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愛に魔法はいらない  作者: 農民ヤズー


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5/12

四章『会えない夜』

 四月になると、畑が一斉に動き出す。稲の準備をし始めなければならないし、夏野菜の準備も必要だ。

 

 その突然の忙しなさは、毎年のことながら誠に少し追い立てられるような感覚をもたらした。動き出す時期を逃せば収穫に響く。手入れの間隔が空けば虫にやられる。かといって農薬を使いすぎれば規定違反になるうえ出費がかさむ。春の農作業には、冬のそれとは異なる切迫感があった。


 日の出とともに起きて、流し込むように手抜きの朝食をとってから畑に出て、作業をして、昼になったらまた食事を流し込み、少し昼寝をしてからまた仕事を再開し、日が暮れ出したら家に戻る。


 やることは多くあれど、忙しいというほどではない仕事を毎日だらだらとこなしていく日々。植物を相手にしているだけあって休日と呼べる日はほとんどなかったが、その日々も悪いものではなかった。流れ作業のように仕事をしている間は余計なことを考えずに済む。加えて、人とかかわる時間を極力少なくすることができる。誠にとって農作業の良い点があるとすれば、それだった。


 けれど、やることがあっても忙しいわけではないため、作業をしていると偶に余計なことを考えてしまうことがあった。

 今まではくだらない失敗や反省、益体もない憂さ晴らしの妄想が大半だったが、最近はその考える内容が澪のことになる時が増えていた。


 以前よりたまに澪のことを考えていた誠だったが、その頻度が増したのがあの日……再び小指が触れ合ったあの日からだった。


 あの夜から誠たちの〝いつも通り〟は少し変わった。会う場所を変えたわけでも、時間を変えたわけでもない。あれ以来澪の家に行ったこともない。けれど、今までは公園で会って話をして帰るだけだったが、今では話をしている途中で小指が触れるようになっていた。


 夜に公園へ行けば澪がいて、ベンチに並んで座って言葉を交わし、小指の側面が触れて、それから誠が帰っていく。そんな日常。 

 決して手を握ることはなく、重ねることもない。ただ小指が触れ合うだけの〝いつも通り〟。

 

 誠としてはそんなつもりはなかった。一度目は事故だったし、二度目は気まぐれ……いや、気の迷いだった。だがその翌日もまた、何となしに置いた誠の手に、澪の手が寄せられた。気づけばそれが毎日となっていた。


 誠はそんな日常の変化に迷いがあった。小指だけの接触とはいえ、相手は恋人がいる。それに何より、未成年の少女だ。拒めば傷ついてしまうかもしれないとはいえ、だからといって誠のような三十を過ぎた男が触れ合っているというのは問題があるだろうから。


 だが同時に、そんな日常にどこか心地よさを感じていた。


 けれど、そんな日常は何の前触れもなく唐突に壊れてしまった。


 ――◆◇◆◇――


 その日も誠は仕事をしていた。収穫した野菜を配達するために田んぼの真ん中を貫いている道を車で進んでいたところ、優先道路を無視し、一時停止をしなかった車に横からぶつけられ、車ごと吹っ飛んだ。


 田舎ではよくあることだ。一時停止があろうとも信号がないからそのまま突っ切る暴挙。縦と横、交差するような道路でお互いの車が進んでいると距離感が測りづらく、このタイミングならいけると思ってしまうのだ。けれど実際にはタイミングが合っておらず、ぶつかってしまう。


 今回の場合、誠の車に突っ込んだ車の運転手は、自分が優先道路ではないことを理解していた。だがそれでも止まりたくなかったのだろう。止まらずに済むように誠が交差路に辿り着く前に突っ切ってしまおうとアクセルを踏み、加速した。そして、事故が起きた。


 その瞬間のことを、誠はよく覚えていた。走っているときに嫌な予感はしていたが、一時停止の場所なのだから相手はちゃんと止まるだろうと思って進み、直後に訪れた強い衝撃と想像以上のエアバッグの威力に驚いたものだ。


 何が起きたのか、という疑問は不思議となかった。ただ、やられたな、という思いがあり、むしろ自分でも思った以上に冷静だったことに驚いたほどだった。


 その後誠は自分で救急車を呼んで、病院に運ばれた。


 診断の結果は、肋骨二本と右脛骨の骨折、それから全身の打撲だった。命に別状はないが、最低でも二週間は入院が必要だと医師は言う。その後のリハビリを含めると、まともに動けるようになるまでにはさらに時間がかかるとも。

