一章『鐘が鳴った夜』
十二月三十一日の夜というのは、不思議な空気を持っている。
一年という時間が終わりに近づいていることを誰もが意識しながら、それでもその実感を上手く摑めないままでいる、妙に中途半端な夜だ。
居酒屋の中ではそれが顕著で、席の半分は普段と何ら変わらない顔をした常連客たちが占め、もう半分は「今夜くらいは」という雰囲気を纏った人間たちで埋まっていた。黒井誠が友人と陣取っているのは窓際のカウンター席で、外には薄く雪が積もった舗道が見えた。
「――でもさあ、ずるいよなあ」
隣の席で佐藤が言った。三杯目の生ビールで顔を赤くした友人は、どこか遠くを見るような目をしながら、カウンターの上で指を組んでいた。
高校からの付き合いであり、今は市内の運送会社に勤めているこの男は、酔うと決まってこういう感じになる。大晦日に限った話じゃない。毎回同じ話をするのだ。
「何がだよ」
誠が短く返すと、佐藤は少し考えてから言葉を続けた。
「お前の魔法のことだよ。握手するだけで相手が警戒しなくなるんだろ。そんなの、ずるいじゃんか。俺が営業で何か月も賭けて築いた取引先との信頼を、お前は一度手を握るだけで作り出せるんだ。どう考えたって不公平だろ」
不満なのか羨ましいのか、どちらとも取れる口調だった。佐藤は酔うとこの話を持ち出す。誠の「魔法」についての話を。
「別に何でもできるわけじゃないだろ」
誠は自分のグラスに残った酒を揺らしながら、さして熱もなく答えた。
佐藤の言うことは事実だ。誠が人と握手をすると、あるいは肩に手を置くなどの接触があると、相手の表情が緩み、体から緊張が抜ける。それは意識的にやっているわけではなく、触れると自然にそうなるのだ。
今に始まったことではなく、子供の頃からそういうことが起きていた。友達が泣いているのを慰めようとして背中を撫でたら、その人が「なんだか気持ちが落ち着いた」と突然言い出したのが始まりだ。幼いころはそれが不思議ななことだとは思わなかったが、小学校高学年あたりになると何かおかしいと理解できた。そして、〝人に触れると相手の気持ちを和らがせる〟ことができる不思議な力――『魔法』が宿っていると結論づけた。
だが、魔法と佐藤は言うが、誠自身はその言葉を好まなかった。なぜなら、魔法と呼べばまことにとっては呪いのように感じられるこの力が、まるで良いもののように思えてしまうから。
「俺は別に、それで得したことなんてほとんどないけどな」
「嘘つけ。なんかあるだろ。農協とかスーパーとかに卸す時にだれかしらと話すだろ」
「話したとしても、話すだけで一々握手なんてしないって。触るにしても、いきなり肩を触ったりしたらただのヤバい奴だろ」
「……まあ、それはそうか?」
「そうだよ」
佐藤は納得したのかしていないのか分からない返事をして、また生ビールを頼んだ。まだグラスの中身が残っている誠は、それをちびちびと少しずつ飲みながら窓の外へと顔を向ける。外の雪がわずかに強くなってきた気がした。
――◆◇◆◇――
午後十時半。いつもの二人にとってはまだ解散するには少し早い時間だが、誠たちは注文を止めて会計をすることにした。
「じゃあ、除夜の鐘でも突きに行きますか」
店を出た後、寒風に震えながら佐藤がそう口にすると、誠もその言葉に頷いて歩き出した。これも毎年のことだ。この近くにある寺に行き、三十分ほど待ってから除夜の鐘を鳴らす。それから解散するのが毎年の流れだった。別に、何か特別な理由があるわけじゃない。これもただ単純に、昔からの流れだったからやっているだけ。
最初はどちらが言い出したのか、もう二人とも覚えていない。佐藤が興味本位で行こうと言い出したような気もするし、誠が自分の魔法のことで恨み言を言いたくて始めたような気もする。だが別にそれで構わなかった。
誠は佐藤とタクシーに乗って寺まで向かうことにしたが、移動している最中、誠は自身の人生を振り返っていた。
