八章『考え続けた夜』
夏を過ごし、秋が過ぎ、稲の収穫も終わって秋が終わろうとしていたその日は、珍しく作業が早く終わった。
夏野菜の片付けが大方済んで、あとは秋野菜を収穫するだけだが、秋野菜は夏のものとは違って毎日収穫しなくてはいけないようなものではない。そのため、やることさえやってしまえばあとは暇な時間も多かった。
やることがなさ過ぎて、誠と澪は二人で近くにあった箱に腰を下ろして畑を眺めているほどだ。
もうそれほどやることなんてないし、これからは今のように暇な時間が多くなるかもしれない。そうなったら澪は退屈するかもしれないな。などと誠は考えながらチラリと横目で澪を見る。
すると、丁度誠のことを見ていた澪と目が合い、徐に澪が口を開いた。
「誠さん……。好きです。付き合ってください」
突然告げられた澪からの告白。その言葉に誠はすぐに反応することができず、ぼうっと呆けた顔を晒してしまう。
聞こえなかったわけではない。意味が分からなかったわけでもない。ただ、驚きから自分の中で処理するのに頭が追い付かない。
仕方ないと言えば仕方ないことだろう。こんな何でもない状況でいきなり告白をされるなんて誰も思わない。
驚いたのは確かだった。だが驚きと同時に、何かもっと冷たいものが誠の中に流れ込んできた。腹の底が少し冷えるような、そんな感覚が。
澪の言葉が本当に言葉通りの意味なのかどうか、誠には判断がつかなかった。
好きだと言われた。だがそれが、誠という人間そのものに向けられたものなのか、それとも違う何かなのか――それがわからない。
誠自身、これまで好かれてもおかしくない行動をとった自覚はある。けれど、誠にとってはそれらの行動は気まぐれであり、罪滅ぼしであった。澪を愛していたからというわけではない。
それに、誠には魔法がある。澪と初めて触れた夜から積み重なってきた、あの接触の数々。もしあれが、澪の感情を歪めてしまっていたのだとしたら。
いやに乾く唇をなめ、軽く湿らせてから誠は意を決して口を開き――
「――ダメだ」
澪の言葉を拒絶した。
短い言葉だった。喉の奥から絞り出すような、誠自身も思っていたよりずっと固い声が出たことに驚いたが、それでも答えは変わらない。
だが言葉を口にした直後、これまで澪に対して一度も口にしたことのない種類の拒絶だったということに、誠は気がついた。これまで誠は澪に何かを与える側だった。求められたものを拒んだことは、一度もなかった。
「……どうしてですか?」
澪は驚きに目を見開き、視線を彷徨わせた後躊躇いがちに問いかける。
責めるような口調ではない。ただ純粋に、分からない、という様子を見せている。その声の柔らかさがかえって誠の胸を締め付けた。
誠はどう説明すればいいのか考えながら、視線を澪から畑の方へ逃がした。
本当の理由は、言えない。言ったところで信じてもらえないだろうし、下手な言い訳として傷つけるだけになるはずだから。
「俺は、お前の依存先になるつもりはないからだ」
澪を見ないまま出てきたのは、誠の中でずっと燻っていた疑いを覆うための言葉だった。
「お前が俺を求めているのは、俺という個人じゃなくて『支え』としての役割なんじゃないかと思う」
言いながら、誠はこれは完全な間違いではないだろうとも思っていた。
澪の事情を知っている誠としては、恋人に去られたという事実を澪はまだ受け入れきれていないのではないかと思えてならなかった。誠を新しい恋人にすれば、捨てられたという形を、また別の誰かで上書きできる。自分は幸せなのだと自分に言い聞かせることができる。
そう考えてしまう自分に、誠は嫌悪感を覚えた。澪の好意を疑うことは、澪という人間そのものを疑うことのように思えたから。だが、考えるのをやめることもできなかった。
澪を見る誠。澪はまだ誠を見つめていた。その目に嘘があるようには見えない。だが、だからこそ誠は恐ろしかった。澪自身でさえ捻じ曲げられたことに気づいていないだけなのかもしれないから。
「もう少し状況が落ち着くまでよく考えた方が良い」
いかにも真っ当そうな言葉を口にして、誠は自分の不安を隠して逃げた。
