二章『変わっていく夜』
植物というのは人間の事情を考慮してくれない。農家という仕事はそんな植物たちを相手にしているのだから、決まった休みというものが存在していなかった。
だが元日の朝というのは農家にとっても例外的な休日で、多少の見回りはするものの、それは暇なときに少し散歩をすればいいだけのことだった。
そのため、誠は普段より遅い時間まで布団の中にいた。寒さに抵抗するために布団の中に籠りながら、誠は昨夜のことをぼんやりと思い返す。
除夜の鐘のこと、佐藤との他愛ない会話のこと。そして、帰り道の公園で見かけた少女のこと。
「……あのコート、もったいなかったかな」
寝ぼけている頭で昨日のことを思い出していると、少女にコートを渡したことを思いだした。
買ったばかりというわけでもないが、そう何度も着ていないコートだった。捨てたと思うにしては少しもったいないものだ。
だが同時に、あのコートで少女を助けることができたのなら十分だという満足感も存在していた。
だが誠は、ふとあることが気になった。それは少女が本当に助かったのかということだ。
虚ろな目。冷え切った手。薄いシャツ一枚で真冬の夜に座っていた、感情の全てが抜け落ちたような少女。
あの少女は家に帰ったのだろうか。帰る場所が、あるのだろうか。
誠はそこで考えるのをやめた。他人の事情に立ち入るのは趣味ではなかったし、既に関係は終わっている。コートを渡して、それで終わりだ。見知らぬ少女の行く先を心配する義理は誠にはない。
そう割り切って布団から起きたが、台所で湯を沸かしながらも、飯を食いながらも、ふとした瞬間に少女の顔が浮かんだ。
なにをしていても少女のことが思い浮かんでくるだなんて、これは恋なのだろうか?
そんなバカなことを考えて自嘲するようにフッと笑った誠だが、少女のことが気になるのも頭に思い浮かぶのも事実。厄介なことであるのは間違いなかった。
――◆◇◆◇――
夜になって、もうやることがなくなり後は寝るだけだとなった誠だが、やはりどうしても少女のことが気になった。
まさか昨日のまま公園のベンチで寝ているのではなかろうか。
一度そんな考えが浮かんでしまっては無視することはできない。誠は一度だけ大きくため息を吐き出すと、軽く着込んでから公園へと向かうことにした。
散歩だと自分に言い聞かせながら歩いていたが、当てもなく歩いているわけではない。目的地が公園であることは最初から決まっていた。念のため確認するだけだ。昨夜の少女がベンチにいるかどうか。いなければそれでいい。それだけの話だ。
公園に入り、ベンチに誰かが座っているのを見た瞬間誠は足を止めた。
「……うそだろ? まさか本当に昨日からずっといたわけじゃ……幽霊?」
昨日と同じ場所に同じように座っている少女。昨日渡したコートは着ているようだが、こんな時間にまた座っているということは本当に一日中いたのではないだろうか。あるいは、本当に幽霊なのではないだろうか。
そんな考えが頭によぎって誠が足を止めていると徐に少女が振り返り、誠と少女の視線が重なった。
誠の呟きが聞こえたのか、あるいは足音か。まさか気配を感じ取ったなんてことはないだろうな、とわずかな動揺を感じながら誠は少女へと歩き出した。目が合ってしまった以上無視するわけにはいかない。
「あー……こんばんは」
少女の様子を確認しに来たは良いが、確認する以上の目的を持っていなかった誠は何と声をかけていいか迷った。だがいくら考えても言葉なんて浮かんでこず、結局昨日と同じようにそっけない言葉しか出てこなかった。
「こんばんは」
少女は昨日と同じようにどこか虚ろな表情のまま言葉を返してきた。
昨日とは違って誠のことをしっかり認識していたように見える。だが、それだけだ。二人の関係は昨日と変わらず、その距離も変わらない。
接点など何もなく、話すことも何もない。ただ公園で出会い、少し話しただけの関係でしかなかった。
「……」
挨拶を終えてしまえばそれ以上話すことなんて何もない。誠は訪れた沈黙の気まずさから視線を彷徨わせ、少女は正面を向きながらもここではないどこかを見続けていた。
誠は何か言葉を発しようとしたがいい言葉が浮かんでこなかった。