 

 誠は病院のベッドで天井を見ながら今後のことを考えた。最初に考えたのは農作業のことだ。今の時期に二週間空くことの影響を頭の中で計算していく。今はまだ収穫期ではないから出荷もそれほどあるわけではないので、休んでもいいと言えばいい。店側には電話をすればおしまいだ。


 問題なのはそれ以外の作業。植え付けの予定がある区画が三つ。手入れの時期が来ている野菜がいくつか。親に頼めるものもあるが、父親はまだ自分で仕事をしているし、母親は膝を悪くしているので長時間の作業は厳しい。頼んだとしても全てを任せるわけにもいかないだろう。そう考えると、今年はある程度の損失を覚悟しなければならない。


 憂鬱な内容を考えていた誠は、自然と深くため息を吐いていた。だが、いくら考えたところでどうにかなるわけでもない。せいぜい相手から慰謝料や損害の補填をむしり取ってやろう、などと考えるくらいしかできなかった。


 だがそうして一通りのことを考えて思考に一段落ついたところで、誠の頭にふと浮かんできたものがあった。澪のことだ。

 

 今夜は公園に行けない。明日も行けない。それがいつまで続くのかも、今の時点では分からない。最低でも二週間の入院だといっていたが、詳しくは検査をしてからでなくては判断できないとのことだった。


 だが誠は澪に何も伝えていない。当然だ。事故とは予想外に起きるものなのだから、あらかじめ会えないことを伝えることなどできるわけがなかった。これが普通の知人であれば電話をすればよかったのだろうが、あいにくと澪と誠は普通ではなかった。ただ夜の公園で会うだけの関係であり、連絡先の交換などもしていない。


 かといって手紙を出すこともできない。米を届けに行ったときに場所は知っているのだからスマートフォンを使って調べれば住所は分かるだろう。だが部屋の番号がわからない。あの時はそこまでよく見ていなかったのだ。


 誠が夜の公園に行かなければ、澪はどう思うだろうか。

 

 その問いが誠の頭に浮かび、そのまま居座った。誠が来なければ澪はどう感じるか。それが一日だったら大した問題にはならなかっただろう。翌日に何か言われたかもしれないが、理由を話せばそれでおしまいだ。


 だが一日だけではなく二日、三日と続いたら? 誠が来なくなった理由を、澪はどう解釈するだろうか。

 

 一度気になってしまうと、それ以外のことが考えられなくなった。


 病院のスタッフに頼んで澪に事情を伝えに行ってもらうことはできる。事情を話し、多少の謝礼を渡せば引き受けてくれる者もいるだろう。だが、誰かに頼むのはなんだか違う気がした。何が違うのか、なぜダメなのかは誠自身もわからない。澪のことを考えるのなら無駄に心配させないように伝えるべきだろう。そう分かっていたのだが、それでも誠は誰かに頼むことをよしとしなかった。


「……後で謝ればいいか」


 結局、誠はそう考えた。退院したら公園に行って、事故に遭ったと説明すれば澪も分かってくれるだろう。そういう事情なら仕方ないと思ってくれるだろう、と。

 

 それに、と考えたところで誠の思考は止まり、続きの言葉が浮かんでこなかった。いや、正確には言葉自体は浮かんでいた。ただ、それをはっきりと考えたくはないと誠の心が拒否していたから言葉として考えることができなかっただけで。


 そんなもどかしさや迷いを吐き出すように、誠は口を開いた。


「――どうせ俺たちはその程度の関係なんだから」


 だがその言葉を口にした瞬間、誠は無意識のうちに顔をしかめた。その程度、というのが何を指しているのかを、自分でも上手く説明できなかった。毎晩公園で会って、僅かな言葉を交わして、小指の側面が触れる関係。


 恋人でも友人でもない。連絡先も知らない。それは確かにその程度の関係だといえるだろう。


 改めて自身と澪の関係を言葉にして並べると、なんとも薄っぺらくか細い繋がりのような気がして、誠はそれが無性に気に入らなかった。


 だが事実は事実。たったそれだけの関係であり、その程度の関係にとどまっているのは自分が踏み込むことを拒絶した結果でしかない。


 澪の事情に踏み込まなかったという判断自体に間違いがあったとは思っていない。けれど、それはそれとして気に入らないという思いも確かに誠の中にあった。

 

