった。
――◆◇◆◇――
八月の終わりが近づいてきた。
日中の暑さはまだ厳しかったが、朝晩の空気に少しずつ違うものが混じり始めていた。日が落ちる時間が早くなっていることに、誠は作業をしながら気づいた。七月の終わり頃はまだ明るかった時間が、今ではもう暗くなっているということがよくあった。季節は静かに、しかし確実に動いていた。
その日は夕方に雷雨があった。
夏の終わりによくある急な雨で、誠と澪は慌てて畑から屋根の下に逃げ込んだ。逃げ込んだはいいが、収穫しかけていたきゅうりの籠が畑に残ったままだった。誠は溜息を吐いてから雨の中取りに行こうとしたが、それよりも先に澪が飛び出していた。
「澪!」
誠の声を聞かずに、澪は雨の中で籠を抱えて戻ってきた。全身が濡れ、髪が体に張り付いている姿を見て、誠は呆れた顔をしたが怒る気にはなれなかった。
「そんな急がなくてもよかったのに」
「ごめんなさい」
「……ありがとな」
咎められたと思ったのか澪は少し気落ちした表情を見せていたが、それを見た誠は小さく息を吐き出してから感謝を告げた。これほどの雨の中畑を走るのは危険だから小言を言ったが、取りに行ってくれたのはありがたいことだったのは間違いなかった。
澪は籠を雨の当たらない場所に置いて、張り付いている髪を見た。それからふと、誠の方を見て少し笑った。
「久しぶりに、走りました」
久しぶりに走った。当たり前のことのように聞こえる言葉だが、澪の口から出ると違った重みがあった。階段から落ちて以来、澪は走るということをしていなかった。
怖くてできなかったわけではない。ただ、走るという意思が存在しておらず、走るという気力が湧いてこなかったのだ。それが今日、籠を取りに行くという理由で、自然に体が動いていた。
誠はタオルを持ってきて、澪に差し出した。
「風邪ひく前に拭いとけ」
「はい」
澪はタオルで髪を拭きながら雨を見ていた。雨はまだ強く降っていて、畑の土を打ち、葉を揺らしていた。
その横顔を、誠は見ていた。濡れた髪が頬に張り付いていて、まつ毛にも水滴が残っていた。あの大晦日の夜に公園のベンチで見た澪の顔と、今の顔は、もう別人だと言っていい。あの夜の澪の顔には爪の跡が残っていて、目には何もなかった。だが今の澪の頬には雨の水滴があって、目には夏の終わりの雨を見ている人間の眼差しがあった。
誠は自分の胸の奥が、小さく軋むのを感じた。
軋んだのは罪悪感だったかもしれない。あるいは、別の何かだったかもしれない。誠はそれを言葉にしようとせず、ただ黙って澪の隣に立った。それでいいのか分からなかったが、それしかできなかった。
――◆◇◆◇――
しばらくして雷雨が過ぎ去ると、空気が一気に冷えた。
雨に洗われた畑から土の匂いが立ちのぼる。葉の上に残った雨粒が、夕日の残り光を受けて光っていた。誠と澪は軒近くに置いてあった箱の上に座り、その光景をしばらく見ていた。
「夕立の後は、空気が違いますね」
吹き抜ける風を楽しむように目を閉じている澪が言う。
「ああ。ずっとこれくらいの気温だといいんだけどな」
「それだと夏らしさがなくなってしまいますよ」
「夏らしさなんていらないって。あんな暑いとやってられん。早く夏が終わってほしもんだ」
冗談を言うように笑いながら話している誠と澪だったが、不意に澪はどこか寂しげな表情を浮かべながら黙り込んでしまう。
「……私は、まだ夏が終わってほしくないです」
まさか澪がそんなことを言うとは思っていなかった誠にとって、その言葉は意外だった。だが澪は驚いている誠ではなく、畑の方を見ていた。つられて誠も澪から畑へと視線を移す。
「終わってほしくないか」
「はい。なんだか……ここまで来た夏が、終わってしまうのが――」
