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愛に魔法はいらない  作者: 農民ヤズー


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6/12

五章『壊れた夜』

 四月の終わりが近づいても、澪の日常は変わらなかった。


 変わらない、というのは正確ではないかもしれない。あの十三日目の夜に何かが壊れてから、澪の毎日は変化したのだ。ただその変化の方向が、前に進む方向ではなく静かに沈んでいく方向だったというだけで。


 朝になれば目が覚める。覚めたくなくても覚める。体が空腹を訴えれば食べる。食べたくなくても食べる。お腹の中の子供のために必要なことだから、とそれだけを理由にして体を動かした。内職の作業も続けていた。細かい飾りがついたご祝儀袋を組み立てる単純な作業で、考えながらするものではないから頭を空にしたまま手だけを動かしていられる。それが澪には都合よかった。


 考えると、辿り着きたくない場所に辿り着いてしまう。

 だから澪はなるべく考えなかった。考えるくらいならば手を動かした。それでも夜の静寂の中では手が止まり、考えが流れ込んでくる瞬間があった。そういう時は窓の外を見た。アパートの外には特に何もない。薄暗い駐車場と、その向こうに別のアパートの外壁があるだけだ。それを眺めていれば、少なくとも目だけはそこに向いているから、頭の中に入ってくるものが多少は薄まった。


 五月に入った。

 澪の体は変わらず重かった。妊娠七か月目に入った腹は、もう隠しようもなく丸くなっていた。アパートの廊下を歩く時も、狭い部屋の中を移動する時も、以前よりずっと体の動かし方を気にしなければならなかった。立ち上がる時には腹に気をつけ、かがむ時には慎重に、椅子から離れる時には手を添えて。それだけのことが、この頃の澪には少し時間のかかることになっていた。

 

 体が重いのは腹のせいだけではないと、澪自身わかっていた。栄養が足りていないのだろう。食べることはしているが、食べる量がかつてよりずっと少なくなっていた。食べる、という行為に対してかつて感じていた何かが、今の澪には感じられなかった。空腹が苦しいから食べる。それだけのことで、食べることで何かを得ているという感覚がなかった。


 だから食べる量が自然と減り、動く量も減り、一日の大半は布団の上か内職の作業台の前で過ごすことになっていた。


 そんな日々の中で、澪の頭に浮かぶ考えは一つだった。

 もう頑張る理由が、何もないのではないか、と。


 葛木はいない。誠もいない。残っているのはお腹の中の子供だけで、その子供を産んだ後のことを澪は想像できなかった。産んで、育てて、その先に何があるのか。澪一人でこの子供を育てられるのか。育てたとして、その子供はいずれ父親のことを聞くだろう。その時澪は何を答えるのか。父親は去っていったのだと、それだけを告げるのか。


 考えが広がっていくたびに、澪は窓の外に目を向けた。そうして考えるのをやめた。


 ――◆◇◆◇――


 その日の午後、澪はアパートの外に出ることにした。

 特に用事があったわけではない。ただ、部屋の中にいることが少し苦しくなったからだ。空気を入れ替えたくて窓を開けても、部屋の澱んだ感じは消えない。それならばいっそ外に出てしまおうと思い、上着を羽織って玄関を開けた。


 五月の空気は柔らかかった。日が傾き始めた午後の日差しが廊下に差し込んでいて、床に薄い影をつくっていた。こんな時間に外に出るのはいつぶりだろうかと澪は考えたが、正確には思い出せなかった。


 廊下に出た澪は階段に向かった。二階から一階に降りる階段はアパートの端についている鉄製の外階段で、手すりも錆が浮いていて見た目に頼りない。誠が米を持ってきた時も足元を気にしていたのを澪は覚えていた。

 

 その日は少し前まで雨が降っていた。夕方になって雨は上がっていたが、鉄の踏み板にはまだ水が残っていた。澪はそのことを分かっていた。分かっていたから、いつもよりゆっくりと最初の一段に足をかけた。――はずだった。


 頭が重かった。眠れていないせいかもしれないし、栄養が足りていないせいかもしれない。あるいは、ここ数日ずっと考えていたことで疲弊しているせいかもしれない。ともかく、澪は体のどこかが鈍く重く感じられていた。階段を降りるくらいのことは何でもないはずなのに、体の感覚がどこかはっきりしなかった。


