六章『再会した夜』
「どう、したんだ?」
誠の口から出てきたのは、それだけだった。
自分が三週間も来なかったことへの説明も、謝罪も、心配していたという言葉も、全て後回しになった。そんなことよりも目の前にいる澪の変化があまりにも大きすぎた。腹の丸みが消えていることも、頬が落ちていることも、肌の艶がないことも。そして……澪の浮かべている虚ろで不気味な笑み。笑っている、といえるほどの笑みじゃない。けれど、確かに笑っている。
その全てが誠にのいない三週間の間に何かが起きたのだということを告げていた。
「ここにいました」
澪は先ほどと同じ平らで感情の起伏がない声で答えた。誠の問いに対する答えとしては些か的外れではあったが、だが誠はそれを指摘する気にもなれなかった。
澪はドアを開けたまま誠を見ていた。その目が誠をとらえているのかどうか、はっきりしなかった。焦点が合っているようで合っていない。誠という人間を認識しているようで、どこか別のものを見ているようでもある。
「なにが……?」
誠は困惑し、躊躇って視線を彷徨わせた後、意を決して口を開いた。
だが腹のことを聞くべきなのか、それとも別のことから聞くべきなのか。どう問いかければいいのか分からないまま、ただ曖昧な問いかけのような言葉だけがこぼれ出た。
「……死んじゃいました」
澪はそう告げた。まるで何でもない事かのように。ただの事実を語るかのように。
だがその言葉の意味を、誠はすぐには受け取れなかった。
死んじゃいました、という言葉があまりにも無機質に発せられたせいで、一瞬それが何を指しているのかが分からなかった。
だがその言葉の意味をすぐに理解した。腹の丸みが消えているのを見ればわかることだ。……わかってしまえることだった。
何が起きたのか誠にはわからない。だが、何かが起きたことと、その結果だけは簡単にわかってしまった。
誠の口が動く。けれど言葉は出てこない。
誠の指が動く。けれど何かを掴むことはない。
誠の目が動く。けれど目の前にいる澪を見つめることはできない。
かける言葉がわからず、どんな行動をとるべきなのかもわからず、目の前にある結果を直視することもできず、ただ何もしないまま、何もできないまま逃げる事しか誠にはできなかった。
澪はそこで少し間を置いてから、再び話し始めた。階段で足を滑らせたこと。救急車で病院に運ばれたこと。子供が助からなかったこと。それだけを、順番に、事務的に。その声に感情はなく、ただ事実を報告をしているような話し……説明だった。
誠は黙って聞いた。黙って聞くしか、なかった。聞きながら、自分の中で何かが重くなっていくのを感じて、それでも聞くのをやめることはできなかった。
三週間。誠が入院していた三週間の間に、澪にはそれだけのことが起きていたのだ。
澪の話を聞いた誠は、松葉杖を握りしめながら三週間の自分の行動を思い出す。澪が大変だった時、その間自分は何をしていた? 何を考えていた? くだらない特別感なんかのために、〝何か違う〟なんてくだらないことを考えて、くだらないことを悩んでいなかったか? くだらない子供じみた考えなんて捨てて、さっさと連絡をしていたら何か変わっていたんじゃないのか? そんな考えが誠の頭の中を埋め尽くし、
「ごめん」
気づけば誠は謝っていた。謝ってから、その言葉の意味のなさを思い知った。謝って済む話ではないのだ。そんなことは誠自身分かっている。
……だが、他に何が言えるのかも分からなかった。
「なんで謝るんですか」
澪は言った。その声に責める色はなかった。ただ純粋に疑問として発しているような、そんな口調だった。
「あなたのせいじゃないのに」
そう言って、澪は笑った。先ほどまでのようなほんの微かな笑みではなく、はっきりと、〝笑った〟のだ。
ただし、そこには何の感情の色も載っていなかったが。
口角が上がり、表情が和らいだのは確かだ。だがその笑みは誠が今まで見た事のあるものとは違っていた。
明るかった。明るすぎた。子供が死んだという話をした直後の表情として、あまりにも場違いなほどに明るかった。虚ろな眼差しと明るい笑み。そのちぐはぐさが、誠に澪を異質なものに見せた。
「部屋の中に入りますか? 散らかっていますけど」
以前よりもはっきり喋るようになった澪はそう言ってドアを大きく開けた。その動作は自然で、声のトーンも穏やかだ。誠を招き入れることに対して躊躇いがないように見える。だからこそ、不気味さが増した。