 だが、そもそもなぜこんなにも澪のことが気になるのか。


 自分は澪という少女に恋心を抱いているのだろうか? そんなバカバカしい考えが誠の頭の中によぎった。あり得ない。自分は三十で、相手は十代だ。自分のような者が澪のような少女に恋心を抱くなんて、間違っているだろう。誠はそう思い、頭の中に生まれた考えを捨て去るように何度も頭を振った。


 結局誠は先ほどの問いに蓋をした。これ以上考えたところで考えたくない方向に思考が向かっていくだけのような気がして、意識してそこから目を逸らした。


 こんなくだらないことを考えてしまったのは疲れているせいだ。事故のショックがまだ残っているせいだ。入院して心が弱っているから人を求めたのだろう。そう決着をつけようとしたが、夜になっても澪のことは消えなかった。


 誠にとって久しぶりの一人の夜だった。暗い病室の天井を見ながら、誠は今頃公園のベンチが空であることを知っていた。そのベンチに澪が来て、誠がいないことに気づいているかもしれないことも。それを知りながら、何もできなかった。何も、しなかった。

 

 その無力感が、じわりと全身にまとわりつくかのように広がっていった。


 独りぼっちの夜が明け、二日が経ち、三日が経ち、一週間が経った。

 誠の体は少しずつ回復していたが、足の骨折の影響でまだ自由には動けない。松葉杖を使って歩くことはできるが、自由に移動するなんてことは叶わない。移動できるのはせいぜい病院の敷地内だけ。

 

 寝ているだけなのも暇なので松葉づえをついて病院内を歩き回り、中庭に出てきた誠は休憩のためにベンチに座った。最近では慣れた尻の下の硬い感触。けれど空を見上げてみれば月の代わりに太陽が存在しており、星は姿を隠している。


 その違いに大きくため息を吐いてベンチに体を預けた誠は、いつものように手を体の横に置くが、それだけだった。まだ手は冷たくならないし、誰かの小指が触れることもない。当たり前だ。ここは病院であっていつも行っていた夜の公園ではないのだから。


「……やっぱり、連絡した方が良かったのか……」


 今更になって改めてそう思う誠。誰かに頼んで連絡をするというのは何となく違う気がして実行してこなかった。


 なぜ誠は誰かに頼むことをしなかったのか。何がそれほど嫌だったのか。それは夜の公園で二人きりで会う、という状況に特別感を感じていたからだった。あの場所以外で会うことも、自分たち以外を交えて繋がるのも、その特別感が薄れてしまうような気がしたのだ。だがそのことに誠自身は気づいていない。――ふりをする。自分のちっぽけでみっともない感情を直視したくなかったから。だから〝何か違う〟などという曖昧な答えを出した。


 だがそうして連絡を取らないことに決めた誠だったが、それでも澪のことを考えない日は一日もなかった。

 

 考えようとして考えたわけじゃない。ただ、夜になると澪の姿が頭によぎり、毎日同じような問いが誠の頭を巡っていた。今日も公園に来ているだろうか。誠がいないことで澪はどう思っているだろうか。自分が悪いことをしたのではないかと考えてはいないだろうか。理由も分からないまま誠がいなくなったことを、自分のせいだと思ったりはしていないだろうか。


 そんな想像が、誠には一番気に入らなかった。


 つらいわけじゃない。苦しいわけじゃない。ただ、気に入らない。


 誠はそんな苛立ちを感じながら空を見上げ、眩しさを無視して太陽を睨みつけた。そんなことをしても意味がないと知りながら。それ以外にできない自分を呪いながら。


 ――◆◇◆◇――

 白川 澪


 一日目の夜、澪は特に何も思わなかった。

 ベンチに座って、いつもより少し長く待っただけ。今までも誠が来る時間には少しばらつきがあった。大抵は早めに来てくれたが、仕事の都合で遅くなる日もあった。だからその夜は、ただ待った。四月になっても夜はまだ寒く、風が冷たく感じられたが、それでも待った。


 しばらく待っても誠は現れず、日付が変わってしばらくしても来なかったことから今日は来ない日なのだろうと判断し、アパートに戻った。


 誠とて人付き合いはあるのだ。友人と飲みに行くこともあるだろうし、仕事の関係でということも考えられる。そういう日もあるだろう。むしろ今まで毎日会うことができていた方がおかしかったのだと思った。

