三章『約束した夜』
二月に入った。
誠と澪が出会った日から一か月が経ち、二人の間には挨拶以上のものが生まれていた。といっても劇的な変化があったわけではなく、ただ少しずつ、互いの存在が日常に溶け込んでいたというべきだろうか。
誠が公園に行けば澪がいる。澪が待っていれば誠が来る。そんな日々の繰り返しが積み重なって、二人の間の空気から余分な緊張が少しずつ抜けていった。
誠の言葉遣いが砕けてきたのは、二人が自己紹介をした日のさらに一週間ほど後のこと。話しているうちに砕けた言葉が出てきてしまい、それを丁寧に言い直す、ということを誠が繰り返していたところ、澪が言葉遣いは気にしなくてもいいと伝えたことで誠は普段通りに振舞うことにした。
誠も澪に対して同じように伝えたが、元の育ちがいいからだろうか。澪は丁寧に話すことが習慣づいているようで、今も初めて会ったときと同じように話している。だがその言葉に込められている感情は、二人が出会ったときのものとは明らかに違っていた。
言葉だけではない。澪が誠のことを見る回数が増え、誠が気まずさを感じる回数が減った。
だが、変わったところがあったとしても、変わらないところも確かにある。接する態度が変わったとしても、二人の関係は出会ったときからずっと変わっていない。ただ夜の公園で会い、少し話をして別れるだけの関係。
実際、この一か月の間に誠が澪について知ったことはこれといってなかった。もちろん会話の中で得られた情報はある。何を食べた。何を見た。何を思った。そういう日常のことは聞いていたが、澪の事情に踏み込んだ話は言わなかったし、聞かなかった。でも、それでよかった。澪が話したいのであれば聞くし、話したくないのなら聞く必要はないのだから。澪としても、むやみに踏み込んでこない誠との会話はどこか心地よさを感じていた。
ただ、そんな関係であっても誠は澪に聞きたいと思った事柄が一つだけあった。澪の健康のことだ。もっと言うのなら、食生活について。
誠は、出会った時よりも澪がやつれていることに気づいていた。頬の輪郭が少し削れ、目の下に疲れが滲んでいる夜が増えた。寒い季節に毎晩外に出ていることの消耗もあるだろうが、それだけではなく生気のような何かが澪の体から少しずつ失われているように見えた。
誠はその変化を見ながら、自分に何かできることがないかを考えていた。そして、一つの結論を出して澪へと声をかけた。
「余ってる米があるんだけど、いるか?」
誠はそう口にしてから少し唐突過ぎたかと後悔をしたが、伝えた内容自体はまさしく自分が考えていたこと。
澪は以前よりもやつれていたが、もちろんそれは精神的な負担もあるだろうが、それ以上に食事の量が足りていないのではないかと誠は判断したのだ。だからこその米。お金を渡すのやご飯を奢るのはなんだか違う気がしたし、そんな関係ではない。だが自分の家で採った米を贈り物とするくらいなら普通のことだろう。誠はそう判断したのだった。
「お米、ですか」
「ああ。なんだかやつれているみたいだったから。ちゃんとご飯を食べられてないんじゃないかって思ってさ。うちは農家だから米はいっぱいあるんだ。家族が食べる分はあるんだけど、正直うちの家族はあんまり米を食べないから余ってるんだよ」
それは本当のことだった。米の大半は売り物として出荷するが、そのうちのいくらかを自分の家用にとっていた。だが自分の家だけでは消費しきれず、毎年収穫の時期になると昨年分が余っていて、格安で売ったりその年に確保する量を減らしたりと調整していた。だからここで澪に分けたところで困ったりはしない。
仮に確保してある米が少なかったとしても、誠は同じように提案していただろう。澪の体調がそれだけ気になったというのもあるが、何より澪に食べてもらいたいと思ったから。
そんな思いを口にするのがなんだか気恥ずかしく、さも処分に困っているとでも言うかのように話したのだった。
「ですが……」
「ほんとに余ってるんだよ。なんだったら三年前の古米とか残ってるし、むしろ処分すると思って受け取ってもらえると助かるんだ。ああ、三年前って言ってもちゃんと保管してあったから食べる分には問題ないよ」
迷惑はかけられないと思ったのか澪はしばらく迷っているようだった。受け取ることへの遠慮なのか、それとも別の何かなのか、誠には判断がつかなかったが、澪が気を遣わなくて済むようにと言葉を重ねると、やがて澪は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「じゃあ明日持ってくるよ」