以前一度は行ったはずの部屋が、今はどこか別の場所に繋がっているように思えてしまい誠は少し迷ったが、こぶしを握り締めて覚悟を決めると澪の部屋の中に入った。
――◆◇◆◇――
覚悟を決めて入った部屋は、前に来た時よりも暗かった。どこが、というわけではない。カーテンが閉められていることも、閉められてなお光が入ってくるところも変わらない。内職のための作業台があるのも、その上に道具があるのだって同じだ。しいて言うなら布団が敷きっぱなしになっていたが、夜という時間帯であることを考えると特段おかしなことではないはずだ。
ただ、その部屋の中には退廃的な空気とでも言えるものが漂っていた。
何も変わっていないのに、何かが決定的に間違ってしまっているような感覚が誠の中に生まれた。
澪は座布団も何もない床の上に腰をおろした。以前までのお腹を気づかった動きとは違い、とても自然な動作だった。そんな動作を見てわずかに眉を顰めながら、誠は松葉杖の扱いに気を付けながら空いているわずかなスペースに腰を下ろした。
そうして澪と向かい合い、言葉をかけようとし、だが言葉が出てこなかった。何度か口を開いては閉じてということを繰り返し、ようやく誠は言葉を発することができた。
「実は事故に遭って」
だが、ようやく出てきた言葉は、澪に対する心配ではなく、自分の行動に対する弁明だった。
なぜ会いに来なかったのか説明しなければならないと思ったからだが、言葉にした瞬間に言い訳のように響くのが誠自身理解できてしまった。
それでも誠は話し続けた。対向車が突っ込んできたこと。骨折して入院していたこと。連絡できなかったこと。それらを、まるで免罪符のように話し、自分は悪くなかったのだと吐き出す。
「そうだったんですか」
誠の話を聞いて澪は笑みを浮かべたままゆっくりと頷いた。
「大変でしたね。心配していたんです」
心配していた、という言葉を澪は何でもないように言った。大変だったのは澪自身の方だっただろうに。
子供を失い、体を傷め、一人で過ごしていた間も誠のことを心配していたと語り、葛木のように離れていったのではないかと不安を告げる澪。その言葉が嘘だとは思わない。だがその言い方が、あまりにも穏やかすぎた。
不平も不満もなく、恨み言や弱音の一つも吐かないで誠だけが大変だったかのように振舞うなど、どう考えてもおかしい。
「ごめん」
誠はようやく謝罪を口にした。それは連絡なんてしなくてもいいだろうと判断し、澪に知らせなかったことへの謝罪。それを、誠はようやく口にすることができた。
「いいんです」
澪は笑みを浮かべながら頷いた。見ようによってはとても優しい笑みだろう。だが、相変わらず目は空虚な闇を映しているままだった。
「誠さんが無事だったなら、それで。またたくさんお話しましょう?」
その言葉を聞いた時、誠の中に奇妙な感覚が生じた。
また話しましょう、という言葉自体はおかしくない。だがその言葉を、子供が死んだという話をした直後に、何事もなかったような口調で言える人間が、普通の状態にあるとは思えなかった。
誠は澪の顔を見た。澪は穏やかな表情を浮かべていた。目が、誠を見ていた。だが見ていながら、その奥に何もなかった。
笑っているのに、目が笑っていない。そんな表現では追いつかない何かがそこにあった。笑っている表情の裏に何かを隠しているのではなく、そもそも隠すべき何かが存在していないような、そんな空虚さだった。
「お前は」
思わず口を開いた誠だったが、言いかけてから言葉を選び、視線を彷徨わせた。そして、一瞬躊躇ってから澪へと問いかけた。
「それで大丈夫なのか?」
誠から問われた澪は質問の意図が理解できず、思わず小首を傾げた。その動作も自然なものだ。だからこそ不自然だった。
「何がですか?」
誠の言葉の意味が分からない、とばかりに問い返した澪だったが、本当に分からないのか、それとも分かっていて分からないふりをしているのか、誠には判断がつかなかった。
もしとぼけられているのならこれ以上踏み込むべきではないのだろう。誠は一瞬怯んだ様子を見せたが、ここで引いてはいけないと感じ、一歩踏み込んだ。
「子供が、死んだって」
誠が直接口にすると、澪の表情が一瞬だけ〝死んだ〟。顔の動きが止まり、目つきが澱み、笑みが崩れた。。
「そうですね」
だがそれは本当に一瞬で、澪はすぐにまた穏やかな笑いを浮かべながら頷き、話を続ける。
「悲しかったです。でも、もう大丈夫ですよ。だってほら――」