 

 けれど、二日目の夜も誠は来なかった。そういうこともある。よほど仕事が忙しいのかもしれないし、他に用事が入ったのかもしれない。


 そう思いながら澪は前日よりも遅くまで待っていた。待って待って、それでも誠は現れず、新聞配達のバイクの音が聞こえ始めたところで、家に帰っていった。


 三日目も、四日目も。澪はずっと誠のことを待っていた。けれど、朝日が昇っても誠はやってこない。


 五日目の夜、澪はベンチに座りながら自分の手を見た。数日前まで誠の手と触れていた小指を、じっと見続けていた。


 何も感じない場所だった。特別な何かなんて存在しない場所で、指は指でしかないと思っていた――はずだった。

 けれど今の澪にとっては違った。澪にとって小指とはとても大事なものになっていた。近くありながらも遠く、決して縮まることのない距離を埋めてくれる大事な指。


 かつて葛木と約束をしたときに小指を絡ませたことがあったが、その時よりももっとずっと温かい気持ちにしてくれる大事な場所。

 でも、今は何も感じない。大事なはずなのに何もなく、温かかったはずなのに冷たい。


 ――なんでこんなことになってしまったのだろう。


 そんな思いを胸に宿しながら、澪はベンチに手を置いて待つことにした。いつか、この大事な場所がもう一度温かくなるようにと願いながら。

 

 けれど、六日、七日と日を重ねても温かさは戻らない。誠は訪れず、夜の公園には澪だけが独りぼっちで待ち続けていた。


 この頃から、澪の頭の中でとある問いが生まれ始めた。

 自分が何か悪かったのだろうか、と。


 一日二日なら誠が来なくとも仕方ない。そういう日もあるだろうと流すことができていたが、一週間となれば流石に流すことはできなかった。


 けれど、じゃあなんで誠は突然夜の公園に訪れなくなったのかといったら……澪にはその理由はわからなかった。考えられるとしたら、知らずのうちに自分が誠に嫌われるようなことをしていたのではないだろうかということ。もしくは何か嫌なことが積もりに積もって見切りをつけられた。


 そんなことはない、と思いたいが、それくらいしか澪が思いつく理由がなかった。


 今まで事故に遭遇したことも、遭遇したという話を身近な者から聞くことなく育ってきた澪にとって、事故とはテレビの向こう側の出来事で、物語の中の出来事でしかなかった。だから誠が事故に遭った、という発想が出てこなかった。


 けれど、それだけではない。事故以外にも誠側の都合や理由によって会いに来なくなることは考えられる。それなのに澪が自分に原因があると考えたのは、自分が悪いことをしているという意識があったからだった。


 悪いことといっても犯罪行為をしているわけではない。だが、恋に溺れて親の期待を裏切り、親を捨てて家出をした。それで幸せな家庭を築いていたのなら澪は自分を肯定できただろう。だが、そうではない。かつての自分と比べて今の澪はとても困窮した暮らしをしている。しかも最愛であったはずの恋人は帰ってこない。幸せなはずが、なかった。


 きっとこの生活は自分が親の言うことを聞かずに家出をしたから。親と喧嘩をしたまま勝手に行動したから。全部自分が悪いのだ。

 そんな意識があったからこそ、誠が離れてしまったのなら自分が悪いのだろうと思えてしまった。

 

 だが本当にそうだとしても、何が悪かったのかは澪には分からなかった。

 ただ、自分は誠からもらってばかりだったという事実だけがあった。コートをもらった。米をもらった。毎晩の時間をもらった。言葉をもらった。小指で触れ合った温もりをもらった。


 なのに、澪が誠に返したものは何もなかった。そのことが、今になって形を持って澪の前に現れてきたのだ。与えてばかりの側が疲れ、離れていくのは自然なことだろうから。


 ――◆◇◆◇――


 八日目の夜。澪はベンチに座りながら葛木のことを考えた。

 考えたくなかったが、考えないようにすることができなくなっていた。


 誠がいない夜が続いたことで……再び一人ぼっちに戻ってしまったことで、これまで意識して遠ざけてきたものが少しずつ顔を見せたのだ。


 出稼ぎに行っている。葛木はそう言った。澪はその言葉を信じていた。信じようとしていた。一か月以上何の連絡もなくとも信じたし、今も信じたいと思っている。忙しいのかもしれない。連絡できない事情があるのかもしれない。そう言い聞かせてきた。まだ一か月だから。まだ二か月だから。まだ、たったの五か月だけなんだから、と。