言葉を口にした誠は、不意に自分の手のひらを見た。土の匂いが少し残っている、農作業に使い込んだ手だ。これまでこの手で澪に触れてきた。小指を寄せ合い、米を渡し、肩を抱いた。その全ての記憶が、今この瞬間、急に意味を変えてしまうかもしれないという恐れが誠の中にあった。
簡単なことだ。今までと同じように生きるだけでいい。今までは澪の状況を知って見捨てられなかったのと、自分のせいで追い詰めてしまったかもしれないという罪悪感があった。だが澪はもうだいぶ回復してきた。後は今まで通り、ほどほどの距離感で過ぎ去っていく関係に戻ればいい。
「――違う」
誠が自分と澪との関係について考えていたところで、まっすぐ誠のことを見つめ、膝の上の手を強く握りしめながら澪は言った。
「わ、私はっ……本当に誠さんが好きなんです!」
その言葉に誠が反論することはない。だがやはり澪の言葉をすぐに信じ切ることができなかった。
澪の声には熱があった。だがそれが本物の感情から来ているのか、それとも何かを守るための必死さから来ているのか、誠には区別がつかない。
澪の目に涙の気配があった。だがその涙が今にもこぼれそうなまま留まっているのを見て、誠は顔を背けながら口を開く。
「まだしばらく時間が経ってからもう一度同じことを言ってくれるなら、その時は俺も考えるよ」
何も言わずに放っておくことはできなくてそう口にした誠だったが、言いながらどうして自分はこんなことを言っているのかと疑問が頭を埋め尽くした。澪との距離を取るつもりならこんなことは言う必要はなかった。慰めどころかむしろ、こんな期待を持たせるようなことを言うなんて残酷なことだ。
だがそう言った誠の中には、どこかホッとしている誠もいた。
だからだろうか。誠は畑の方を見ていた視線をもう一度澪に戻してから口を開いた。
「もう一度考えろ。本当に俺のことが好きなのか。それとも、俺を使って自分の心の穴を埋めようとしているのかを」
澪は何も言わなかった。視線を膝の上に落としたまま、しばらく動かなかった。
誠はその沈黙の中に、何かが届いたのか、それとも何も届かなかったのか、判断する材料を持たなかった。暑さが和らぎ、季節が変わりゆく中で、二人の関係もまた変わろうとしていた。それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは本人たちもまだわからないまま。
しばらくして誠は立ち上がった。膝に軽く手をついて立ち上がる。たったそれだけの動作が、いつもより重く感じられた。
「今日はもう終わりだ」
それだけ告げて、誠は仕事道具のかたづけを始めた。
澪は動かないままじっと誠の姿を見続けていたが、そんな時間も長くは続かない。片づけを終えてしまった誠に促され、澪は車に乗って家へと送り届けられた。
車に乗っている最中の会話は無い。いつもはちょっとした出来事や疑問なんかを話していたが、今は一言も言葉を交わすことはなかった。
そうして言葉がないまま車は澪のアパートの前に辿り着き、澪はいつものように送ってもらったことに感謝を言いながら去っていった。
そんな澪の背中が誠には小さく見えて、途端に胸が痛くなった。
拒んだことが正しかったのかどうか、誠には分からない。澪を傷つけたことは間違いない。だが傷つけずに済む言い方があったのかと考えても、誠にはそれ以上の言葉が見つからなかった。
その夜、誠は一人になってから、何度も今日の自分の言葉を思い返した。
――もう一度考えろ。
あるいは、それは澪ではなく自分に向けた言葉だったのかもしれない。
自分は澪のことをどう思っているのか。本当に魔法のせいだと思っているのか。魔法の影響があったとして、自分はどうしたいのか。
そんなことを考えながら、答えが出ないまま誠は一日を終えていった。
――◆◇◆◇――
白川 澪
きつい言葉だった。けれど、完全に間違いではないのかもしれないと思う自分もどこかにいた。
告白をした日から、誠と澪の間に距離が生まれた。
