↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛に魔法はいらない  作者: 農民ヤズー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/12

閑話『鐘の聞こえた夜』

 物心がついた頃から、澪の世界は整っていた。

 

 白川家の一人娘として育った澪にとって、生活が何かに脅かされるという経験がなかった。父は地元で複数の不動産を所有する実業家で、母は元ピアニストだった。広い家には手入れの行き届いた庭があり、澪は小学生の頃からピアノを習い、毎週家族で外食をしているような生活を送っていた。澪にとってはそれが当たり前の日常だったのだ。

 

 女子高に進学したのは母親の勧めがあったからだ。進学実績があり、礼儀と品性を重んじる校風の学校。勧められたままに入った学校ではあったが、特に不満があるわけでもなく普通に馴染むことができた。友人もいたし、勉強も苦手ではなかった。ただ、その世界が少し狭いとは感じていた。


 整然としていて、清潔で、皆真面目に過ごしている素敵な学校。

 しかしどこか閉塞感のある閉じた世界。

 けれど何が嫌かと言われれば特に挙げるところはなかった。ただ、漠然とした思いがあっただけ。だが確かに澪の中には言葉にはできない不満があった。

 

 澪が恋人と……葛木と出会ったのは、高校二年の春だった。


 ――◆◇◆◇――


 きっかけは友人に連れられて行ったカフェだった。友人の知り合いが集まる会があるからと誘われ、深く考えずについていったその席に、葛木隆也はいた。

 

 二十五歳で、ほどほどに背が高い男性。広告関係の仕事をしていると語った姿には余裕が感じられた。

 澪のような女子高生が日常的に接する人間とは明らかに違う種類の人間。そんな風に澪の目には葛木が映っていた。

 

 始まりは葛木から澪に話しかけてきたが、まるで非日常が自分から近づいてきてくれたようで澪もそれが嫌ではなかった。

 話したのはなんて事のない日常の話。学校のこと、好きな音楽のこと、将来何をしたいかということ。他愛のない話ではあったが、親とは違い説教臭くなく小言もない。無駄に遮ることもなく、澪の感じていた学校への不満も理解し、ただ真剣に自分の話を聞いてくれていた。それだけのことだったが、澪にはそれが嬉しかった。

 

 その後も葛木から連絡が来た。また会おうと言われ、澪は断らなかった。

 二度、三度と会ううちに、澪は自分が葛木のことを好きなのだと気づいた。これが恋なのだと自室で一人舞い上がったコットもある。

 ピアノの練習中も、授業中も、葛木のことを考えていた。返事が来るかどうかを確認するためだけにスマートフォンを手に取る習慣がついた。

 

 そんな日々が続いた年の夏、澪は交際を申し込まれ頷いた。

 両親には言わなかった。葛木とは少し年が離れていたし、学生と社会人が付き合ったとなれば両親から反対されるかもしれないと思ったから。


 それに、今は両親に秘密にしておくことの罪悪感よりも、二人だけの秘密を共有しているという特別感の方が上回っていた。

 やがて季節は過ぎていき夏が終わり、秋が過ぎ、訪れた十七歳の冬。澪が妊娠していることが分かった。


 ――◆◇◆◇――


 不意に訪れた結果を見た瞬間、澪の中に喜びが生じた。だがそれと同時に、恐怖も襲い掛かってきた。

 

 怖かった。当然だ。高校生での妊娠なんて、世間知らずな澪でも大変だろうということは理解できた。しかも葛木との関係はまだ両親に伝えていなかったのだ。両親に怒られることは目に見えていた。

 けれど同時に、葛木との間に新しい命ができたのだという事実が澪の心に温かさをもたらした。

 

 子を宿したことを葛木に伝えると、葛木は我が事のように喜んだ。ようやく子供ができた、と喜んだ葛木を見て、澪は葛木が心から自分との子供を望んでくれていたんだと理解でき、心のうちに合った不安が全部吹き飛んだように感じられた。