 そんな状態でさらに踏み出したからだろう。二段目に足をかけた時、体が少し前に傾いた。


 いつもと同じように降りていたのに、いつもと同じようには歩けずバランスが崩れた。体が傾いて、手すりを掴もうとした手が間に合わない。澪の体はそのまま階段から落ちていった。


 落ちた、という自覚がはっきりあった。腹から落ちた、ということも。一階の踊り場に叩きつけられる瞬間に、咄嗟に澪が思ったことは腹の子供のことだった。それだけが頭にあって、それ以外のことは何もなかった。


 強い衝撃が全身を走った。痛みは一瞬遅れてやってきた。腹の痛みだけではなく、脇腹も、膝も、手のひらも痛かった。けれど腹の痛みだけが他と種類が違っていて、それが澪に状況の深刻さを教えた。


 しばらく動けなかった。動こうとすると痛みが走り、そのたびに息が詰まった。体を起こそうとしたが腕に力が入らず、結局床に体を横たえたまま澪は声を出した。声が出るかどうか分からなかったが、出た。


「……助けて」


 廊下の向こうの部屋から足音がした。住人が気づいてくれたのだと分かった。救急車を呼んでほしいと、澪は声を絞り出した。


 ――◆◇◆◇――


 病院の白い天井を見た。


 いつから見ていたのか、はっきりとは分からなかった。救急車が来たこと、担架に乗せられたこと、病院に運ばれたこと、その全ての記憶はあった。あったが、その間の時間の流れが澪の中でひどく歪んでいた。途切れているわけではないのに、連続していない感じがした。


 痛みはまだあった。脇腹と膝の痛みは打撲と捻挫によるもので、それは時間が経てば引くものだと医師は言った。それから手のひらの擦り傷。そういった澪自身の傷については、それほど深刻ではないという説明を受けた。


 だが医師の顔は、澪の傷についての説明をしている時とは違う種類の顔になって、続きを話した。


 子供は、助からなかった。

 告げられた内容は、ただそれだけのことだった。


 医師の言葉はそれだけではなかった。もっと説明があった。専門的な言葉が続いた。澪はその言葉を全て聞いていた。聞いていた。――だが、その大半が頭の中を通り過ぎていった。

 

 ただ、子供は助からなかったということだけが、澪の中に残った。


 ――◆◇◆◇――


 意思から話を聞きしばらくして、不意に澪の中で何かが終わった。壊れた、といってしまえるかもしれない。


 十三日目の夜にすでに多くが崩れていた澪の中に、その瞬間何が残っていたのかは澪自身にも分からない。ただ、残っていた何かが、その時に完全に壊れ、消えた。


 子供を見ていた。


 小さかった。当然だ、七か月だから。手の指が、小さく折り畳まれていた。その小ささを見て、澪は泣けなかった。泣けないのではなく、泣くという動作をどうやって行うのかが、その瞬間には分からなくなっていた。


 葛木の子供だった。葛木はいない。子供もいなくなった。


 これでもう、何も残っていない。


 ――◆◇◆◇――


 入院していた一週間のことを、澪はほとんど覚えていない。

 

 覚えていないというのは、記憶がないという意味ではなかった。

 白い天井を見た記憶はある。看護師が何かを話しかけてきた記憶もある。食事を運ばれた記憶だってあった。


 だがそれらの記憶は、自分が体験したものとして澪の中に存在していなかった。誰か別の人間がそこにいて、澪はその様子を半透明のガラスを一枚隔てた向こう側から眺めていただけのような、そんな感覚だった。

 

 退院の日も同じだった。着替えをして、手続きをして、アパートへ帰った。それだけ。道中で空が曇っていたことは覚えている。タクシーの窓から見えた電線に鳥が止まっていたことも。けれどそれらは澪が意識して見たものではなく、目に映った映像が頭の中に残っていただけで何かを感じたわけではなかった。