翌日、誠は約束通り米を十キロ用意して夜の公園にやってきた。はじめは二十キロでも持ってこようとしたが、途中で流石に女性一人……しかも健康状態があまり良くない妊婦に二十キロを運ばせるのはまずいと思い直し、半分の十キロに変えたのは良い判断だったといえるだろう。
だが、自分が余裕で持てるからといって澪も同じように問題なく持ち運べるかといったら、そうではなかった。
「ありがとうございます」
そう言って澪は誠が持ってきた米を持とうとしたが、持ち上げたところで再びベンチに米を下ろしてしまった。
考えてみれば当然のことだ。澪は平均的な体格をした十七歳の少女であり、妊娠もしている。加えて現在は栄養失調気味となれば、十キロの荷物を持つだけで相当な労力が必要となった。
そのことに今更ながら気づいた誠は、申し訳なさそうに表情を歪めた。
「悪い。もっと考えるべきだった」
「いえ、頂いたのは私の方ですから」
だからこのくらいは自分でどうにかすべきだ。そう言うかのように澪は再び腕に力を込めて米を持ち上げようとするが、そんな様子を見ていた誠はわずかに逡巡した様子を見せてから手を伸ばした。
「家まで届けるよ」
そして澪が持ち上げようとしていた米を持つと、誠はそう告げた。
これまでお互いに家の場所を教えたことはなかったし、訪ねるなんてもってのほかだった。今までは知らなかったし、聞くことで今の関係が崩れてしまいそうな気がしていたから聞くことはなかったが、今は状況が状況だ。流石にこのまま見過ごすことは誠にはできなかった。
「え……。あ、その……お願い、します」
誠のことは信用している。けれどだからといって家にまで招待していいのかというのは別問題だ。女性の一人暮らしだというのに家の場所を教えてはいけないという常識くらいは澪の中にもあった。
それに何より、今の澪は恋人がいるのだ。しかもその人の子供を孕んでいる。いくら恋人がしばらく帰ってきていないとはいえ、それでも恋人関係は続いている。少なくとも澪の中ではまだ自分には付き合っている人がいるという認識だった。そんな状態で他の男性を家に招待するという行為に、僅かばかりの抵抗感があった。
とはいえ、ここで断ったところで何の問題もなく米を自宅まで運べるという保証はない。お腹の中の子供のためにも無理はしない方が良いだろう。そう判断し、澪は多少のためらいを見せた後に誠の提案に頷くことにした。
そうして誠と澪は並んで歩きだしたのだが、二人で夜道を歩くという状況に、澪は久しぶりだという感覚とどこか新鮮に思える感覚の両方を感じていた。以前は夜の街を葛木とともに歩いていた澪だったが、今となりにいるのは恋人ではない別の男性。その状況の違いに悲しみや罪悪感といういろいろな感情が入り混じった思いを感じていた。
誠と澪が歩き出してから十分ほどたったところで、澪の足が止まった。
それに合わせて誠が目を向けると、古い建物があった。外壁のペンキが所々剥げていて、金属の階段には錆が浮いている。アパートの名前の一部が取れているため初見ではわからないかもしれないと思えた。
建てられてからかなりの年数が経っているのだろうということは一目で分かったが、それ自体は特別珍しいことではない。誠としても特に気になったわけではない。誠が気になったのはその建物そのものよりも、この場所で澪が一人で暮らしているという事実の方だった。本当にこんなところに澪が住んでいるのかと誠は驚いたが、澪の状況を考えればそれも仕方ないのだろうとそれ以上考えることをやめた。
「部屋は二階なんです」
澪はそう言って再び歩き出し、歩くたびに少し軋むような音のする階段を上っていった。誠はその階段の音を聞いてわずかに眉を顰めたが、それ以上反応することはなく澪の後に続いて慎重に階段を上ってついていく。
人一人分くらいの広さしかない狭い廊下を進み、澪は一番奥の角部屋の前で止まった。そうしてドアを開けると澪が先に部屋の中に入っていき、誠はその後を少し躊躇いがちに続いた。
部屋の中に入ってすぐ目についたのは、どこかちぐはぐな印象の部屋だった。女ものの私物は部屋中に存在しているが、恋人の私物はなぜか部屋の隅に寄せられていた。段ボールなどに入れてまとめているわけではないが、ただむき出しのまま端に追いやられている。
ここは澪と恋人の部屋のはずなのに、二人で共に暮らしているという印象の薄い部屋だ。だがそれも仕方ないことなのかもしれない。澪の恋人は出張に行ってしばらく戻ってきていないらしいのだから。澪としても部屋で作業をすることがあるだろうし、使わないものは部屋の隅に追いやられても当然のことだった。