 そしてついに、葛木との関係、そして澪自身が子を宿したことを両親に話すことになった。澪にとって両親に事情を話すのは恐ろしかったが、葛木が一緒にいてくれるなら何も怖くなかった。


 だが結局、両親に事情を話したのは澪一人だけだった。

 葛木は逃げたわけではない。無責任だったわけでもない。ただ、いきなり葛木を交えて話すよりも娘の口から聞いた方が両親も受け入れやすいだろう、という葛木の言葉に説得された結果だった。


 葛木の言葉には一理ある。どう考えても言い争うことになるのだから、部外者を交えるよりも先に家族だけで話をするべきなんだろう、と。

 だが澪は、そんな理屈がわかっていたとしても隣に葛木が一緒にいてほしかった。


 それでも結局澪は一人で両親に話をした。話を聞き終えた父親の顔が見る間に変わった。怒りというよりも失望だろうか。そんな父親の顔を見たのは澪も初めてであり、急に自分の状況が恐ろしく感じられた。恋人がいるのは嬉しいことだ。子供ができたのは素敵なことだ。これからの人生は素晴らしく輝いている。そのはずなのに、どうしてか澪は無性に恐ろしくなった。


 そんな恐怖を消し去るべく今度は母親のことを見たが、澪が視線を向けた先で母親は泣いていた。その光景が、余計に澪の中に生まれた恐怖を煽る。それでも何とか最後まで話をし、今何を思っているのか、これから自分がどうしたいのかも必死になって話していく。もう両親の顔は見ていない。いや、逆だ。両親の顔色しか見ていなかった。


 どうにかこの状況を乗り切ろうと、全身を冷やす熱の気持ち悪さの中で必死になって言葉を重ねていく。正直なところ、この時澪自身何を話したのか覚えていない。ただ、どうにかして認めてもらおうと頭に浮かんできた言葉をもっともらしく飾って吐き出しただけだった。


 それでも永遠に喋り続けることはできず、しばらくして澪の言葉は止まった。全ての話を聞き終えたことで沈黙が訪れ、沈黙に耐えきれず澪が顔を逸らしたところで父親が口を開き、ハッキリと告げた。


 ――未成年の娘を妊娠させるような男は信用できない。その男との将来を認めることはできない、と。


 当然のことだった。未成年と社会人が付き合っているというのはまだ理解できる。恋仲の男女なのだから情事に及ぶのも仕方ないというものだろう。だがその対応がお粗末すぎる。行為に及ぶのなら、せめて避妊をするべきだった。未成年との性交という犯罪を行う心の弱さも、その後の責任感も、何もかもが娘の相手として考えるには不適格だった。

 

 その後に葛木も交えて話し合いの場が持たれたが、結果は変わらない。父親は葛木に対して終始冷静だったが、その冷静さの中に取り付く島のない固さがあった。母親に至っては葛木を見ようとさえしない。


「認めてもらえるまで、諦めない」


 だがそんな二人の判断が澪の反抗心に火をつけた。

 今の自分は幸せなはずだ。幸せでなくてはいけないんだ。なのにどうして両親は自分たちのことを認めてくれないのか。そんなのは絶対に間違っている。


 澪は本気でそう思っていた。そして、なんだかんだと言いつつもいずれは二人とも自分たちの関係を認めてくれるとも。しかし話し合いは二度、三度と繰り返されても結論は変わることはなく、その度に双方の立場が固まっていくだけだった。両親の態度は一貫していた。葛木との関係を続け、子供を産むというなら、家から支援をすることはない。そう言い切られてしまった。


 そこまで言われれば澪とて我慢しているだけではいられない。遂に澪は家を出て一章に暮らすことを葛木に提案した。両親の助けなんて求めない。両親の許可も必要ない。ただあなたと一緒にいられるのならそれで十分なのだ、と。


 葛木はそんな澪の言葉を聞き不満そうに顔をしかめたが、少し考えこんでから途端に笑みを浮かべて澪の言葉に同意した。きっといずれは親御さんも自分たちの関係を認めてくれるだろう、と言いながら。