澪は続けようとして、続きの言葉が出てこなかった。
だってほら、の後に何かを言おうとして、口を開いて、それでも言葉が出てこなかった。大丈夫だと言うための言葉を、澪自身も持っていなかったのだ。
だってほら、の後に何が来るのかを澪自身がわかっていなかった。だからこそ言葉が続かない。
それでも大丈夫だと言おうとしていた。大丈夫だと言える自分でいようとしていた。けれど無理だった。当たり前だ。だって、大丈夫なんかではないのだから。
言葉が止まり、沈黙が訪れても澪の笑顔はそのままだった。だが笑顔のまま、澪の目から涙が流れた。
澪は零れた涙を拭おうとしなかった。いや、そもそも気づいていないのかもしれない。澪は笑ったまま、ただ涙だけが流れていた。
その光景が、誠には今まで見てきた何よりも痛かった。声をあげて泣いてくれた方がまだマシだった。罵詈雑言を浴びせ、お前のせいだといってくれた方がよほどありがたかった。
悲しくて悲しくて、悲しすぎて、自分が泣いていることにすら気づけない人を見るのは、責められるよりもずっと苦しい。
そこでようやく誠は理解できた。
――澪は大丈夫などではなかったのだ、と。
大丈夫なんかじゃなく、決定的に壊れてしまっていたのだと。
王理解した瞬間、誠は思わず手を伸ばした。伸ばしかけて、止めた。
躊躇ってしまったのだ。相手は年若い女性で、自分は三十を過ぎた男。
未成年の少女に不用意に触れることの問題を誠は知っていた。だから少女が泣いているからといって抱きしめるなんてことは、やらない方が良いという常識が頭に浮かんだ。
だがその考えが頭を過ぎった瞬間、誠は自分の情けなさに気づいた。
目の前で泣いている人間がいる。心が壊れてしまった人間がいる。それを見ながら、自分の立場を考えて手を引っ込めようとしている。保身を優先している。
そんなくだらない考えが浮かんでくる自分に、苛立ちを通り越して吐き気がしてくる。
こんな状況でもどこか冷静に考えられる自分がムカつく。
自分のことではないからと他人事のように物事を見ている自分がムカつく。
泣いてくれた方がマシだと考えながらも、泣かないでいてくれてよかったと思っている自分がいることにムカつく。
惰弱な心を噛み砕くように唇を強く噛み締めて、そうして今度こそ誠は澪へと手を伸ばし、抱きしめた。
腕を回して引き寄せる。それだけだった。言葉はない。どう声をかければいいのかも分からない。声をかけることが正解だとも思えない。ただ、何が正解なのかわからないまま、体だけが先に動いていた。
澪の体は小さかった。
分かっていたことだったが、抱きしめると改めてその小ささが誠の腕に伝わってくる。背が低いというのも確かにあったが、何よりも〝薄かった〟。骨の感触が分かるほど、体から肉が落ちていた。こんなに小さな体が、この三週間ずっと一人でいたのだ。誠が入院している間も、子供を失った後も、たった一人この薄い体でただ存在し続けていたのだ。
その認識が、誠の胸を内側から押した。
澪は最初、動かなかった。誠に抱きしめられながら、人形のように静止していた。誠に対して腕を回すわけでもない。体を預けるわけでもない。ただそこにあるだけだった。誠はそれでも腕を緩めなかった。緩める理由がなかった。
しばらくして、澪の体が小さく震えた。
声はなかった。嗚咽もなかった。ただ、肩が震えていた。次いで、誠の肩口に澪の顔が押しつけられる感触があった。押しつけた、というより、力が抜けてそこに倒れ込んできただけといえる感触。
そして澪が、泣いた。
声になっていない。言葉にもなっていない。唸るとも違う、何かが絞り出されるような、小さな音だった。それが澪の口から漏れていた。抑えようとして抑えきれなかった音なのか、澪自身気づいていない音なのか、誠には分からない。だがそれは確かに澪の体の中から出てきているもので、今まで誠が澪から聞いたどんな言葉よりも澪の状態を正直に伝えていた。
「ごめん」
誠は震える唇を動かして再び謝罪した。
「……ごめんなさい」
誠の言葉に反応してか、澪も謝罪を口にした。
誠は驚き、ピクリと動きを止めた。澪が謝る理由などないのだ。なぜ澪が謝るのか分からない。だが澪はまた繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
言葉になっているか、いないか、ぎりぎりのところの声で、澪は繰り返した。何に対しての謝罪なのか。誠に対してなのか、子供に対してなのか、それとも誠には分からない誰かに対してなのか。誠には分からなかった。