 アパートに戻ると部屋は出ていった時のままだった。当然だ。誰かこの部屋に来るような人はいないのだし、これほどぼろいアパートには泥棒も入らないだろうから。


 部屋の中は、内職の作業台の上に作りかけの祝儀袋が並んでいた。窓の外は相変わらず薄暗い駐車場と、向かいの建物の壁。布団は敷いたまま誰かが弄った様子もない。


 澪は部屋の中に入っても玄関で立ったまま、しばらく〝自分の家〟を場所を見ていた。


 ここに戻ってきた。戻ってきてしまった。またここで生活をするのか。そんな思いが澪の中に生まれたが、それ以上の感情は何も感じなかった。


 感じなかった、というのが正確な表現かどうかも分からない。感じるための場所が、澪の中からなくなってしまったのかもしれなかった。

 

 上着を脱ぎ、敷きっぱなしだった布団に横になった。

 天井を見た。汚い天井だ。本来の自分の部屋とは比べるまでもない。

 だが、そこで澪はフッと自嘲気な笑みをこぼした。


 本来の自分の部屋? そんなものありはしない。以前の部屋は自分で捨てたのだから。


 それ以上天井を見るのが嫌で、澪は目を閉じた。まだ時間は昼過ぎということもあり眠れなかったが、それでも天井を見ているよりはマシというもの。


 それに、夢の中だったらきっと幸せでいられるから。そう考えて澪は目を閉じ続けた。


 ――◆◇◆◇――


 澪の中には、幸せなんてなかった。

 微かな祈りを抱きながら見た夢の中は真っ暗で、現実とさしたる変わりはない暗闇だけ。

 そんな暗闇が終わって目を開けても、今度は別の暗闇が待っていた。


 退院した日の翌日、薄いカーテンを通してくる朝日が微かに部屋を照らす。その光のおかげで部屋が白んでいくのをぼうっと見続けていた澪。朝日の動きというものをこんなに長い間見続けたのは初めてかもしれなかったが、だから何だということもなかった。

 そうして澪は心に穴が開いたまま動き出す。


 食べた。

 何を食べたか、はっきり覚えていない。冷蔵庫の中にあったものを温めるかどうか考えることもなく口に入れた。お腹の中の子供のために食べなければならないという理由は、もうなかった。けれど食べなければ体が動かなくなる。体が動かなくなっても別に構わないという気持ちもあったが、だからといって積極的に食べることをやめるほどの意思もなかった。ただ空腹を感じたから本能的に食べられるものをお腹に入れた。それだけのことだった。


 夕方になって鐘が鳴った。いつもと同じ時間に、いつもと同じように遠くの寺から聞こえてくる鐘の音。その音を聞くたびに澪は誠のことを思っていた。今もそうだ。


 鐘の音がつなげてくれた誠との出会い。あの時鐘の音が聞こえたからこそ、澪は公園に行き、誠と出会うことができた。そして、短くない時間をあの公園で過ごした。そんな日常のことを、澪は思い出していた。


 誠がいた時間のことを。公園のベンチで並んで座って、ぽつりぽつりと言葉を交わしていた時間のことを。手を体の横に置いて、小指の側面がかろうじて触れていたあの感触のことを。あの感触があると、体から余計な力が抜けていく気がした。息をするのが少し楽になる気がした。世界が少しだけ柔らかく見えた。


 誠の側にいることで澪は確かに何かを得ていた。あるいは、それを幸せと呼ぶのだろう。

 だが今の自分のそばに誠はいなかった。葛木もいない。子供もいない。家族も友達も知り合いも、誰もいない。

 

 何も残っていない、という事実を、今の澪は静かに眺めていた。

 怖いわけではなかった。悲しいかどうかも、よく分からなかった。ただ、事実としてそれがあった。

 

 夕日が部屋から出ていった。火の光がなくなったことで部屋の中は暗闇に包まれたが、それでも澪は電気をつけなかった。つける意味が見当たらなかったし、暗いことを不快だとも感じなかった。無理をして起きている必要もなく、暗くなったのだから寝ればいい。そうして澪は暗い部屋の中で布団の上に体を横たえた。

 