今の誠の年齢は三十歳。親の後を継いで農家をやっている。親は既に高齢だが、誠が農家を継いだことで安心していた。別に誠は農業に情熱を持っていなかったが、それでもよかった。どうせ他にやることもやりたいこともなかったんだから。農家もやりたかったというわけではないが、親の家業を継ぐことは自然な流れだったからやることにしただけ。
生活できていればそれでいい。誠はそう考えていた。
野心はない。特に成し遂げたい目標もない。人生の先に何があるのか、知りたくもない。ただ、毎日を過ごす。その繰り返しだ。
友人の佐藤は毎日を慌ただしく生きているように見える。だが誠は、その慌ただしさに憧れることはない。むしろ、そのような人生は面倒くさいと思っている。
人生はめんどくさい。人とのかかわりも、責任も、感情の起伏もめんどくさい。時折呼吸することさえ億劫に感じることがあるほど誠は人生を捨てていた。
それもこれも、全ては魔法のせい。
そんな思いを口にすることはないが、それでも思わずにはいられなかった。
――◆◇◆◇――
除夜の鐘を突く場所にはそれなりに人が集まっていた。田舎の端にあるような小規模な寺だが、それでも除夜の鐘を突きたいという人はいるようで毎年鐘の前に列ができる程度には集まっている。
誠たちは他の客と同様に列に並び、鐘の音と共に少しずつ前に進んでいく。
そして佐藤が鐘を鳴らし、誠の番がやってきて鐘の紐を握った時、新年の瞬間が近づいていることを実感した。だが、それは特に感慨深い瞬間ではない。毎年同じ。また一年が始まるのだ。特に期待することもない。特に不安になることもない。ただ、淡々と新しい年を受け入れる。
誠が鐘を突くと、ゴーンという低く響く音が夜の空に響き渡る。そして余韻も何もなくその場を離れ、次の人に番を渡す。
少し離れたところに移動した誠は、鐘を見つめつつ夜空に響く鐘の音に耳を傾けていた。なぜだかいつもと同じ流れ、いつもと同じ行動のはずなのに、今日の鐘の音はいつもとは違っているように聞こえたのだ。
なぜだろう。気のせいだろうかと考えていると、佐藤が口を開いた。
「じゃあ、ここで解散だな」
「ああ。気をつけて帰れよ」
そうして誠は佐藤と別れ、帰路に就くことにした。
家までの帰り道、二十分ほどはあるその道を、鐘の音に耳を傾けながらゆっくりと歩いて帰る。
酔いが適度に回っている状態で夜の冷気の中を歩くのが、誠は昔から嫌いではなかった。頭の余分なものが少しずつ洗い流されていくような感覚があったからだ。
帰路は公園を抜けるのが最短ルートだった。日中であれば子供連れの親や散歩をする老人がいる、そこそこ広い公園だが、大晦日の夜は当然人気がない。街灯の光が雪を反射して、昼間とは異なる種類の明るさを作っていた。
三十歳になったばかりの誠には、大晦日の夜に特別な感慨というものがなかった。去年もそうだったし、おそらく来年も同じだろう。農家という仕事は暦よりも季節で動くもので、新年を迎えたからといって作物が急に伸び始めるわけでもなく、霜が急に降りなくなるわけでもない。一月一日は三百六十五日の一つに過ぎず、その日が特別である理由を、誠はあまり実感として持てなかった。月曜日も金曜日も日曜日も、どれも一緒。何も変わらないただの一日でしかない。
壮大な夢があるわけでもなく、逃げ出したい日常があるわけでもなく、ただ農家の仕事を続けていた。それは苦ではなかった。土を触っていると頭が空になる感覚があって、それが誠には心地よかった。今年も、来年も、おそらくその先も、同じように土を触って生きていくのだろう。そのことへの不満はなかった。
公園の中ほどまで差し掛かったとき、誠の視界の端に何かが引っかかった。
公園の中央付近に据えられたベンチに、人が座っていた。
大晦日の夜中の公園で一人でいる人間というのは、それだけで少し異質だった。だが視線を向けた誠が最初に思ったのは、そういう社会的な観察ではなく、もっと単純な驚きだった。その人物は微動だにしていなかった。雪が降り始めているにもかかわらず、体の向きも変えず、俯いた顔の角度も変えず、まるで彫刻のように座っていた。
――幽霊か?