澪はそこで言葉を止めると、視線を彷徨わせだした。そして、彷徨った視線は誠へと向けられる。
そんな澪の視線に気づいた誠は澪の視線に応えるように再び畑から澪へと顔を向け直したが、澪はスッと畑へと向き直ってしまった。
「……少し、もったいないんです」
もったいない、という言葉を澪が使ったことに、誠は少し驚いた。澪は今までそういう種類の感情を表に出すことが少なかった。医師は伝えても感情は伝えない。喜びも悲しみも、表に出さないか、出しても薄かった。それが今までの澪だ。
だが今の〝もったいない〟には、確かに澪自身の感情の重みがあった。
「夏が終わっても秋があるだろ。秋になったらまた別のものあるさ」
「そうですか」
「そうだ。秋は秋でいいものがある。少なくとも、暑さでバテることはないしな」
誠はそう言って笑った。だが澪はあまり納得していない様子だった。澪にとっては、この夏が初めての〝夏〟だったのだ。土に触れて、種をまき、実が育つのを見て、自分の手で収穫をした夏。それが終わってしまうことを、澪は素直に惜しんでいた。
その素直さが、誠には嬉しかった。何かを惜しむということは、それを大事に思っていたということだ。澪が大事に思えるものを持てるようになった。それが誠にとっては嬉しかった。
――◆◇◆◇――
九月に入った。
昼の厚さはまだ変わらないが、九月という呼び方のせいだろうか。誠はどことなく涼しくなったような気がしていた。だがこの暑さは例年通りなら十月くらいまで続くのだから、やはり気のせいなのだろうと流した。
夏野菜の収穫もまだまだ続く。最初に採っていた苗はもう終わりを迎えたが、時期をずらして種をまいたものはまだまだこれから実をつけるものがある。加えて、秋野菜の手入れもしなくてはいけないのだから、もしかしたら今が一番忙しい時期かもしれなかった。
だがそんな忙しさも、昨年ほどではない。いつもは一人でやっている作業も、今年は澪という手伝いがあった。純粋な仕事として作業をしているわけではないので倍の効率を出せるというわけではないが、それでも手伝ってくれるのはありがたいことだ。
「何を植えるんですか」
終わった夏野菜の苗を撤去し、その部分の土を耕して畝を作っている誠を見ながら澪はどことなく楽しげな雰囲気を出しながら問いかけた。
「大根ニンジン玉ねぎに、小松菜ほうれん草……まあいろいろだな」
「全部種からですか」
「ああ。畑に直接撒く」
しばらくして畑を耕し終えた誠は、袋に入った大根の種を澪に見せた。
種は小さく、丸く、薄い茶色をしている。澪はそれを受け取って掌に載せると、しばらくの間種を見続けていた。
「これが、大根になるんですか」
「ああ。まあ全部の種から芽が出るってわけでもないし、後で余計なのを間引いたりするからまともに育つのはこのうちの半分以下だけどな」
「そうなんですね」
澪はそう言って、種を一粒つまんだ。指の腹で挟んでいる種を、じっと見ていた。
「こんなに小さいのに、あんなに大きくなるんですね」
「植物なんてそんなもんだ」
「……人間とは違いますね」
その一言に、誠は思わず動きを止めてしまった。
澪は気にしていない様子で種を袋に戻しているが、誠にはその言葉が引っかかった。植物と人間は違う。澪の口からそれが出てきた時、誠は澪が自分の腹の中にいた子供のことを思い出しているのではないかと思ったのだ。
だが実際に思い出していたかどうかは、誠には分からなかった。聞くこともしなかった。ただ、その後の種を植える時に澪の手つきがいつもより慎重だったのを、誠は黙って見ていた。
何かに気づいたとしても、それを言葉にすることが正しいとは限らない。誠はそう自分に言い聞かせて、澪と共に畑に種をまいていった。