 そうして見た天井は何も見えなかった。暗いのだから当然のことではあるが、そのことが少しだけありがたいような気がした。


 ――◆◇◆◇――


 そんなただ命を繋いでいるだけの空虚な日が続いた。

 朝日が入る。起きる。食べる。働く。鐘が鳴る。夕日が出ていく。そしてまた眠る。それだけが澪の日常として繰り返された。


 内職の作業は退院してからも続けていた。手を動かす気にならなかったが、だからといって他にやることがあるのかといったら何もない。

 続ける理由があったから働くのではなく、やめる理由がなかったから続けていただけ。


 かといって、やる必要があるのかといったら、ない。その理由はなくなってしまっていた。

 以前は貯金が減ることへの焦りがあり、お腹の子供のために少しでも稼がなければという思いがあった。だが今は子供がいない。だって死んでしまったから。


 自分一人が生きていくための費用であれば、蓄えがなくなれば困るというだけだ。必死になって働く必要はないのだ。

 困ればその時に考えればいい。その時が来るかどうかも分からない。

 

 澪の頭の中ではっきりとした言葉になってはいなかった。ただ、先のことを考えようとすると、うまく頭が働かなかった。


 今の澪は〝先〟、あるいは〝未来〟という言葉自体が澪の中から抜け落ちていた。今日の自分は確かにここにいる。だが明日の自分がここにいるかどうかは、澪には想像できなかった。

 

 想像できないことを考えようとするのは難しい。だから考えなかった。

 ただ、何も考えないまま作業をし、時間が過ぎることを待った。


 ――◆◇◆◇――

 黒井 誠


 誠が退院したのは、事故から三週間が経った頃だった。


 骨折の回復は順調で、医師が当初見込んでいたよりも少し早く退院の許可が出た。だがまだ無理のできる状態ではなく、農作業への本格的な復帰はリハビリの経過を見てからということになっている。当然だ。松葉づえがなければ歩けないような人間が農作業なんてできるはずもないのだから。


 とはいえ手は無事なのだから、どうにか工夫してやるしかないだろう。そう考えながらため息をつき、誠は家へと帰っていった。


 退院から三日後の夜、誠は松葉杖を突きながら公園へ向かった。

 三週間ぶりの夜道だった。五月の夜気は四月よりも柔らかく、歩いていても体が縮まるような冷たさがなくなっている。


 季節が動き、誠が入院している間にも外の世界は誠の知らないところで変わっていた。公園の木々の葉が青々と茂っていて、入院前に見ていたものとは違う風景だった。


 そんな光景にどこか感慨深さを感じながら向かって公園には誰もおらず、いつも座っていたベンチは空だった。

 

 誠は立ったままベンチを見た。だが、当然のことかもしれなかった。三週間も来なかったのだ。澪がまだここに来ているという保証はどこにもない。むしろ来ていない方が自然だろう。


 だが誠は、ベンチが空であることをただの事実として受け取ることができなかった。


 もしかしたら今夜は自分が早かっただけかもしれない。そう思い直し、誠はベンチに腰をかけて少し待ってみることにした。


 一時間待った。澪は来なかった。

 

 翌日の夜も来た。誰もいない。


 その翌日も来た。けれどやはり、誰も座っていなかった。


 誠は一週間、毎晩公園のベンチに来た。翌日の仕事に支障が出るとわかっていながらも、いつもより遅くまで澪を待ち続けた。けれど、ベンチに澪が現れることはなかった。


 誠の中で、心配が膨らんでいった。単純に来なくなっただけなのかもしれない。それまでだって、あの十三日間を除けば毎晩欠かさず来ていた澪だ。来なくなる理由が生まれたのかもしれない。誠が三週間も来なかったことで気持ちが変わったのかもしれない。それならそれで、仕方のないことだ。


 だが誠の中にはそれとは別の何かがあった。

 澪は来なくなっただけではない。自分と同じように澪に何かあったのではないか。その考えが、心配と呼ぶには少し重い形で誠の中に存在していた。


 自分が三週間不在だった間に、澪の身の回りに何かが起きていたとしたら……。可能性としては十分あり得る考えに思い至り、誠の胸に鈍い痛みが生じた。


 だがそれでも誠は様子を見に行こうとはしなかった。なぜなら、自分と澪はそこまでの関係ではないという思いが誠の中にはあったからだ。公園で出会って話す。公園で出会えば心配する。公園で困っていたら助ける。

 

 けれど、それだけだ。公園だけの関係。この公園内でのみ、誠は澪と特別な関係だった。

 自らの意思でその〝特別な関係〟を公園の外に出すということに、誠は躊躇いを感じていた。

 

 そのまま決断することができず二週間が経った夜、誠はベンチに座りながら、ようやくとある決断をした。澪の家に行くという決断を。

 