 だが今、誠もいなくなった夜の公園で、その言い聞かせが初めて揺らいだ。今まで温かい存在だったはずの誠が突然いなくなったという状況が、葛木がいなくなった時と重なって思えた。


 捨てられた。その言葉が、今度は頭の中から消すことができなかった。


 葛木は澪を捨てたのではないか。出稼ぎなどではなく、ただ去っただけではないか。籍も入れていなかった。子供ができても、親に反対されても、それでも澪の側にいると言葉にしたことは一度もなかった。


 実家との和解を繰り返し勧めていたのは、今思えば何のためだったのか。澪が実家に戻れば、葛木は何も背負わずに済む。そういうことだったのではないか。

 

 そんな考えが頭に広がった瞬間、澪は歯を食いしばり、頭を振って消し去ろうとした。まだそうと決まったわけではないと、証拠がないと言い聞かせようとした。だが今は、その言葉が出てこなかった。


 澪は自分のお腹を見る。夜の薄明かりが照らす腹の中には、最愛だった人の子供が存在している。もうすでに妊娠七か月目に突入していて、誰がどう見てもお腹に子供がいることが分かる状態だ。この子供と一緒にただひたすら毎日を過ごしてきた。


 葛木がいなくなってから彩を失くした世界は、誠と話している間だけは多少マシになっていた。独りぼっちで助けてほしいと願っていたあの時、誠が声をかけてくれたからこそ澪はまだ世界に絶望せずに済んでいた。


 誠を待つためにベンチに座っている時間が楽しく、誠の隣に座っている時間だけはかつての幸せだった自分の延長線上にいるように感じられた。


 それはまるで、自分とお腹の子供と誠が家族のように思えて――幸せだった。それが錯覚だったとしても、その錯覚が澪を支えていた。

 

 だがその錯覚も、今はもうない。


 あるいは、誠はこの腹を疎ましく思っていたのではないだろうか。ならばこの腹がなければよかったのではないだろうか。


 そんな暗い考えが澪の頭の中に生まれたが、それを振り払う気力も、その考えを否定してくれる人も、今の澪にはなかった。


 ――◆◇◆◇――


 十日目の夜。澪はベンチに座り、空を見上げていた。


 見上げても星はほとんど見えなかった。曇っているわけではない。ただ、夜空というものは思っているよりもずっと暗くて、街灯の光がある場所からでは星は見えないものなのだということを、澪はこの公園に通い始めてから知った。


 葛木と暮らしていた頃、夜空を見上げたことがあっただろうか。澪は思い出そうとしたが、上手く思い出せなかった。記憶の中の葛木はいつも部屋の中にいるか、外を歩いていて、空を見上げていた記憶はない。


 どうでもいいことを考えている、と澪は思った。

 この一週間で、澪の心の中の何かが少しずつ変わっていた。変わった、というよりは、崩れていった、と言う方が正しいかもしれない。


 葛木は帰ってこない。


 今はもう、その言葉を頭の中から追い出すことができなくなっていた。少し前の夜に初めてその言葉が頭に定着してしまってから、それは消えることなく澪の頭の中に居座り続けている。


 出稼ぎだ、忙しいだけだ、連絡できない事情があるのだ。そう言い聞かせようとしても、言い聞かせようとした自分の声の方が嘘くさく聞こえてしまうようになっていた。

 

 葛木は帰ってこない。最初からそのつもりで去っていった。


 その考えを受け入れるのはまだ怖かった。受け入れてしまえば、それが現実になってしまうような気がして。


 けれど十一日目の朝、澪はアパートの窓から見える道路に目を向けながら、ぼんやりとある計算をしていた。葛木が去ってからどれほど時間が経ったのか。連絡が一度でも来たことがあったのか。出稼ぎというものが本当に何か月も連絡が取れないほどに多忙なものなのかどうか。