元々少女の状態を確認しに来ただけだ。気を使って会話を弾ませる必要なんてない。そう見切りをつけた誠は一度だけ静かに息を吐き出し、昨日のように長居することなく帰ることにした。
「寒いので気を付けてください」
昨日と同じように一言告げてから踵を返す誠。
「ありがとうございます。……あなたも」
そんな誠の背に向かって少女は感謝を告げたが、その後に小さく聞こえた言葉はどんな心境の表れなのだろうか。誠には分からなかったが、なんだか悪い気はしなかった。
翌日も、誠は夜になると公園に向かった。どうして向かったのかは誠自身分からない。ただ、何となく今日もいるんじゃないかと思い、少し確認したくなっただけだ。
そう思いながら公園に行くと、やはりというべきか今日も少女の姿があった。同じベンチに同じように座り、誠の渡したコートを身に着けて。
誠はまた少女に近づいていったが、今回はもう幽霊かもしれないなどとためらうことはなかった。
そうして一言二言言葉を交わし、去っていく。たったそれだけのことだったが、それでいいのだという気持ちがあった。
夜になったら散歩に出て少しだけ言葉を交わす。そんな日々が繰り返され、気づけば一週間が経っていた。
――◆◇◆◇――
少女は毎晩公園に訪れ、誠もまたそんな少女の姿を確認しに行く。
その行動が毎晩であると誠が明確に認識したのは、一週間が経った頃だった。
最初はただの心配だった。いや、今でも誠は少女のことを心配しているのは間違いない。ただ最初のころとは違い、今まで以上に踏み込んだ部分も気になった。
一週間も顔を合わせ続けているのだ。そう思うのも当然のことだろう。
少女はどこに住んでいるのか、ちゃんと食事をしているのか、日中は何をしているのか。家に帰っていないのだろうか。
色々なことが気になるが、誠は少女のことを何も知らなかった。誠がわかっていることは、ただ夜になるとここに来るということだけ。
誠は自分がなぜこうも気にかけているのかを上手く説明できなかった。
元々困っている人がいたら気になったし、できるだけ助けてきた。自分はそういう性分なのだと分かっていた。だが今回はそれだけではないような気がしていた。だがその違いが何なのか、誠自身にもわからなかった。
自分は何かあの少女に特別な感情でも抱いているんだろうか。いいや、ただの惰性……習慣になってしまっただけだろう。
そう考え、誠は緩く何度か頭を振ってから今日もその習慣をこなすために着替え始めた。
だが、その習慣のために公園に行った誠だが、今日はいつもとは違っていた。いつもなら公園のベンチに座っている少女の姿が、今日に限っては存在していなかったのだ。
どうやらずっとこの公園にいるわけではないようだと安心しつつも、今日はいないのかという残念に思う気持ちが誠の中に湧いてきた。
「そもそも、ここで会う約束をしてたわけじゃないしな……」
そう呟きながら、誠は今までは座ってこなかったベンチの真ん中に座り、空を見上げた。空を見上げながら誠はなぜこんなことをしているのか考える。少女の様子を見に来ただけなのだから、いないならいないで構わないはずだ。ああ、いないんだな。そう判断して帰ればいいだけのはずなのに、どうしてか落胆していた。あまつさえ、ベンチに座っている。
なぜ座ったのか。少女の真似をしているのか、少女を待っているのか。誠にも自分の行動の理由はわからない。
「……帰るか」
もしかしたら少女の抱えていた問題が解決して公園に来る必要がなくなったのかもしれない。あるいは、そもそも問題なんてなく、ただ少し変わっただけの子だったのかもしれない。
あの年頃の少女がこんな真夜中に出歩いている方が間違っているのだから、会えなくてもある意味では当然のことだ。
そう思いながらベンチから立ち上がろうと腰を浮かせたその瞬間、望んでいた変化が訪れた。
「こんばんは」
いつも通りの調子で誠に声をかけながら少女が現れた。少女はベンチに座っている誠を一瞥すると、一人分の距離を開けてベンチに座った。
「……ッ。あ、ああ。こんばんは」
立ち上がろうとしていた誠は、ベンチに座った少女を見ながら慌てて挨拶を返した。そして一つ息を吐き出すと再びベンチに腰を下ろしたが、その表情はどこか安堵しているようなものだった。