距離といっても、会わなくなったわけではない。誠は変わらず朝になると迎えに来たし、澪もその迎えを断ることはなかった。
だが確実に以前とは何かが違った。二人の間にあった空気の質が変わり、言葉を交わす時に以前はなかった一拍の間が生まれるようになっていた。
澪はその距離を、誠が自分を嫌ったからだとは思わなかった。
嫌ったのなら、仕事場に来ることを断るだろう。公園で会った時に話しかけてくることもないだろう。誠は変わらず話しかけてきたし、作業についても指示を出してくれた。声を書ければ普通に答えてくれもした。
ただ、以前よりも少しだけお互いに顔を合わせることを避けているような気配があった。意図的にというよりも、自然にそうなってしまっているような。
秋が終わり、冬になった。
農作業の量が減り、澪が仕事場に行ってもやることがない時間が増えたある日のことだ。
「明日は……朝の迎えはいりません」
「……そうか」
突然切り出した澪だったが、誠は少しだけ瞑目してから頷いた。もしかしたら、誠からも似たようなことを切り出そうとしていたのかもしれない。
夏は毎日誠の仕事場に訪れていたのに、週に三日となった。それが二日となり、今では週に一日だけとなっていた。
それでも完全にゼロにはならなかった。誠が来てもいいと言っていたし、澪も行くことをやめる理由がなかったから。だがそれでも、確実に二人の距離は開いていた。いや、あるいは元に戻っていただけなのかもしれない。何の関係もない、見ず知らずの他人という関係に。
誠が迎えに来ない日は、澪はアパートで過ごしていた。以前のように布団に横たわったまま天井を見ているのとは違い、本を読むという普通の生活を送っていた。誠の仕事場に通うようになってやめていた内職の作業も再開した。誠の仕事を手伝ったことでいくらかの手当をもらっていたし、米や野菜をもらっていたから食べていく分には問題ない。けれど手持無沙汰ではあったし、生きていく以上お金はいくらあってもいいものだから少しでも稼いでおいた方が良いだろうと考えたのだ。その結果がバイトではなくまた内職というのは、澪の中で知らない世界に飛び込むことへの恐れが勝ったからだろう。
内職をし、たまに誠の仕事場に行くという日々を送りながら、澪は誠に言われたことを考え続けていた。
誠を使って心の穴を埋めようとしている。
何とも酷い言葉だと澪は感じた。自分はそんなつもりなんてないのにどうしてそんなことを、と後になって誠への憤りが生まれた。
けれど、ずっと考えていたらその言葉も間違いではないのかもしれないと思えてしまった。自分は本当に誠に対する想いだけを込めて告白したんだろうか? 誠の言ったように、何かの代わりとして誠を選んだだけではないだろうか?
そんなことはない。そう思う澪だったが、ずっと確信は持てずにいた。
けれど澪は逃げることはなかった。この問いに向き合わなければ、自分は先に進むことはできないのだから、と。ずっとずっと、考え続けた。
――◆◇◆◇――
葛木のことを、澪は改めて考えた。
葛木のことを好きだったのか。今となってはその問いへの答えが、以前ほど単純ではなかった。好きだったのは本当だ。だが何が好きだったのかを考えると、答えが少し変わってきた。
葛木といると、自分が知らない世界を見せてもらえる気がした。学校という閉じた場所の外に、別の世界があることを感じさせてもらえた。葛木が自分に話しかけてきた時の非日常が自分に近づいてきたような感覚。それが好きだったのかもしれなかった。
では葛木という人間が好きだったのか。その問いに澪はすぐに答えられなかった。
澪は葛木と話をしていた時のことを思い出した。優しく頷き、文句も何もなく話を聞いてくれていた。あの時は楽しかった。そのはずだ。けれど、その内容は何一つとして思い出せなかった。楽しかったはずなのに、嬉しかったはずなのに、葛木と何を話したかといわれると何一つ会話が思い出せない。日常なんてそんなものだと言われればそれまでかもしれない。
けれど、今にして思えばどこか空返事だったのではないかと澪には思えてきた。空っぽの笑みを浮かべて、上辺だけの話をしていただけで、自分んは本当に〝会話〟をしていたのだろうか。そんな思いが湧いてきた。