そんなちぐはぐな部屋の窓には薄いカーテンがかかっているが、カーテンは半分程度しか光を遮れておらず外の建物の光が部屋の中に入ってきている。
これまで誠は澪の事情を大ざっぱにだが聞いていたが、聞いてきた言葉の意味がこの部屋の中に凝縮されているような気がした。
ここには生活があるが、幸せな未来を夢見て家を飛び出した少女の理想は存在していない。私物も端に寄せられた男物が大半で、澪自身のものといったら本当に必要最低限のものしか見当たらない。
ここで暮らしているというよりも、ただ生きているだけの場所。誠はそんなイメージをこの場所に抱いた。
「そちらにおいてもらえますか?」
「あ、ああ……」
澪の部屋を見て知らずのうちに唇を固く結んでいた誠は、澪に声をかけられたことでハッと気を取り戻し、頷きながら玄関の隅に米袋を下ろした。
誠のやることはこれで終わりだ。今からまた二人で公園に行くわけもなく、あとは誠がこの部屋から出て行って終わりだ。そしてまた明日からはいつも通り夜の公園で少しだけ話をするだけの関係に戻る。
そう思った誠は、胸の奥に生まれた自分でもわからない感情……あえて言うのであれば不快感だろうか。それを吐き出すために一度だけ深呼吸を行った。
「じゃあ、俺は帰るよ」
「あの、ありがとうございました」
「いいよ」
たったそれだけの短い会話を終え、誠は身をひるがえしてこのちぐはぐな部屋を去ろうと澪に背を向けた。
「あの……」
だが、そんな誠の背中に澪の声がかけられた。呼び止められると思っていなかった誠は不思議そうな表情をして振り返るが、振り返った誠を見て澪はなぜだか驚いたような表情をしている。
まさか振り返ると思っていなかったのか、あるいは、そもそもなぜ誠を呼び止めたのか自分でもわかっていなかったのか。澪が浮かべた驚きは澪自身にもわからないものだった。
けれど呼び止めた以上は何かを言わなければならない。そんな思いから澪は視線を彷徨わせながら言葉を探し、誠のことを見て少し躊躇ったように口を開いた。
「また……。また、明日」
初めてだった。今まで夜の公園で会うことを約束なんてしてこなかった二人の間で、初めての再会の約束。
その言葉に一瞬何を言われたのか分からなかった誠だったが、すぐに言葉の意味を理解し、同時に困惑した。なんでこんな約束を。自分たちはただ偶然夜の公園で出会って少し話をしているだけの、そんな関係じゃなかったのか。公園に行って、会えればよし。会えなくともよし。そんな程度の関係だったはずなのに。澪だってそう思っていたはずだ。だからこそ今まで約束なんてしてこなかったんじゃないのか。なのになんで今日に限って……。
そう思った誠だったが、疑問を感じつつも断るほどのことでもないと頷くことにした。
「……ああ。また明日」
そうして返事をした誠は澪の顔を見て、その肩越しにちぐはぐな印象の部屋を見た。
なぜ再び部屋を見たのか。それは誠にもわからなかったが、部屋を見てから再び澪に視線を戻した。
「それじゃあ」
誠はそれだけ告げると他には何も言わずに部屋を出ていき、澪はドアが閉じるまで誠の背中を見続けていた。
自宅への帰り道、誠の足は澪の家に向かった時よりも重かった。
米袋がない分だけ軽くなるのだから普通ならば早くなるところだろう。だが、体は軽くとも心はむしろ重くなっていた。
理由は分かり切っている。あの部屋だ。正確にいうなら、あの部屋で暮らしている澪のことが気になったから。
恋人の私物はそれなりにあったが全て部屋の隅に寄せられ、澪の私物は部屋全体に存在していたが最低限のものしかない。そんなどこかおかしな部屋。
恋人と共に暮らしているはずなのに、肝心の恋人は二か月以上もの間帰ってきていない。それどころか連絡すらない。どう考えてもおかしな状況だ。いくら出張で忙しいといっても、恋人に連絡の一つくらいはするものだろう。この状況が意図的なのか事故なのかはわからないが、おそらくは……。
そこで誠は頭を振り、それ以上考えるのをやめた。所詮は他人のことだ。部外者である誠が下手に踏み込むべきことではない。
ただ、そう思いはしてもやはり気にはなる。
あの妙に生活感を感じられない部屋で、澪はどう暮らしているんだろうか。戻ってこない恋人の私物を見て、何を考えているのだろうか。
そんなことを考えていた誠だが、その考えに答えは返ってこない。