分からず、答えられず、それでも何かしてあげたいと思い、ただ少しだけ腕の力を強めた。それだけのことしかできなかった。それ以外に今の誠にできることもなかった。
――◆◇◆◇――
どれほどの時間が経ったのか、誠には分からなかった。
澪の震えが少しずつ収まっていった。声も、次第に聞こえなくなっていった。泣き疲れたのか、それとも別の何かが落ち着いたのか。ただ、澪の体から少しずつ、張り詰めていたものが抜けていくのは誠にも感じられた。
しばらくして澪は体を離し、誠も腕を緩めた。澪は俯いたまま、膝の上に手を置いていた。さっきまであった笑顔はなかった。かといって何かを表現しているわけでもない。ただ本当に、全てが抜け落ちてしまったような虚ろな顔だった。だが誠にはその顔の方がずっと澪らしく見えた。
「……誠さんは」
しばらくしてから澪の口からかすれた声が零れた。
「どうして、謝るんですか」
さっきも同じことを聞いていた。だが今回の問いかけの質は違った。さっきは言葉の意味が分からないという問いかけだったが、今は本当に理由を聞きたいという問いかけだった。
「来なかったから」
誠が最も後悔しているのはそれだ。つまらない意地。くだらない思い込み。幼稚な感情。それらの結果が〝今〟だ。
「事故に遭ったのは本当だ。でも、それを伝えることはできたんだ。それなのに、俺は……。連絡さえしていれば、澪を不安にさせることもなかったし、お腹だって……」
この状況に至ってもはっきりと自身の心の内を語ろうとしない誠。澪はそんな誠の言葉を虚ろな表情のまま聞き続けた。
「伝えてほしかった、とは思いません。事情や考えは人それぞれでしょうから」
無表情で淡々と語る様はまるで見捨てられてしまったかのように感じられて、誠は澪の顔を直視することができなかった。
「でも……来ない理由が分からなくて、自分が何か悪かったのかと思っていました」
その言葉を聞いた瞬間、誠の胸の奥で何かが軋んだ感覚がした。胃の奥から吐き気がこみあげ、口の中にはネバつく嫌な味が広がっている。
澪が自分を責めていたこと。自分が悪かったのだと思っていたこと。それがすべて誠のせいだとわかっているからだ。
「違う」
自身への苛立ちから歯を噛み締めた誠は、血を吐くように告げた。
「澪は何も悪くない。全部俺が勝手に決めたことだ。勝手に決めて……何もしなかった」
澪は頷くわけでもなく、否定するわけでもない。ただ、誠の言葉を聞いていた。
部屋には沈黙だけがあった。薄暗い部屋の中に二人いるにもかかわらず、何も聞こえてこない。
「子供が」
沈黙を破るように唐突に澪が口を開いた。
「死んで、ようやく分かったんです」
誠は何も言わない。ただ澪の言葉を黙って聞き続ける。
「もう、何もないんだって」
澪の声は静かだった。感情が乗っていないのではない。感情が乗るだけの何かが、既に澪の中から失われていた。だからこそ静かに聞こえる声だった。
「葛木さんは帰ってきません。子供もいなくなりました。実家にも帰れません。誠さんも……来なくなったと思っていました」
一つ一つを確認するように、澪は並べた。
「だから、もう何もないんだと思ったんです。頑張れる理由が、何も」
その言葉を聞いた時、誠は慎重に澪の顔を見た。だが澪は俯いていて、その表情見ることは叶わない。
頑張れる理由が何もない。澪は何を考えてそんな言葉を口にしたのか。
頑張れなかったらどうなるのか。頑張らなかった先に待っている未来を、誠は確認したかった。だが直接聞くことは躊躇ってしまた。
もし言葉にして聞いてしまえば、その問いが澪をより暗い場所に引き込む可能性があるような気がしたから。
「今は」
澪に対する最悪の未来を想像してしまった誠は、そんな未来にしてたまるかと思い、気づけば言葉が自身の口からあふれていた。
そのことに気づいて一瞬言葉を止めようかとも考えた誠だったが、再び感じた自身の情けなさを噛み砕き、自分自身の意思でまっすぐ澪を見据えながら口を動かした。
「――俺がここにいる」
誠からはっきりと告げられたその言葉を聞いて、澪は顔を上げた。
顔を上げて最初に澪が見たのは、誠だった。自身のことを見つめている誠。そんな誠の目を見つめ返しながら、澪は徐に口を開いた。
「……はい」
澪はゆっくりと頷いた。
「います、ね」