けれど誠は違う。葛木と同じで優しく頷き文句も言わずに聞いてくれたが、誠との会話はちゃんと思い出すことができた。
好きなもの嫌いなもの。小さなころの思い出に、何となしに見た街並みについて。全てを覚えているわけではない。けれど、葛木と比べてずっと多くの記憶が……思い出があった。
その違いを理解した時、澪は少しだけ自分の気持ちの輪郭が見えてきた気がした。
――◆◇◆◇――
秋も終わり、十二月となったある夜。澪はいつもの時間よりも早くに公園を訪れ、一人で歩いた。公園を歩き回り、いつもはベンチからしか見ていなかった草木を近くから眺めながらいろいろなことを考えた。
しばらくしておおむね見終わった後はいつも通りベンチに座った。
冬の夜気は冷たく、コートを着ていても合わせ目から風が入ってくる。
期待していたわけではないが、それでも澪はいつかのようにベンチに手を置いたが、手を置いたベンチからは冷たい気の感触が返ってきただけ。
それもそのはず。隣に誠は座っておらず、小指が触れるような相手はいないのだから。
その空白を見て、澪は自分の中にあるものを確かめた。澪の内には誠がいないことへの寂しさがあったが、だがそれだけではなかった。
寂しいからではなく、純粋に誠という人間に会いたいという気持ちが確かにあったのだ。
誠の話し方、誠の気遣い、誠が作業をしている時の後ろ姿。そういった誠という人間の全てに、澪は引き寄せられていた。
依存と愛情の違いを、澪はこの冬の間ずっと考えてきた。今だ完璧に答えが出たわけではないけれど、それでも少しずつ分かってきたことがあった。
依存は、自分が満足するためのもの。誰かのそばに居ることで自分が充足感や安心感を得る、自分のための都合のいい想い。
だが愛は、自分ではなく相手のためのもの。誰かのことを心から幸せになってほしいと願う気持ちを愛と呼ぶ。恋人や告白というのは、蒼の愛を向ける相手を幸せにするのが自分であってほしいという欲が混じったもの。
愛と異存は似ている。感情やそれを表現する行為が被る部分もある。
けれどその二つは本質が違う。依存とは違いその相手を別の誰かに置き換えることができない唯一の想い。それが愛なのだと澪は考えた。
自分が求めているのは本当に誠でなければならないか。
その問いに、澪は今度は迷わずに答えられた。
誠でなければならなかった。誠の言葉でなければならなかった。誠の背中でなくてはならなかった。誠の隣でなければならず、誠の振る舞いでなければならない。
それは誰かに置き換えられるものではないのだ。
そうして自分の想いを確かめた澪は、空を仰ぎながら深く深く息を吐き出した。ベンチに置いた手が冷たい。澪は立ち上がってコートの前を合わせた。初めて誠と出会った時にもらったコートは、今もまだ温かい。
もう一度、伝えよう。
澪は自然とそう思えた。誠が言っていた。まだしばらく時間が経ってからもう一度同じことを言ってくれるなら、と。その時間がどれくらいなのかは分からなかったが、澪には自分の中で何かが整理されるまでという意味だと感じられた。
自分の気持ちは確認できた。けれどそれを言葉にして整理するにはまだ少し時間がかかる。
だから、春が来たら言おう。澪はそう決めた。自分が十八歳になる春に、もう一度。
それで断られたのなら仕方ない。その時はおとなしく今の関係を続けよう。断られたとしても、誠を愛しているという自分の心が変わるわけではないのだから。
それまでもう一度、自分の気持ちを確かめ続けよう。澪はそう決意した。
「こんばんは」
「こんばんは、誠さん」
そうしていつも通りの夜が始まった。
誠は澪の隣に座り、澪は自身の想いを秘めたまま笑いかける。
――春まで待とう。
その決意が、誠と話しながら澪の中に静かに根を張っていった。
根を張り、いずれ芽を出すかもしれないその想いを抱えながら、今はただいつもの夜が過ぎていく。
冬の夜風は冷たかったが、澪の胸の奥には小さな温かさが残っていた。