笑い話のような発想だったが、見た瞬間に誠の頭に浮かんだ言葉は確かにそれだった。人間があの状態で動かないことに、何か反自然的なものを感じたのだ。酔いが見せる幻覚かとも思ったが、もう一度目を細めてみると、確かにそこに輪郭がある。雪の中で微かに白く見える上半身は、コートではなく薄手のシャツだった。
気づけば誠は足を止めていた。
正直なことを言えば、そのまま歩き続けようとした。深夜の公園で知らない人間に近づくというのは、どう考えても面倒事の入り口だ。酔っ払いかもしれない。情緒不安定な人間かもしれない。あるいはほかに厄介ごとの種なのかもしれないのだから、止まらずに歩き続けた方が良い。
そんなことは誠自身分かっているはずなのに、それでもなぜか足を止めてしまっていた。
どうして足を止めてしまったのか。そう考えた直後、その人物がベンチから崩れるように傾いた。
崩れる、という表現が正確かどうか分からないが、少なくとも誠にはそう思えるような倒れ方をしていた。
意識がないのか、あるいは意識があっても体を支える力を失っているのか。どちらにせよ、視線の先にいる人物が倒れたということだけは確かだ。
誠は足が自然に動いていた。面倒くさい、という気持ちが消えたわけではなかった。ただ、目の前で人が倒れたのを見て止まっていられる人間ではなかった、それだけの話だった。
近づいてみると、その人物が思っていたよりずっと若いことが分かった。少女と呼んでいい年齢だった。高校生か、せいぜいそれより少し上か。
雪が積もり始めた髪は黒く、雪が降っている冬真っただ中であるにもかかわらず薄手のシャツを着ているだけ。どう考えても異常だ。
ベンチに倒れこんでいる少女は悲しいことでもあったのか、両手で顔を覆っているが、その手はまるで自分の顔に爪を立てるかのように曲げられていた。
「あの」
微かなためらいの後に誠が声をかけると、その少女はゆっくりと手をどかして誠のことを見上げた。
その表情を見て、誠はなんと表現すべきか分からなかった。虚ろ、という言葉が一番近いかもしれない。涙を流しているわけでも、苦痛に歪んでいるわけでも、酔っているわけでもなかった。ただ、そこにある感情の全てが抜け落ちたような顔だった。先ほど爪を立てるような形で顔を覆っていた手は、本当に詰めを立てていたのだろう。顔にかすかに残っている詰めの後が痛々しさを感じさせるが、どうじに不気味さも醸し出していた。
少女と誠の目が合った。だが、その目は誠の存在を認識しているのかどうかも分からない。
「大丈夫ですか」
大丈夫なわけがない。分かっていながらも、誠はそう問いかけるしかなかった。
少女はすぐには答えなかった。視線が誠の顔の上で揺れ、少し時間をかけてからゆっくりと体を起こしだす。
「……はい」
少女の声は小さく、掠れていて聞き取りづらいものだった。
絶対に嘘だ、と誠は思ったが、それを口に出すことはせず、誠は少し考えてから自分のコートに手をかけた。
「あー……使いますか」
誠自身愛想のない言い方だと思ったが、他にどう言えばいいか分からなかったのだから仕方ない。
誠のコートは決して高級品というわけではないが、それでもこの寒空の下でシャツ一枚でいるよりはよほどマシだろう。
なぜこんなことをしているのか、誠自身よくわからなかったが、このまま見なかったふりをした場合、翌日のニュースでこの少女のことを見ることになるかもしれない。それを嫌ったのだろうと結論付けた。
少女は差し出されたコートを見るとゆっくりと手を伸ばした。このような状況で突然コートを差し出されたら断るか、そうでなくとも戸惑った様子を見せるものだろう。だが、少女は迷うことはなかった。迷う迷わない以前に、考えるという機能が抜け落ちてしまったかのような、差し出されたから反射で受け取ったというような無気力さが少女に満ちていた。