いつもと同じ時間。いつもと同じ場所。でもいつもと違う光景が繰り広げられている。けれど、二人の関係が変わったわけではない。
いつも通り挨拶をして、沈黙があって。一週間、毎晩繰り返してきた時間と同じものが流れた。
「――今日は、いつもより早いんですね」
そんな沈黙を破るように少女が誠へと話しかけた。いつもは誠から挨拶をしていただけに、少女の方から声をかけられるのは新鮮であり、誠は軽い驚きに目を見開いたが、すぐに頷き、言葉を返した。
「ああ。いや、ええ。……今日も、来たんですね」
誠が問いかけると少女は頷くこともせず、ただまっすぐ前を見ながら答えた。
「他に行く当ても、やることもありませんから」
ぞっとするほど感情が籠っていない声音に、誠は一瞬体を固まらせてしまった。チラリ、と少女のことを横目で見てその様子を伺うが、少女は相変わらずどこか虚ろに感じられる表情をしている。一週間見続けた、何かが抜け落ちてしまったような表情。誠にはそれがいつもより深まったように感じられた。
「――恋人が、できたんです」
少女の様子が気になって横目でチラチラとみていた誠だったが、そんな誠の視線に気づいたのか、少女は徐に話し始めた。
いつもとは違う状況に驚きながらも、その驚きを顔に出すことなく誠は黙って話を聞き続ける。
「高校に通っていて、恋人ができて。幸せでした」
でした、ということは今は違うのだろうかと誠は考えた。それとも単に過去のことを思い出しながら話しているからなのか。少女の声から判断するにはあまりにも感情がなさ過ぎて、誠には判断することができなかった。
「でも、子供ができて……両親に反対されてしまって、それで家出を、したんです」
今日になって突然話し始めた少女の事情。なぜこんなことを話し始めたのかはわからない。そもそも誠に向けて話しているのかすら定かではない。誰かに向けてのものではなく、ただ口から零れているだけの言葉。
それでも誠は一度だけ少女の腹部に視線を向けただけで、それ以上の反応をすることなくただ聞いていた。促すでも遮るでもなく、ただ頷きを返しながら。
「……そうですか」
「新年も、あの人と一緒に過ごしたかった」
その一文だけが、他の言葉と違う密度を持っていたように誠には感じられた。事実を並べるのとは違う、何か個人的なものが滲んでいるような。
そのことが気になり、誠の口からは思わず疑問の言葉が突いて出た。
「……その人は……恋人の方は、どちらに?」
「出稼ぎに行っています。未成年と若い社会人では暮らしていくのは厳しいそうなので」
「出稼ぎ……」
誠はその言葉を繰り返した。繰り返しながら、その言葉の中にある奇妙な距離感を感じていた。
出稼ぎに行っています、という言葉の後に続いた〝厳しいそうなので〟というどこか他人事じみた台詞。まるで言われたことをそのまま受け入れているような、恋人の言葉をまるで自分の言葉のように口にする少女に違和感を覚えた。
「……そう、ですか。大変ですね」
けれど、いくら違和感を覚えたとしてもそれは他所様の事情だ。ただ公園であいさつを交わす程度の関係の自分が下手に踏み込んで良いことではない。そう判断し、誠は余計なことを聞いてしまう前に話を切ることにしたのだった。
重い話を聞いた。誠の中には微かな後悔が訪れていた。少女のことは気になっていたが、だからと言って今日その話を聞くことになると思っていなかった誠は、空を見上げながら背もたれに体を預け、体の横に手を置いた。だがそれがいけなかった。
少女は誠から一人分開けて座っていたが、誠が真ん中に座っていたこともあり二人の間のスペースは通常の〝一人分〟よりも狭かった。そのような状況で少女も誠と同じようにベンチに手を置いていたことによって、偶然お互いの手の小指が触れてしまったのだった。
しっかりと触れあうようなものではない。握っているわけでもなく、重ねているわけでもない。ただ少しだけ、小指の側面がかろうじて接しているだけの微かな接触。普段の誠ならすぐに手を動かして距離を取るところだっただろう。だが、触れてしまった瞬間こそ体を跳ねさせたが、なぜかこの時だけは誠は手を動かさず、少女も動かさなかった。