 計算する必要もなかった。答えはとっくに出ていたのだから。

 ただ、澪が認めなかっただけで。


 ――◆◇◆◇――


 十三日目の夜だった。


 いつものようにベンチに座り、いつものように誠を待っていた。待っていながら、来ないとわかっていた。もう待つことに意味がないということも、頭ではわかっていた。


 それでも来たのは、来ることしか澪には残っていなかったからだ。アパートに一人でいることの方がよほど苦しかった。部屋の隅に追いやられた葛木の私物を視界に入れながら内職の作業をして、夜になって鐘の音を聞いて、それで終わる一日。それよりはまだ、ここに来て誠のいないベンチに座っている方が澪にとってはましだった。


 風が吹いた。四月の夜風はまだ冷たく、澪のコートの合わせ目から入り込んでくる。誠にもらったコートではなく自分のコートだ。誠のコートは大事にしまってある。なんとなく、今は使いたくなかったから。


 手をベンチに置いた。誰も触れない場所だった。木の感触がひんやりとしていて、ただ冷たかった。


 葛木には捨てられた。

 

 今度はその考えを追い出そうとしなかった。追い出すための力が、もう澪には残っていなかった。


 捨てられた。それが現実だ。子供ができたと伝えた時に喜んだのは本当だったのかもしれない。けれどそれは澪の喜びとは違う意味だったのかもしれない。その後も全てが嘘だった。出稼ぎなどではない。実家との和解を勧めていたのは、澪が実家に戻れば自分が何も背負わずに済むからだったからではないだろうか。そして和解が成立しないとわかると、消えた。


 そう考えた瞬間、澪の胸の中でひとつのものが音を立てて崩れた。


 崩れたのは何だったのか。幻想、と呼べばそれまでかもしれない。幸せになれるはずだという信念。自分が選んだことは間違っていなかったという確信。その全てが、一つ認めた途端に次々と崩れていった。


 涙は出なかった。声も出ない。体の力が抜けるでも、震えるでもなく、ただ、すうっと何かが引いていくような感覚だけがあった。


 そして澪は、静かに泣いた。

 声はなく、ただ目から涙が流れていた。それが涙であると澪自身が気づいたのは頬に触れた風が冷たく感じられたからで、それまでは自分が泣いているとも分からなかった。


 捨てられた。


 その言葉が、今はもう怖くなかった。怖くなかったのは受け入れたからではなく、怖いと感じるための力も既に尽き果てていたからだ。


 澪は濡れた頬をそのままにして、ベンチに座り続けた。公園には誰もいなかった。誠もいなかった。誠はもうここには来ないのかもしれない。誠がここに来なくなったのが、なぜかはわからない。わからないが、今となってはそれも同じことのように思えた。

 葛木もいない。誠もいない。誰もいない。


 澪は七か月目のお腹に視線を落とした。丸くなった腹が、コートの上からでもわかった。この中に、葛木との子供がいる。この子供だけは、まだここにいる。


 でも、この子供のために頑張れるだけの力が、今の澪にはどこにもなかった。


 ――◆◇◆◇――


 その夜の後、澪の日常は音を立てることなく変わった。


 公園に行くことをやめた。誠がいないと分かっているのに夜の公園に行く意味を、澪はもう見出せなかった。


 アパートに戻り、布団を敷いた。眠れる時間に眠り、目が覚めたら食べた。食欲があるわけでもなかったが、お腹の子供のために必要なことだけをこなした。内職の作業も続けた。手を動かしている間は考えずに済む。


 夕方になって寺の鐘が鳴ると、澪は作業をやめてその音を聞いた。

 もうそろそろ夜になる。そう思った澪の頭に浮かんでくるのは誠のことだった。


 誠が来なくなったのはなぜなのか、今でも答えはわからない。自分が何か悪かったのかもしれないという考えは、あの夜以来少しだけ変わっていた。自分が悪かったのかどうかよりも、もっと根本的なことが澪の頭に浮かんでいた。葛木が去ったのは、自分に価値がないからではないか。


 誠が来なくなったのも、同じことではないか。他人の子供を孕んだ少女に、側にいる理由を感じなくなったのではないか。


 澪は腹に手を当てた。そこには確かに新たな命があるが、腹の中の子供は葛木との子供だ。葛木は去った。その葛木の子供を、誠が抱える理由は何もない。


 当然のことだった。当然のことなのに、それでも澪の胸は軋んだ。


 鐘の音が遠ざかっていく。部屋に残ったのは静寂だけで、澪は手を腹から離すことができないまま、少しの間だけ目を閉じた。


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