あの部屋での暮らしや恋人への想いを想像しようとしたが、誠には上手く思い浮かべることができなかった。澪のことをそれほどよく知らないというのもあるが、誠には親と喧嘩して家出をするほど誰かを好きになった経験も、はっきりと好きだと言えるほど何かに夢中になった記憶もなかったから。人と深くかかわることがなく、状況に流されて生きてきた誠の感覚では測れない何かがあの部屋にはあったように誠は感じた。
誠は冬の夜空を見上げながら深く息を吐き出した。自分が米を持っていったことが、一体どれほどの意味を持つのだろうか。あの部屋を見た後では、自分のちっぽけな行為は単なる偽善でしかなかったのではないだろうか。誠の心にはそんな思いが浮かんでいた。
「なにか、もっと……」
助けてあげたい。そう思った誠だったが、何をすればいいのか、そもそも何かしていいのかさえ分からず、その先を言葉にすることはなかった。
次の日の夜、誠はいつもより少しだけ早い時間に公園に向かった。それはべつに意図して早く向かったわけではなく、ただ何となく早くなってしまっただけのこと。少なくとも、誠自身はそう思っている。
公園に着くといつもより早い時間ではあったが、公園にはすでに澪がいた。いつものベンチに、いつもの姿勢で。けれどいつもとはどこか違う雰囲気で座っていた。
ざっざっ、と足音が出るようにわざと少し踵をずりながら誠が歩いていると、その音を聞いて澪は頭を動かして誠のことを見た。
誠と澪の視線が交わった瞬間、安堵したのか澪の表情は心なしか力の抜けたものになっていた。なぜ澪がそんな表情を浮かべたのか、その理由は誠には分からなかった、その変化はなぜだかよいもののように感じられた。
「昨夜は、ありがとうございました」
「ああ。別に大したことじゃないけどな」
ベンチに座りながらも誠のことを見て頭を下げ、しっかりと感謝を伝える澪だが、単なる気まぐれの行動であり、澪の生活に大した影響を与えられたわけではないと思っている誠としては、そこまで本気で感謝されるとなんだか気恥ずかしさを感じてしまった。
「いいえ。本当に、ありがとうございました」
だが、誠にとってはたったそれだけのことであったとしても、澪にとっては違った。
家を出て頼れる人は恋人しかいなかったのに、その恋人はずっと帰ってこない。澪は自分が独りぼっちになってしまったかのように感じていたのだ。未来の展望がなく、見えるのは暗闇ばかり。けれどそんな状況であってもお腹の子供だけはどうにかして生まないといけない。その不安と恐怖は、到底言葉では表し切れないものだった。
そんな中でこうして毎日顔を合わせ、自分のことを助けようとしてくれる存在がいると知ることができたのはどれほど励ましになったか。
しばらくの間、二人は黙っていた。それは感謝をした方もされた方もどちらも恥ずかしさを感じていたというのもあるが、それ以上に言葉を交わさずともただ一緒にいる時間が嫌いではなかったから、かもしれない。
二月の夜の空気は相変わらず冷たかったが、その空気感は一月の頃よりはわずかに丸みがある気がした。それは新年が始まって一月が経過したことによる変化か、それとも単純に気温が暖かくなっただけなのか。どちらであったとしても、少しずつ、だが確実に季節は動いていた。
誠はベンチの背もたれに体を預け、手を体の横に置いたが、そこでふと以前の出来事を思い出した。
以前、ベンチに手を置いたら偶然澪の指に触れてしまった。小指の側面が少し触れただけだったが、どうしてか離し難かった事故。あの時のことを思い出しながらチラリと横目でベンチを見ると、あの時と同じように澪の手もベンチに置かれており、誠の手と並んで置かれていた。
けれどあの時よりも二人の手の距離は遠く、その事実がなぜだか誠の胸に小さな痛みを生じさせた。そして、そんな痛みと同時に誠に一つの疑問を抱かせた。
自分はなぜこの少女のことをこれほどまでに気にかけているんだろうか、と。
事情を知った。哀れだと思った。困っているのだから助けたいと思った。
それ自体は普通のことだろう。深く知っているわけではないが、聞いた限りでは澪の状況は同情に値すると思えたのだから。
けれど、それだけでこんな約束もしていないのに毎日会いに来るだろうか? 自分は果たしてそんな人間だっただろうか? そんな疑問が誠の中に湧いてきた。
この指に触れれば、少しはなにかわかるんだろうか。
なぜそう思ったのか誠自身分からなかったが、そんな思いが頭の中に浮かんできたということは間違いなかった。