 連絡先を知らなくとも、家の場所は知っている。部屋の番号は知らなくとも、二階の角部屋だと分かっている。だから行くことはできるのだ。

 行って、ドアをノックすればいい。そうして出てきた澪に事情を話して謝り、澪の状況を聞けばいい。それだけのことだ。


 そう考えたのに、誠はその夜は立ち上がれなかった。なぜ立ち上がれなかったのかは自分でも説明できない。踏み込むことへの躊躇いかもしれなかった。


 自分勝手な思いから三週間も来ず、連絡すらしなかった自分が今更訪ねていくことへの、ある種の後ろめたさかもしれなかった。

 

 だが翌日の夜、誠は公園に寄って澪の不在を確認すると、いなかったことを少し残念に思いながらも今度は澪の家へと向かった。


 公園からアパートまでの道を、誠は一人で歩いた。以前は澪と一緒に歩いた道だった。あの夜は米を担ぎながら歩いて、澪と話をしながら辿り着いたのだった。


 今は手ぶらどころか両手に松葉杖を持ってどうにか歩けているようなありさまだが、それでも必死になって進み続けた。

 以前来た時よりも余分に時間を使いながらも、ようやく誠は澪の暮らしているアパートへとたどり着いた。

 

 外壁のペンキが剥げていて、金属の階段に錆が浮いている、くたびれた外観は記憶の通りだった。その古い建物を前にして、誠は立ち止まった。


 このアパートを前に誠の頭に浮かんでくるのは、以前この場所に来た時に感じた事と同じもの。この場所で澪が一人で暮らしているという事実が、誠の中に何かを生じさせたあの感覚。だがあの日よりも、今感じているものの方がずっと重かった。


 誠は階段を上っていく。慎重に、一段ずつ。松葉杖の先端がぼろく錆びた階段を踏み抜かないかと不安に思いながら二階に上がり、廊下を進んで角部屋の前に立った。

 

 ドアの前に立ち、本当に来てよかったんだろうかという今更な不安が顔を出した。だがここまで来た以上何もせずに帰るわけにはいかない。それになにより、澪の状態を確認しなければずっと公園で会えない日々が続く。そのことが誠にとっては無性に嫌だった。


 誠はいまだに迷っている心に無理やり覚悟を決め、一度大きく深呼吸をしてからドアをノックした。

 だが帰ってきたのは澪の声でも部屋の中の音でもなく、沈黙。

 

 いないのだろうか。まさか本当に何かあって入院しているんじゃ……。


 そんな不安に駆られ、誠は一度目よりも強くドアをノックした。

 返ってきたのはまたも沈黙。そのせいで誠の中の不安はさらに増したが、しかし今度は数秒ほど経ってからドアの向こうに何かが動く気配がした。ゆっくりとした足音が近づいてきて、そのことに誠がホッとしているとドアが開いた。

 

 だが出てきた澪の姿を見た瞬間、誠は言葉を失った。

 

 澪だった。間違いなく澪だった。だが、誠の知っている澪ではなかった。

 頬が落ちていた。目の下が暗く、肌に艶がなかった。髪が乱れていて、着ているものがよれていた。だがそれ以上に誠を驚かせたのは、澪の腹だった。

 

 誠の記憶違いでなければ、今の澪は妊娠七か月目だったはずだ。最後に見た時はしっかりとお腹が膨らんでいたはずだ。

 それなのに、今はなぜか膨らんでいなかった。

 

 誠が最後に見た澪は、コートの上からでも分かるほど腹が丸くなっていた。だが今の澪の腹は、その丸みがなかった。出産後に体型が戻ったというものではない。七か月で出産は早すぎる。


 確実に何かがあった。そんな確信が誠の中で生じたが、その確信は決して良いものではないだろうという確信も同時に存在した。

 

 澪の目がゆっくりと誠に向いた。だが、その目は誠を見ていない。視線は向いていても、その奥にある澪自身の意思が誠を見ていなかった。

 

 ――虚ろ。


 ここ最近は意識することがなくなったその言葉が再び誠の頭の中を埋め尽くし、何も言えないまま澪のことを見つめていると、徐に澪が口を開いた。


「誠さん」


 笑みと共にかけられた声に抑揚はなく、途端に誠には澪が不気味な存在に見えてしまった。


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