少女が手を伸ばしてコートを受け取ろうとした、その瞬間――二人の手がわずかに触れた。
それは本当にわずかな接触だった。誠の手と少女の手が、コートを受け渡す動作の中でほんの一瞬だけ触れ合っただけだ。
だが、誠にはその瞬間に少女の体が微かに跳ねるのが分かった。自分もおそらく同じような反応をしていただろうとも。触れた事への驚きと、触れてしまったことへの後悔によって。
誠の心の内など知らぬ少女は、コートを受け取り自分の肩にかけた。
その薄い肩が小刻みに震えていることに、誠はその時初めて気がついた。ずっと震えていたのか、それともコートを羽織ったことで今まで寒かったことをようやく理解したのか。
コートを纏うと、少女の震えが少しずつ収まっていくのが見えた。体から力が抜けていく様子は、ただの寒さではなくそれ以外の何かも体から抜けていくように見えた。
「ありがとう、ございます」
少女の声はさっきよりはわずかにしっかりしたものだったが、やはり掠れていた。
そうして二人の間に無言の時間が訪れた。
誠はベンチに座ることなく立ったままどうすべきかを考えていた。
立ち去るべきなのだろう。コートを貸し、礼も言われた。ならそれ以上に自分にできることはない。所詮自分は事情も知らぬ他人なのだから、と。
大晦日の夜の公園で見知らぬ男が傍にいるのは、少女にとっても気味が悪いだろう。ここで立ち去るのがお互いにとって面倒がないはずだ。
そう思ったにもかかわらず誠の足が足が動かなかったのは、少女がまだあの虚ろな表情をしていたからだ。コートを纏って体の震えは幾分か収まったが、その目に宿る空白は変わっていなかった。何かを見ているような、何も見ていないような、どちらとも言えない眼差しのまま、少女はベンチに座り続けていた。
夜風が吹いた。公園の木々が揺れ、積もりかけた雪が枝から落ちる。
どこか遠くから、低く重い音が聞こえてきた。除夜の鐘だ。
少し前まで誠も衝いていた鐘だろうか。あるいは他の寺のものだろうか。先ほどまでは特に気にならなかったのに、静寂が訪れた今は不思議とよく聞こえてきた。
一つ、また一つと、間隔を置いて響いてくるその音は、誠には特別な感慨をもたらすものではなかった。煩悩を払うと言われるその鐘の音を聞いても、誠は自分の中に払うべき煩悩がどれほどあるのか実感が持てなかった。新しい年に期待することも、古い年を惜しむことも、誠にとってはどちらも薄かった。暦上における一つの区切りが訪れたのだという事実だけが、音として空気を震わせていた。
そんな鐘の音が少女の耳にも届いたのだろう。徐に少女が顔を上げた。
虚ろな眼差しをした顔が挙げられたことで、誠は初めて少女の顔をしっかりと見ることができた。
年齢よりも幼く見えるような柔らかい輪郭と、しかし子供のそれとは違いどこか疲弊しているような虚ろな様子を同時に宿している顔。そのちぐはぐな印象のせいで、誠にはその少女の年齢が上手く摑めなかった。
鐘の音が続く中で、少女は何も言わず、誠も何も言わなかった。
奇妙な状況だ。見知らぬ二人が夜の公園で除夜の鐘を聞いているという状況の不思議さを誠は認識していたが、その場を動こうという気にもなれなかった。
少女の様子が気になっていたというのは間違いない。心配だったと言えばそれまでだが、それだけではない何かが誠の足を引き止めていた。うまく言葉にはならない、ただの直感のようなものだった。
「……あけまして、おめでとうございます」
不意に、少女がか細い声で新年のあいさつをした。
その言葉に誠はわずかに驚いた。今は新年になったばかりなのだから、言葉としては間違っていない。だが新年のあいさつをするには二人の状況も関係も、何もかもが間違っている。
「……あけましておめでとうございます?」