 そうして澪たちは澪の実家から離れ、自分たちでアパートを借りて暮らすことにした。


 自分と愛する人、そしてお腹の中の子供の三人で暮らす生活はどれほど幸せなことだろうか。両親に認めてもらえなかったのは悲しいけど、それでも葛木の言う通りいつかは認めてくれることを願いながら始まった生活は、だが澪が想像していたものとは大きく違っていた。


 お金持ちだった実家とは違い、狭くぼろいアパートでの生活は澪にとって初めての経験であり、今まで経験したことのない様々な苦労が訪れていた。


 葛木は家にいることが少なかった。仕事があるのは分かっていたが、帰りが遅い日が何度もあった。予定していた帰宅時間に帰ってこず、帰ってくるのを待っていたらいつのまにか寝てしまい、スマートフォンの画面には会社に泊まるという文章。そんな日が何度もあった。


 必然的に澪は一人でアパートにいる時間が長くなった。学校にはもう行けない。友人から連絡が来たが、どう答えればいいか分からず既読だけつけて返事をしないことが多くなった。

 

 そんな日々であっても葛木は優しかった。少なくとも澪にはそう見えた。疲れて帰ってきても澪に怒鳴ることはなかったし、子供のことも頭ごなしに否定しなかった。ただ、ことあるごとに〝お父さんたちに連絡してみたらどうだ〟と説得してくることだけが不満……いや、気になったが、自分たちの状況を考えれば気になるのも改善しようと思うのも当然のことなのかもしれないと思い黙っていた。

 

 だが葛木は澪と両親の復縁を諦めたわけではない。葛木は澪を説得しつつ何度か澪の実家に連絡を入れていたが、その全ては無駄に終わった。


 二人で生活をし始めてから澪の体調は悪くなる日が多くなった。眠くなりやすく、集中できない日が続いた。心が不安定になり、なぜだか涙が出てきてしまうこともしばしば。その変化が、葛木との間の空気を少しずつ変えていった。葛木の帰りはさらに遅くなり、休日もいないことが増えた。その変化に澪も気づいていたが、それでも澪は尋ねなかった。尋ねることで何かが崩れるような気がしてしまったから。


「生活費を稼ぎに行ってくる」


 そんな生活が続いた十二月の初め、葛木は突然そう告げてきた。澪が妊娠してから三か月目のことだった。


 遠方での仕事が入ったようで、出張してくるらしい。しばらくは帰れないが心配しないでほしいと告げてきた葛木に、澪は自分でもわからない不安を胸の奥に感じたが、それでも頷いて葛木を送り出した。他にどうすればよかったか、その時の澪には分からなかったから。

 

 それから一か月が経った。


 ――◆◇◆◇――


 葛木からの連絡は来なかった。


 最初の一週間は仕事が忙しいのだろうと思っていた。どこに行ったのかは聞いていないが、遠方であれば生活リズムも変わるだろうし、連絡できない事情があるのかもしれないと思った。それでも澪は毎日スマートフォンを確認した。葛木の名前が画面に現れることを待ちながら、待っていないふりをして過ごした。


 二週間が経っても何の連絡もない頃から、違う考えが頭をよぎるようになった。


 捨てられた、という言葉。それが頭に浮かぶたびに、澪は唇をかみしめて必死になってそのくだらない考えを振り払う。


 まだ一か月も経っていない。出稼ぎというのはそういうものかもしれない。連絡できない環境にいるのかもしれない。自分は社会人になったことがないのだから、出張というものについて疑問を抱くべきではない。そう言い聞かせることで、その言葉を頭の外に押し出した。

 

 だが押し出しても、少し時間が経てばまた浮かんでくる。

 貯金が減っていた。葛木がいた頃は葛木の収入で賄えていた部分が、今は澪の手元にある僅かな蓄えから出ていくばかり。そんな状況をどうにかしようと、澪は内職を始めた。どこかでアルバイトをする、という手もあったが、お腹の中の子供が心配で、あまり外出しなくともすむ仕事をしようと思ったのだ。