小指の側面が軽く触れあっているだけ。たったそれだけで少女の肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。呼吸が深くなった。張り詰めていた体の何かが、ゆっくりと弛んでいくような変化だった。
その変化は『魔法』によるものではないか。誠はそう考えた。触れただけで相手の心が安らぐという、誠にとっての呪い。
だとすれば、少女が今感じている安堵は誠という人間ではなく、誠に宿っている魔法がもたらしているものということになる。その考えが、誠の胸の奥にわずかな陰りを齎した。
けれど今はその答えを出す必要はないと考え、誠は余計な思いを消し去るように静かに深呼吸をした。
二人はしばらくその姿勢のまま、夜の公園を眺めていた。いつも通り会話はなく、けれどいつもとは違う状況。
しばらくして少女が手を動かすと、触れていた小指が離れ、そこにあった熱が失われてしまった。
消えていく熱に誠が名残惜しさを感じていると、少女は立ち上がり誠を見つめた。
「寒いので気を付けてください」
いつも誠が少女にかけていた言葉を、今日は少女から誠へとかけられた。
「……ありがとうございます。あなたも気を付けて」
誠はそのことに驚きつつもフッと小さく笑ってから立ち上がり、逆に少女が返していた言葉を真似して少女の言葉に答えた。
誠の言葉に何を思ったのだろうか。少女は小さく頷くとそれ以上は何も言わず、振り返ることもなく去っていった。
誠はその背中を見送ってからベンチを離れて帰路へと着く。
誠は帰り道を歩きながら不思議な感覚を覚えていた。少女と話していた時間のことを、自分が何度も思い返しているということに気づいたのだ。少女の事情。虚ろな声で話していた言葉の違和感。そして、あのベンチの上の小指の側面の感触。
それが何を意味するのかは、誠自身分からなかった。
――◆◇◆◇――
あの夜を境に、誠と少女の関係は少し変わった。夜にあの公園で会うというのも、約束をしていないというのも変わっていない。けれど、少女と誠の間には挨拶以外の会話が生まれていた。
「名前……」
「え?」
「名前を、伺っても構いませんか?」
突然の問いかけに、誠は戸惑ってしまった。自分たちはただ公園で少し話をするだけの関係。それだけだったし、それでよいのだと誠は思っていた。だがもしかしたら、少女はそうではなかったのかもしれない。
「あー……ええ。自分は黒井誠と言います」
そんなことを思い、わずかに戸惑いながらも誠は少女と出会ってから一週間以上たって初めて自分の名を名乗った。
「黒井、誠さん……。私は、白川澪と申します」
口の中で転がすように誠の名を呟いた少女――澪は虚ろな表情でありながらも微かに笑みを混ぜて自身の名を名乗り返した。
今まで話をしていた少女に、僅かながら訪れた変化。それを見て誠は先ほどまでの戸惑いを消し去り、これで良かったのかもしれないと体から力を抜いた。
だが二人とも名乗りはしたものの、それだけだ。澪が自分のことを話したのはあの一度きりだったし、誠も澪自身のことを聞くことはなかった。
「――今日はアパートの近くで猫を見ました」
だが、それ以外の日常のことを口にするようになった。今日の夕方に食べたもののこと。昨日の夜はよく眠れなかったこと。アパートの窓から毎夕方に聞こえてくる寺の鐘の音のこと。
話の内容は断片的で、ひとつひとつは何の意味もないようなものだった。話をしているというよりも、自分の見聞きしたものを親に伝える子供のような言葉。話がとっ散らかっていて、話している途中で別の話題に飛ぶので聞いている方は話を整理するのが面倒になるようなものだった。
加えて、ずっと話しているわけじゃない。少し言葉を口にしたかと思ったら黙り、少ししてから思い出したようにまた話す。
だが誠は、そんな澪の言葉を聞きつづけた。相槌を打つこともあれば、何も言わずに黙って聞いていることもあった。
澪の話に対して意見を言うことを誠はしなかった。いい加減に聞いているから意見がない、というわけではない。ただ、意見を言う必要がないと感じたのだ。
澪は答えを求めているのではなく、ただ誰かと話をしたかっただけなのだろう。話をすることで、この少女は何かを得ているのだろうと誠には理解できたから。
そうして夜に集まり、他愛のない日常の話をする日々は過ぎていった。