だが、だからといって実際に行動に移すかは別だ。誠は澪の事情に踏み込むべきではないと思っているし、そもそも年が離れている。三十を過ぎた男が未成年の少女の手に触れに行くなんておかしいだろう。そんな常識が頭の中にあった誠は数センチの距離を詰めることはなく、むしろ手を引っ込めようとした。
だが誠が手を引っ込めようとしたその瞬間、澪の手が動いた。それはほんの些細な動き。気にしていなければ気づかなかったであろう程度のかすかなもの。だがそれでも、確かに澪の手は誠の手に寄せられていた。数センチの距離が縮まり、そしてついには誠の手に触れた。
あの日と同じように小指同士が微かに触れ合う。違うのはそれが偶然ではなかった事だけだった。
そんな澪の行動に誠は反射的に手を引っ込めようとしたのだが、どうしてか意思に反して手が動かない。
どうして。そう考えるが答えは出ず、手を放すことは諦めて今度は澪の顔を見るが、澪は正面を向いたままわずかに俯いて誠のことを見ようとしない。
何を思って澪が手を寄せてきたのかは……わからない。けれど、ここで手を放してしまえば澪が壊れてしまうかもしれない。そんな思いが生じた。
だがそんな思いとは別に、誠自身澪と触れているこの状況が嫌ではなかった。そんな風に思ってしまったからだろう。
気づけば誠は正面に向き直り、手を少しだけ澪の方へと寄せていた。
ほんの微かに触れる程度の接触が、今ではお互いの存在を主張するようにしっかりと触れあっていた。
その瞬間、澪の肩から力が抜けていくのを誠は感じた。これまでにも何度か感じてきた変化だった。呼吸が少し深くなり、張り詰めていた何かが緩んでいくような、そんな感覚。
誠はその変化を感じとり、どこか浮ついていた心が冷や水を浴びせられたように急速に冷めていき、そして嫌な考えが頭をよぎった。
――これは自分の魔法ではないか、と。
触れた相手の心を安らがせる。誠がずっと持て余し、呪いさえしたその魔法。今澪に起きている変化は、誠という人間がもたらしているものではなく、誠に宿っている〝何か〟がもたらしているものではないか。
だとすれば、澪が誠の側にいることで得ているものは、誠という人間への信頼や安心ではなく、誠の魔法が生み出した偽りの安らぎということになるのではないだろうか。
これまでも様々な場面で浮かんできた考えが、ここに来てその存在感を強く主張し始めた。
誠自身、多少なりとも澪の助けになっているだろうという思いはあった。事実、それは間違いない。かつては虚ろだった澪の態度は、この一か月でわずかながら変化していたのだから。
毎晩公園に来て、少しずつ言葉を交わすようになったことの意味は確かにあったのだ。少しずつ話をするようになり、明るくなってきたと思えたことに誠はこれまでの人生にない充足感のようなものを感じていた。自分は誰かの助けになることができたのだ、という実感があった。
だがそれは、果たして本当に誠自身の成果だったのだろうか。
誠の感じていた実感は誠自身の成果ではなく、わけのわからない魔法によるものだとしたら。
澪が安らぐのは誠だからではなく、誠の魔法がそうさせているだけだとしたら。
澪が毎晩ここに来るのも、誠という人間に引き寄せられているのではなく、誠が触れることで生じる安らぎに引き寄せられているだけだとしたら。
誠はその問いの答えを持っていなかった。持っていないまま、小指の側面が触れている感触だけがあった。
澪は何も言わない。誠は何も言えない。二人はただ並んで夜の公園を見ていた。
しばらくして、澪が独り言のような声で言った。
「少し、温かいです」
その言葉が指しているのは触れている指のことか、それとも別の何かのことを言っているのか、誠には判断がつかなかった。
「……そうだな」
判断がつかず、考えるのをやめた。
まだ迷いはある。魔法に対する恨みも、澪の変化に対する疑いも。もしかしたら澪の変化は魔法の影響かもしれないと、今も思い続けている。
だがそれでも、出会った頃はどこか壊れて見えた少女がまともに話せるようになったのだ。それ自体は良いことのはず。なら、この呪いのような力を利用しない理由はない。誠はそう割り切ることにしたのだった。というよりも、そう割り切らなければ今度は誠の心が壊れていたかもしれない。考えることをやめたのは一種の防衛本能なのだろう。
二人の白い息が夜の空気に溶けていく。小指の側面が触れたまま、時間が静かに流れた。
誠は小指に生まれた温かさを感じながらも、なぜだかその温かさが消えてしまったかのように感じられた。
冬の夜は、まだ寒い。