誠自身よくわからない状況ではあったが、あいさつをされた以上は返すべきだろうと思い祝いの言葉を返したのだが、そこでようやく少女の眼差しは誠のことをとらえたような気がした。
「年が、明けてしまいましたね」
まるで知り合いに話しかけるようでありながら、独り言のようでもある空っぽの言葉。
「そうですね」
少女の言葉に応えるべきかどうか悩んだ誠だったが、わずかな逡巡の後に誠は答えた。気の利いた言葉が出てこなかったが、それでもよかったのだろう。あるいは、やはり初めから答えを求めての言葉ではなかったのかもしれない。
「どうしてでしょう……」
その言葉が意味するところを誠は理解できなかった。どうして年が明けてしまったのかという哲学的な問いなのか、それとも何かもっと別の事柄に対しての言葉なのか。誠ははんだんがつかず、ただ黙っていることしかできなかった。
また静寂が戻ってきた。鐘の音はまだ続いていたが、その響きの間隔分だけ、二人の間に沈黙があった。
ここで去るか否か。悩んでいた誠は何となしに空を仰ぐと、気づけば雪はやんでいた。依然として寒さが肌を刺すが、今はその寒さがありがたいと感じられた。この寒さがなければ、今目の前にある沈黙から気を紛らわせることもできなかっただろうから。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。自分の出来ることはもう終わっているのだから、さっさと帰ろう。そう考えて踵を返そうとした瞬間、少女が口を開いた。
「寒くは、ありませんか?」
帰ろうとしていたところにかけられた突然の問いに、誠はとっさに答えることができなかった。
「……慣れてるから平気ですよ」
どうにか考えて出てきたのは、やはりそんなそっけない言葉だった。
「そうですか」
少女は小さく頷いた。その頷きが何に対してのもので、少女が何を感じているのか誠には読み取れなかった。ただ、確かに誠の言葉を聞いていることは確かだった。
誠は改めて少女を見る。少女は顔を上げているが、その視線が誠を見ているのか、それとも空を見ているのか、あるいはここではないどこかを思っているのか。虚ろなその視線からは何も読み取れなかった。
この少女はどんな事情で一人でここにいるのか。少女を見ていたら改めてそんな考えが頭に浮かんできたが、誠がその問いを口にすることはなかった。
「夜道に気をつけてください」
今度こそ帰ろう。そう決めた誠は少女に忠告をしながら踵を返した。
「……コートを」
背を向けた誠に、どこかためらいがちな少女の声がかけられたが、それでも誠は止まることなく歩き出した。
「手間になるかもしれませんが、適当に処分してください」
もとより返してもらうつもりなどなかったというのもあるが、ここでコートを回収してしまえば、少女はまた寒空の下に薄着一枚で放り出されることになる。そのせいで翌日のニュースに乗ってしまえば、誠がここで寄り道をした意味がなくなってしまうのだからコートを回収するわけにはいかなかった。
「……ありがとうございます」
去っていく誠の背中を見ながら、少女はもう一度感謝を口にした。
だが今回は、最初に礼を言ったときよりもわずかだが声に少女の意思が乗っているように聞こえた。
誠はそれに一度だけ頷き、そのまま歩き続けた。
公園を抜けながら誠が振り返ると、ベンチの少女はまだそこにいた。コートを肩に羽織ったまま、背筋を少しだけ伸ばして星空を見上げていた。
その姿は最初に見た時よりもしっかりしたものに見え、その姿に小さな満足感を得た誠は再び前を向いて歩き続けた。
帰りながら誠は、家に辿り着くまでの間あの少女の顔を何度か思い出した。虚ろな目。薄い肩。痩せた頬。そして、かすかに触れた手の冷たさ。
なぜあの少女はあそこにいたのか。どこへ帰るのか。そもそも、帰る場所があるのか。
答えは何も分からないまま一年が終わり、また新たな一年が始まった。