その言葉の意味が何なのか、誠には分からない。確認しているのか、初めて気づいたことへの驚きなのか。
だが今は、澪が誠のことを認識しているという事実だけで、誠には充分だった。
――◆◇◆◇――
誠はその夜、遅くまでいた。
特別なことは何もしない。ただ、共に部屋にいただけ。向かい合って座ったまま、言葉を交わす時もあれば沈黙の時もあった。
澪の笑顔はもう出てこなかった。だがそれが誠には良いことのように思えた。さっきの明るい笑顔は、澪が澪でなくなっていることの表れだったから。笑顔がなくなった顔の方が、ずっと澪だった。
「食べているか」
空が白み始めたころ、誠がそう聞くと澪は少し間を置いてから頷いた。
「食べています」
澪はそう言って頷いたが、誠にはどうしてもそうとは思えなかった。精神的な理由ももちろんあるだろうが、それでも誠には澪が何も食べていないのではないかと思えるほどに痩せて見えた。
「これからも食べろ」
頑張る理由が……生きる理由がないと語った澪にとって食事は不要なものなのかもしれない。だからこそしっかりと食事をとらなかったのだろう。
だがそれではだめだ。そう思った誠は、悲し気に顔をしかめて澪に告げた。その様子は指示を出しているというよりも、まるで懇願しているかのように見えた。
「……はい」
誠の顔をじっと見ていた澪は、少し経ってから頷いた。
「誠さんは、どうして来てくれたんですか」
そしてそのまま誠への問いを口にする。それは今まで来なかったのにどうして今日はこの場所まで来たのかという問いだった。
澪には責める意思はないのだろう。けれど誠はまるで自分が責められているように感じられ、一瞬躊躇ってから答えた。
「心配だったから」
「それだけですか」
澪は重ねて聞いた。責める口調ではない。ただ純粋に知りたいという声だった。
思わぬ返答に、誠は答えを探すように視線を逸らす。心配だったのは本当だ。だがそれだけかと言われると、正直に言えば誠自身分からない。
澪のことが頭から離れなかった。ベンチが空である夜が続くたびに、何かが欠けているような感覚があった。けれど誠にはそれが何なのかを誠は言葉にできなかった。
「……わからない」
結局そう答えた。そう答えるしかできなかった。
澪は何も言わない。ただ、じっと誠を見続けているだけ。まるで、何かを観察しているような眼差し。誠にはそう思えて仕方なかったが、その思いを口にすることはなかった。
「また来る」
朝日が出てきて薄いカーテンの奥から光が入り込んできたころ、誠はそう言いながら立ち上がった。
「……はい」
未だに虚ろな視線で誠を見つめながら短く答えた澪の声は、誠がこの場所に来た直後とは違い、どこか色が乗っているような、そんな風に思えた。
誠は松葉杖をつきながらドアを開けて外に出た。早朝の空気はまだ少し肌寒さを残しているが、今の誠にとっては丁度いい涼しさだ。
最後に一度澪に振り返り、痩せてしまった小さな澪の姿を視界に納めると、何かを振り払うように再び正面に向き直り、ドアを閉めた。
一度深呼吸をしてから歩き出した誠は、錆びた手すりを伝って階段を降りながら、誠は澪の言葉を思い返していた。
頑張れる理由が何もない。その言葉が、誠の胸の中でまだ重さを持っていた。
澪は今夜泣いた。それは良いことだと誠は思った。あの歪な笑顔で話し続けていた澪よりも、泣いた後の澪の方が、ずっとまともに見えたから。
だがそれだけでは不十分だということも、誠は分かっていた。
階段を下りて帰路を歩きながら、誠は空を見上げた。早朝ということもあり、すでに空は明るくなっているせいで星は見えない。
また来る、誠は澪に言っていた。
その言葉を自分から口にした意味を、誠は今更になって考える。
今まで誠の方から澪に会う約束をすることはなかった。だが今回は違う。状況が状況だとは言え、自分から再会を約束するなんて以前の誠からは考えられなかった。
以前の誠なら、相手が大変な状況にあると知っても自分で動こうとはしなかったはずだ。
誰か頼れる人はいないのかと考えることはあっただろう。澪に家族のことも聞いてそちらに電話することくらいはしたかもしれない。
だが、それだけだ。厄介ごとはそちらで解決してくれとばかりに人に任せた――押し付けただろう。
だが今回は違った。自分にも責任があると思っているから、というのもあるだろう。だが、誠は自身の行動も自身の考えも整理できていなかった。
ただ、また来ると言ったことを後悔していなかった。それだけは確かだった。