 だって、お腹の中の子は葛木との子供なんだから。この子がいれば自分は幸せになれるはずなんだから。だから、万が一が合ってはいけないのだ、といつの間にか将来の不安の解消をお腹の子供に求めるようになっていた。


 ぼろいアパートの中で作業をしながら、澪は何も考えないようにしていた。考えると、辿り着きたくない場所に辿り着いてしまうような気がしたから。

 

 十二月の終わりになって、部屋の中にいることが苦しくなった。

 葛木との思い出が、この部屋のあちこちにあった。葛木が使っていたマグカップ。葛木が置いていった雑誌。葛木の習慣が染み込んだこの空間に一人でいると、その不在がかえって形を持って迫ってくるようだった。


 それらを無視して何も考えないまま、ただ空虚な生活を送っていると不意に外から低く重い鐘の音が聞こえてきた。


 その音を聞いたことで、澪は今日が大晦日であることを思い出した。年末や信念はどうしようかと葛木と話していたこともある大晦日。けれどそばに葛木はおらず、薄暗く寒い部屋の中で澪は一人きり。いや違う。一人ではない。お腹の中に子供がいるのだから二人だ。そんな詭弁だけを心の支えにしていたが、除夜の鐘の音が届くたびに澪の心の中で何かが崩れていった。


 年が変わろうとしている。葛木がいないまま、この部屋で、一人で、年が変わろうとしている。その事実が澪の体の奥から何かを引き出した。思考がまとまらなかった。悲しいのか、怖いのか、怒っているのか、ただ疲れているのか、あるいは……諦めているのか。澪には区別がつかなかった。

 

 気がついたら、澪はコートも羽織らないまま部屋を出ていた。

 部屋を出て階段を降り、アパートの外を歩く。冷気が肌を刺したが、今の澪はそんなことは気にしていなかった。何も思わず、何も感じず、ただ足が動くままに歩いた。どこへ向かうかも決めないまま、ただひたすら歩き続けていると、足が痛くなってきた頃に公園があることに気づいた。


 公園に立ち寄った澪はベンチに座った。座って、動けなくなった。

 座ったまま呆然と空を見上げれば、自然と様々な思い出が頭に浮かんできた。子供のころのこと、学校の友人たち、両親の顔、そして――葛木とのこと。


 けれど、そんな楽しい思い出がすべて消え失せ、隣には誰もいない。誰も、笑いかけてくれない。


 ………………………………こんなはずじゃなかった。


 そう思うと澪の体から力が抜け、ベンチに倒れこんでしまった。

 ただ認めてもらいたかった。恋人ができた事を喜んでほしかった。子供ができた事を喜んでほしかった。ただ、一緒に笑っていてほしかっただけなのに、なんで……。


 そんな思いが澪の中にあふれ、澪は泣き出してしまいそうな顔を両手で覆った。けれどそんなことではあふれ出てくる感情は抑えきれず、澪自身気づかないまま顔を覆った手が顔に爪を立ててしまっていた。


 帰りたい。帰れない。帰らない。けれど、その全てがどうでもいいもののように思えた。


 ここで休んでしまえばいい。眠ってしまえばいい。こんなものは自分が望んでいた世界じゃない。きっとこれは悪い夢なのだから。


 そうして澪が辛い現実から逃げるように目が閉じかけたその時、声が聞こえた。


「あの……大丈夫ですか?」


 男性の声だった。ふいにかけられた声に、澪は顔を上げた。誰が来たと考えたわけではない。ただ声をかけられたから反射的に顔を上げただけ。


 街灯の薄明かりの中に、見知らぬ男性が立っていた。男性は驚いた様子で、しかし逃げる様子もなく澪の事を見ていた。

 

 澪は薄壁一枚隔てられたような、どこか現実味を感じられないぼやけた思考でその人の顔を見た。誰かは知らない。何者かもわからない。ただ、その目が澪を心配していることは分かった。心配している、ということだけが、その目に確かに宿っていた。


 それだけで、澪は少しだけ救われた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。